30 触れない指先


 これは夢なのだ―――
 身体を丸めて、あるいは弟を抱きしめながら、何度眠っただろう。
 しかし、それは決して夢ではなく、自分を取り巻いている過酷な世界が現実なのは、嫌と言うほど思い知らされて来た。そう繰り返して生きて来たのだが、今目の前に眠っている姿もまた、夢ではないかと淡い期待を抱いてしまう。一夜を明けさせた新しい太陽の光をいくら浴びても、その身体は暖められ、息づく事は叶わなかった。 
 王は、たくさんの花々を敷布にして眠っている。
 優しくて愚かな王への、忠臣たちの最後の慰みだった。重圧に苦しんだ心は、少しでも和らいでくれただろうか。
 
 城内はしんと静まり、磨かれた床を鳴らす足音すら聞こえない。聞こえないのは多分、誰もが息を潜めているのではなく、単にミカヤの耳には入ってこないからだろう。現に扉の蝶番が軋んでも、彼女は振り向きもしなかった。人の気配には人一倍敏感な彼女だのに。


「ミカヤ殿」
 名を呼ばれ、初めてミカヤは振り返った。将軍、と名を呼び返すと、初老の軍人はゆっくりと歩き出した。正確には、ミカヤが眺めていた場所へ近付いて行った。普段の白銀の鎧は脱いでおり、代わりに白い軍服を纏い、胸には喪章。ミカヤはそうする事すら頭にはなかった。この軍の総督であり、今"ミカヤの目の前で"眠る人物の家臣であるのだが。しかし、ミカヤの無作法を咎める者が、そんな心に余裕のある者などこの城内にはいない。

「アムリタ様のご様子は……」
 震えながらも、唇は言葉を紡ぐ働きを見せる。タウロニオの毅然とした所作に、ミカヤは、己の立場が息を吹き返して行ったようだ。
 タウロニオは厳しい顔のまま首を横に振った。
「ずっと伏せっておられる。食事も、水すら摂られていないようだ。侍医の薬で少しは落ち着いているようだが」
 王后アムリタの容態は、ミカヤも予想していた。ようやく逢えたたった一人の子の死は、計り知れないものだろう。だが、それでも、どんな悲しみに染まろうとも、"喪主"として家臣たちの先頭に立ってもらわなければならず、王亡き後の家臣をまとめてもらわなければ。それが王族、国母としての責務だ。

「ミカヤ殿、これは小官の個人的な意見ではあるが―――葬儀はひとまず簡略なものを執り行い、戦争が終結した後、改めて、という事では如何だろうか」
 ミカヤは寝台への視線をそのままに、小さく頷く。タウロニオも悲痛の決断に違いない。ミカヤの承諾を得、タウロニオはすぐに踵を返した。それからまた、眠る王と二人きりの時間が流れる。静かだった。物音ひとつ、窓の外も、鳥の羽ばたきすら聞こえない。

 仮にも主に対し、不敬であり非情だと苛まれはするも、この悲劇を永劫に嘆き悲しんでいられないのもまた事実。巻き込まれた形だが、今はラグズ国が同盟を組んだラグズ連合軍との戦争状態にある。ベグニオンとは軍事協力関係にあるが、事実上は支配下に置かれ、易々とこの戦から手を引けはしないだろう。

 
 ―――解き放たれる唯一の手段だ。
 王はそう言ってミカヤに短剣を渡した。だが、彼の手首にはベグニオンの呪縛が鮮明に残り、唯一の手段は効を成さなかったと語っている。そして、デインの最後の血は、正真正銘絶たれた。

 
 他の家臣たち同様、彼に言葉をかける事はしなかった。彼の望みは、ミカヤもわかっているつもりだ。
 恐らく、ベグニオン側は王の死を知っても支配の手を緩める事はないだろう。むしろ、王無き国と憐れむ振りをして、デインを縛る鎖をより増やして来るに違いない。

 寝台に散らばる花の一つを取り、そっと組まれた指に差した。初めて触れた手は、やはり冷たい。今さら強く握っても、暖まる事はないのに。思えばこの手と心に、真正面から触れた事はあっただろうか。許されるならば、ずっとこうしていたいと強く思った。だが、望みごと彼の胸に剣を立てた以上、ミカヤも悲しみに浸り続けている訳にはいかなかった。

 この部屋は水を打ったように静かだが、反対に、扉の向こうでは、デインの臣らが論議を休む間もなく交わしているだろう。
 ミカヤもデインの将だ。政はともかく、この戦争を何とかせねばならない責務がある。ベグニオンの"契約"が解けぬ今、戦争を終わらせる事が最優先だと心に決めていた。どんな手を使っても。眠る王を見遣る金の瞳からは、悲しみや絶望といったものは薄らいでいた。

 部屋の隅に飾られていた花を取り、新たに冥府への参列者に加えた。
「あなたのお供はさせられません。誰ひとりとして」
 強い語気は、王の手にある花弁を揺らした。  
12/07/28