21 手触り

 橙色の光が天幕の中を照らす。軍議用のそこは強いオレンジ色の世界で、机に伸ばされた手と、それを覗き込むような影が卓上に広げられた地図に濃い影を落としていた。

 部隊を二つに分ける。しかも本隊を実戦に出て間もないエリンシアに指揮させようというのだ。数日前から入念な会議、打ち合わせが続き、出撃を明日に迎えていた。現在所用で軍師が席を外しているが、アイクとエリンシアの二人で明日の兵士の配置、進軍ルートの確認、と最終的な確認をしていた。アイクの言葉のひとつひとつにエリンシアは強く頷く。

 「怖いか?」

 ふいに顔を覗き込まれ、エリンシアの心臓は一度大きく鳴った。

 「は、はい。未だ実戦ですら恐ろしいのです・・・・・」

 エリンシアはその視線から逃れるように俯いた。本陣で皆の無事を祈りながら襲って来る不安とは全く違う。戦場に出る、と自ら言ったのを後悔した事も幾度かあった。だが、その度に自分を奮い立たせ、立たせられてきた。

 「戦場に出てまだ日が浅いからな。指揮官と言っても遠慮なく周りを頼るんだ。傭兵団もな、親父が死んだばかりの頃はティアマトが団長だと思われる事が多かったんだ」

 「まあ・・・」

 「今でも団長だ将軍だ、なんて言われているが自覚はあまりないんだ」

 ぼんやりとした色の灯のせいだろうか。アイクの表情が少し柔らかくなったと、エリンシアは思った。

 「だから・・・」

 エリンシアにかかっていた大きな影が徐々に近付いて来た。

 「・・・・?」

 軍議用の大きな机の上にエリンシアは背を強く打ち付けた。だが、その痛みよりも自分にのしかかる重みの方が苦しかった。戦略を立てる際に使用していた駒が、乾いた音を立てて散らばった。

 「アイク様ッ・・・!?いけません!このような・・・っ」

 まさかこんな事になるなんて。アイクはこんなにも積極的だったのか。いや、いくら何でも順序というものがあるのではないのか。それにセネリオが帰って来たらどうするのか、大切なこの時期に、こんな事が皆に知れ渡ったらーーー

 エリンシアの中で、焦りと恐怖、羞恥心、様々な感情が渦巻いていた。首筋や耳朶にじわりと伝わるアイクの体温、自分の胸で感じるアイクの厚い胸板。そしてアイクの身体の重さ。身体が熱い。全身の血が逆流しているようだった。

 「ア、アイク、さま・・・・・・?」

 しばらくしてもこの体勢のままアイクは動かなかった。その上何も言わない。エリンシアは高鳴る鼓動を抑えてアイクの顔を見やった。

 寝ていた。

 「・・・・・・・」

 寝息が聞こえるとエリンシアは徐々に落ち着きを取り戻した、と同時にほんの少しだけ胸をかすめた感情を後悔した。この将軍が朴念仁にも程があることを思い出した。期待するだけ馬鹿を見るのだ。気が付けば天幕の外で明日の準備をしているはずの兵士たちの声が聞こえなくなっていた。もうかなり遅い時間なのだろう。だとすれば全体重を自分に預けている将軍にもしっかり休んでもらわなければ。しかし、エリンシアがどんなに呼び掛けても身体を揺すってもアイクは起きようとはしなかった。エリンシアの力ではアイクの身体の下から逃げる事すらままならない。誰かを呼ぼうか、と考えたが、この状況では妙な誤解をされかねない。特にクリミア騎士に見られてしまったらアイクへの信頼は一気に失くなってしまうだろう。クリミアを目前にしてそれだけは避けたかった。

 「アイク様、起きてください」

 何度目かの呼び掛けにもやはり反応はなかった。ふう、と溜め息つくと大人しく規則正しく上下する胸を受け止めた。とくん、とくん、と落ち着いた鼓動が全身に伝わって来る。再び顔が熱くなるのを感じた。ふと触った髪は見た目よりも柔らかかった。恐らく櫛など通した事などないであろう蒼い髪をそっと指で梳いてみる。無意識にエリンシアの顔が綻んだ。

 「遅くなって申し訳あ・・・・・・」

 凍り付く軍師を前にして、エリンシアは声を失った。

 

 翌日のエリンシアの顔は以前の気弱な姫のものではなかった。さすがに実戦の指揮はジョフレやルキノに任せてはいるが、すっかり指揮官らしくなってきたエリンシアにクリミアの騎士たちは喜びを隠せなかった。

 エリンシアは胸に手を当てる。昨晩のアイクの身体の重みと熱が残っている気がした。戦場での恐怖が全く消え去った訳ではない。ただ、自分の身体の中にアイクの力が彼の身体を通じて流れて来た感じがしていた。時折軍師が風の魔法書を片手に恐ろしい形相でこちらを睨んでいたが、気にしない、と天馬の手綱を強く握った。

 「クリミア軍、出撃!!」

 空に響くエリンシアの声に、高揚した兵士たちの声が続いた。