25 スコール



 雪じゃないだけましか。

 分厚い雲の下で、ヤナフは翼を広げる。大粒の雫は滝のように落ち、ヤナフの体を濡らしていた。すでに、水中にいると言ってもいい。
 デインとの国境を越え、クリミア領内に足を踏み入れてすぐさまの戦闘だった。詳しい事はヤナフは知らない。この大雨の中の出撃も総大将からの要請。ただそれだけだった。

 小柄な人の姿から、タカへと変貌を遂げて行く。それでも、他の同胞に比べれは小さな方だが、クリミアを侵略したデイン軍を威圧するには充分だった。上空から自軍を狙う竜騎士を粗方片付けると、ヤナフはデルブレー城の方角へ首をもたげた。
 小さな丘陵が幾重も重なった先の一際高い丘の上にそれはあった。元来それは軍事用の砦でもなく、一貴族の居城である事が、ラグズであるヤナフにもわかる。それでも、手の込んだ彫りで成すバルコニーから、武装した兵士が幾人も弓をつがえているのが見えた。
 それから、自慢の目はアイク率いるクリミア軍本隊を追う。城の近くの窪地から、なだらかな斜面にかけて、クリミア王国の章を掲げた旗とデインの本隊らしき軍隊がぶつかり合っていた。自軍の勢いは衰えてはいない事を悟ると、鉤状の嘴から安堵の息を漏らす。

 止むことのない雨空を、ゆっくりと旋回する。冷たい雨に奪われる体力を気にしながら、辺りを見回した。
 誰だ、あいつ―――
本隊から少し離れた場所で、剣を振る一人の女に眼を留めた。デイン特有の黒い鎧を切り捨てている所を見ると、クリミア軍の人間らしかった。水色の髪は長く、大量の雨を含んで重たげに張り付いている。それにも構わず、そのベオクの女は剣を鈍く光らせていた。
 ヤナフは体力を温存しているのも忘れ、冷たい雨が支配する空を羽ばたいていた。彼女の出自を懸命に思い出すも、心当たりはまったくなかった。
 せめて相棒のように耳が良ければ。ヤナフは幾人か切り捨てた後、アイクと何か話をしている女剣士をじっと見ていた。水を含んだ髪の間から覗く顔立ちは、かなり整っている方だと言って良かった。
 
 雨音に混ざり、風を切る音がした。ヤナフは咄嗟に身を翻す。戦場で、更にベオクの女に見とれていた自分を叱咤した。上空をゆっくりと飛び、先刻の矢の持ち主へ急降下した。デイン弓隊とぶつかる寸前、湿った土を蹴る音が聞こえた。
 血はすぐさま濁流と混ざり合った。黒い鎧は二度と太陽の光を受ける事なく水溜りへと沈む。水を撥ねる大きな音が一度、二度続くと、ヤナフの鉤爪は所在なげに空を掴むように動かすだけだった。
 振り向いた瞬間目が合った。ああ、やっぱ美人だ、と確信する。女はすぐさま間合いを取った。髪と同じ色の瞳は、タカのラグズを映し出し、驚きと戸惑いが現れていた。それが、彼女がこの軍に入って日が浅い事を示している。ラグズに慣れていないのだ。
 
 ヤナフは化身を解くか迷ったが、すぐに否定へと秤が傾いた。
「増援が来るぞ。本隊の脇腹がらあきみたいだ」
 タカの首が指す方角に、女剣士も顔を向ける。その顔からは迷いは消え、すぐに先刻までの剣士の顔になっていた。振り払おうともしない水色の髪から、雨同様に彼女の顔を濡らしている。慌ててヤナフも彼女の視線に同調した。ヤナフの目には、すでに一個小隊がアイク達がいるクリミア軍本隊の真横目指して進軍していた。
 背中まである髪は、重いせいか少しだけ揺れた。どこからが水しぶきで、どこまでか雨粒なのかはもうわからない。
 

 デインの奇襲を凌ぎ切ると、嘘のように雨雲は去った。再開を祝福するかのようだった。
「ジョフレ、よく生きて……!」
 目を赤くさせながら一人の騎士へ駆け寄るクリミア王女に、その足元へひざまずくあの女剣士の姿があった。ヤナフはそこで初めて、彼女の名前を知った。
 太陽が現れたばかりで、当然ながら水浸しの状態である。それでも、いやそれだからこそ水滴が日の光に反射してそれが彼女を飾っていた。
 
「雨も悪くはないもんだな」
 その最後に、小さく知ったばかりの名前を呟いて天幕へと戻って行った。
 大雨で体が冷えようとも、今日は酒は必要ないようだ。
 
 


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