室内と外は対象的で、昼と夜が同じ刻にて隣り合わせているようだった。
 騎士であるケントはいくつもの燭台の灯りとその熱を背に、「夜」の世界に身を置いていた。暗い空の下、白い息を絶やさず兵の指揮、自らも見回りを続けている。

 頑丈な石造りの壁を通しても、談笑と音楽は絶え間なく耳に届いていた。
 ホールにはたくさんの円卓が並び、その上には胃がいくつあっても足りないほどの料理と酒が客を待っているのであろう。目も覚めるような色の衣装と宝石に身を包んだ男女は、磨かれた大理石の床で日ごろから練習を積んだステップを踏む。美しい旋律が終わると、惜しみない拍手の嵐に包まれるのだ。
 室内の光景を思い描くも、ケントはすぐに目の前の任務に戻る。舞踏会の情景を脳裏に描いていたのは、うらやましい訳ではなく、ただ彼の主と客が心から楽しんでいればと考えていたからだ。それだけで充分だった。ケントは己の任務、つまり舞踏会に紛れて不穏な動きをする者がいないか目を光らせていればよい。

 そんな矢先だった。館の裏手の茂みから、大きな音がしたのは。
 ケントは咄嗟に身構え、茂みとの距離を取る。がさがさとしているが、明らかに枝葉がこすれる音ではない音に、さらに身体を強張らせた。柄を握る手も無意識に力が込められる。
「……ト」
 くぐもった声。女のものだ。
 女刺客か、はたまた迷い込んだ貴婦人か。どちらかと言えば、後者の方が堅物騎士の手に余る。しかし、前者であっても喜ばしい事ではない。
 茂みの中の声は、なおも何かを訴えていた。よく聞き取れず、だか、もし密偵の類であればという疑念が晴れぬ以上、下手に近付く事を身体が許さなかった。緊張が広がろうとしている中、ついに茂みから大きな影が飛び出した。ケントは柄の手をそのままに、後ろに飛び退いた。
「わたしよ、ケント!」
 その声、姿にケントはただ目を丸くするだけだった。しかし、瞬時に我に返り、片膝をつく。
「失礼しました。お嬢様」
「もう、それは止めて」
 このやり取りは、リンディスがキアランへ身を寄せて以来のものだった。キアランの館に仕える者たちにとって日常の一部だが、今夜は他領の貴族や高官が招待されている。領主の孫娘に対して騎士が砕けた態度を取っている場面を目撃されては、主への侮辱にも等しかった。
「しかし、なぜこのような場に」
 ようやく立ち上がって疑問を口にするも、答えはすでにケントの頭の中にあった。しかし、リンディスは何か言いたそうにケントを一瞥した後、ため息をつく。
「夜風に当たりたかっただけよ……」
 夜風に当たるだけならば、バルコニーへ出ればよいだけではないか。その意見は口にはしなかった。長い草色の髪はリキア風に結い上げられ、宝石と絹で作られた髪留めが大輪の花を咲かせていた。首元にも同じ宝石がきらめき、胸が大きく開かれたドレスがしなやかな肢体を包んでいる。普段の彼女とはかけ離れた、貴族の令嬢の姿であったが、草原の民とリキアの血が見事に融合した美だと思う。堅物と称されるケントであってもそれが正直な感想だった。
 しかし、同時に心苦しさも覚える。覚えるゆえに、主催者の孫であるにもかかわらず、ホールを抜け出している事を、これ以上咎める気にはなれなかった。
 白いうなじからほのかに香る匂いに目眩を感じた。「香水ってのは蝶を引き寄せる花粉みたいなもんだ」と笑う友を思い出す。自分は、セインなどとは違うのだと気を硬くし、職務を全うしようとする。しかし、リンディスの手は彼の赤い手甲にあり、張り付いたように動かなかった。
「リンディス様。気分がすぐれないのであれば、お部屋にお戻りを……」
「そうじゃなくて」
 リンディスは急に口をつぐんでしまう。ほんのり紅をつけた頬だが、赤みがさらに増したような気がした。
 リンディスがずっと黙っていたので、じっとキアラン家の姫を見つめてしまっていたようだ。ケントの視線に気付いたリンディスは、かなり近距離にいた事もあり、慌てて首を振って離れた。
「あの、何でもないの……!」
「こちらこそ、大変失礼しました」
 ケントも気付くと彼女に負けぬ慌ただしさで膝をついた。高嶺の令嬢から、飾らない普段のリンに戻ったようでほっとしていたのだ。
「だから、それは止めて頂戴」
「申し訳ありません」
「別にあなたが悪いわけじゃ」
 淑女の残り香は簡単には消えてくれそうもなく、ケントを引き止めてようとしている。
 だが、その香りがリンディスからのものとは明らかに違う匂いだとその手の事には疎いケントも感づいた。ゆるやかに流れている風が運んできたのだろうと、何気なく風の方角へ首を向けた。
 裏庭にはそびえる木々がある。無造作に立てているようで、実は不審な者が潜みにくいように、見通しが良いように植えられていた。それを知ってか知らずか、着飾った男女が木の陰にてもたれかかっていた。しかも数組。
 リンディス様は、これを見たのか。
 庭を歩いている内に、見てしまい、思わず茂みに隠れてしまったのだろう。その光景は、社交も華やかな貴族の世界では別段珍しいものではなかった。快楽主義とまではいかないが、恋も娯楽のうちだと公言する貴族は少なくない。相手は他家の子女であったり、時には従者や使用人を引っ張り込んだり。無論ケントはその娯楽には加わった事はないが、さして驚くべき事ではなかった。 多少目に毒ではあるのだが。
 だがリンディスは違う。リキアの貴族思想とは遠く離れた存在であり、一人を生涯の伴侶とし、家庭を築くサカでは考えられない光景なのだろう。
「ケント」
 ささやくように名を呼ばれ、心臓が大きく跳ね上がった。赤い胸当てに草原色の頭が寄せられる。
 頬やうなじが紅いのは、壁に掛けられている松明の明かりのせいではない。明らかに、中てられているのだ。闇に溶け込んだ逢瀬の空気に。
 冷たい空気を深く吸う。そうでもしないと、自分も飲まれてしまいそうだった。天上に想う蝶が、自分を選んでくれたと勘違いしそうで。だが、もしここで偶然出会ったのが別の男であったら。そう考えると身震いがする。
「リンディスさま」
 声の硬さは、リンディスの耳にも知れたようだ。普段のそれよりも大きな耳飾りが大きく揺れた。
「寒くなってきました。館へお戻りください」
大きな瞳は、落胆の色に変わったのがわかる。それすらも美しく、ケントを激しく揺さぶった。舞踏会にあでやかな女とその匂い。風の冷たさでさえ、人を惑わす魔法だ。だからこそ、それに煽られずに慕い続けたいと考えている。
 
 次の日は、当然ながら普段のサカ風の服を着ていたが、リンディスはどこか棘のある態度を向けていた。
 それが昨夜のせいである事はケントも自覚しているのだが、彼女の不機嫌な風を変えるには、自身が動かなければならない事には、まだ気付いていない。
10/04/16   Back