たとえばの話

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 仲良くなる手段として、酒を用いるのは女には向かない。相棒はそう言っていた。
 表情を変えずそう告げる彼に、そうかな、とヤナフは首をかしげる。彼は彼の国にいた時からそうしてきたし、何より、その相棒と、彼らの主君との間柄も、そうやって深めてきた。その前に、互いの力や性質に対する絶対の信頼があっての事だが。彼女に対しても、それはある。

 別にきれいだとか、肌が白いだとか胸がどうとかは、ない―――いや、二の次ではある。
 ただ初めに見た、剣を振る姿に思わず見入ってしまっただけなのだ。
 軍内で、どこからか聞こえてきた名前が、彼女のそれだと知って、出自と身分を知って、それから。

「やあ、クリミアのお姫さんのお付きさん」
「ごきげんよう。フェニス王の側近の方」
 ちょっと長かったかな、と思うが、ベオクとは大概長い肩書きを好むものだ。ほら、彼女だって、自分に合わせてくれて、頭を下げてくれる。
 最初は、彼の、正確には彼の背中の翼を見て戸惑っていたが、今ではすれ違うたび、こうして軽口―――ルキノはそう思っていないのだが、彼はそのつもりであった―――を叩き合うようになった。
 だから、そうだ。次は一緒に酒でも酌み交わしてみよう。そうすればもっと仲良くなれるはずだ。そう考えがたどり着くのは、自然ではないのか。
「それは酒飲みの定理だ」
 繰り広げられるヤナフの持論に、彼の相棒はそう切り捨てた。
 それを意に介さず、ヤナフはある晩、酒瓶片手に野営地をうろついた。途中、仲良くなったベオクの騎士に、夜目を心配されるも、平気だと手をひらひらさせて笑った。

「―――それはいけません」
 彼女の返答は、彼が思い描いていた言葉とはかけ離れていた。
「あなた方の習慣はわかりませんが、我々の国では、お酒に興味をもっていい年ではありませんので」
 ウルキの忠告とも違う。
 彼女の拒否は、酒そのものではなく、酒が飲めない年齢である事を理由としているのだ。
 この女、見た目よりもずっとがきなんだな。
 意外なものだと、目の前のクリミア人を見る。ヤナフは、彼女の言った意味をすべて理解していなかった。

 しかし、それだけで終わった訳ではない。
 任務が終われば、どことなく野営地をふらつくと、彼女はいた。ルキノさん、と名を呼べば、空色の髪がふわりと浮いた。その薄い青色の隙間から見える、真っ白いうなじにむせ返りそうになる。それを懸命に隠して、ヤナフは歯を見せた。
 乳兄弟であり、側近であるルキノは、最近主の許をしばし離れている時がある。最近は、クリミア王女自身が天馬にまたがり、戦場に出ている。天馬と剣術の訓練は、ルキノではなく、聖天馬騎士団副長が勤めていた。やるからには徹底的に、と豪語するタニスの忠告により、ルキノはエリンシアと別に過ごしている時間が長くなっていた。
 
 見回りや使い走りで、絶え間なく流れていく兵士を眺めながら、二人は言葉を交わしていた。日はまだ高くあり、酒好きのフェニキス人と言えど、酒精を求める気分ではない。
 口の端に上るのは、互いの種族や国についてだった。個人の純粋な疑問を包み隠さずぶつけたつもりだが、自然と、話題が互いの政などとなる。とは言っても、フェニキスはベオクの国のように、複雑な法や政策などはなく、ルキノも、実際に政治の中枢にいた訳ではない。だが、それぞれの偏見の糸は、嘘のように解れて行った。
 価値観の違う相手との会話とは、これほどまでに興味深いものだったとは。頑なにベオクを嫌っていたヤナフが、そう感じるようになるには、それほど時間がかからなかった。
 だが、ただひとつ。酒の勧めだけは、断られ続けていた。彼は、羽根の生え変わる前、つまり成人前から酒に興味を大いに示し、大人の目を盗んではそれを口にしてきた。大人の味を知ってみるのもいい経験だ、といざなうも、不思議な顔をして首を振る。
 ベオクってのは、なんと融通の利かない生き物なんだろうか。
 呆れ返るも、諦めという言葉は彼にはなかった。いずれ、彼女も大人になるのだから。その時には、きっとフェニキスとクリミアもいい関係になっているだろう。その時に、いずれ、と。
 そう告げると、またもや、ルキノの眉間に皺が寄った。
 彼女のそういう反応を見ているのもまた、ヤナフにとっては愉快なものになっていた。ヤナフとしては「まだ幼い」ルキノを、大人の世界から見ている気分だったのだ。
 
 けれど、ともにいる時間を重ねるたびに、妙な気分に駆られていた。
 ルキノはまだ子供だが、ヤナフの目にはやはり大人としか映らない。本人がまだ子供だと言うのだから本当なのだろうと納得させるも、どうも腑に落ちないのだ。
 別にきれいだとか、肌が白いだとか胸がどうとかは、ない―――いや、二の次ではある。多分。
 何かが変わってしまったのだと思うも、それが何かわからない。互いに気軽に声をかけられる間柄であるし、酒を酌み交わす事は断られ続けているのも変わりない。
 ただ彼女といる時でなくとも、ベオクやクリミアについてではなく、彼女について考える事が多くなっていたのだ。


「―――なあ、なんで―――」
 またか、とウルキの細い目は、本から離れて相棒を睥睨する。
「翼がないんだろうな」
 ため息とともに出た言葉には主語がない。だが、それをウルキは嫌になるほどわかっている。別に、彼がこの千里眼の相棒と長年付き合っていたからではない。そんな事知らん、と口にするのも最早面倒だった。同時に、ウルキの胸には、信じられないという思いが広がっていた。
 ヤナフは、どちらかと言えば頭の固い方で、己の意見を曲げる事は滅多にない。それは、鷹王を前にしても同様の態度を崩さなかった。そんな彼が、あれほど忌み嫌っていたベオクに肩入れするなど。いや、肩入れや傾倒などと言ったものではない。もっと別の類なのだとウルキは気付いた。
 
「もし―――」
 答えを訊くのも怖いのだが、珍しく湧いた興味が、ウルキの口を開かせた。
「もしもだ、彼女に翼、いや尻尾でもいい。ラグズであったならば、お前はどうするのだ」
「うーん、次の年には、おれの子を産んでるかもなー」
 ぼんやりと空を眺めていたと思えば、ああ、でもあいつまだ子供だしな、と、照れくさそうに呟く。
 ウルキはベオクの友に借りた本に視線を戻した。だが、立ち上る後悔が、文字を頭に届けるのを遮ってしまっていた。

 


09/12/20戻る

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