俺の目を見て言いやがれ!

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 空翔る天馬を、マーシャは地上から見上げていた。
 マーシャは天馬騎士だが、たまには下から天馬を眺めていたい時もある―――そうではなく、天馬の心身の安定のために、こうして折を見て人を乗せずに飛翔させているのだ。

 広げれば身の丈三倍ほどもある翼を目一杯広げ、愛馬は軽快に空を走っている。雲のように白い翼のはためく音は、天馬を愛するマーシャにとって心地よいものなのだが、今の彼女には、そのはためきは心にまでは響いていないようだ。
 厩の柵にもたれかかり、時には地面向けてため息をついている。我に返り、重々しくため息をつく自分がおかしくもあり、また心沈ませるマーシャに戻る。その繰り返しであった。


 これは喜ばしいことなのだ。なのに、なぜ自分はこうも気を落としているのだろう。
 己のことはよくわかっているはずなのに、今の彼女は天馬が駆けているこの空とは正反対に不透明だった。
 三日前の朝、ルキノより、宮廷騎士団副団長へ爵位と領地を下賜されることが決定した、と告げられた。近衛隊のいち兵士であり、無官であるマーシャに、その報告を聞く義務はない。ただ、ルキノとも、副団長とも旧知の仲であるゆえの、世間話のひとつだった。その世間話が原因で、マーシャの心を暗くしているまでは自覚している。
 授与式は来年。そんなにかかるのは、爵位に見合った住まいを現在建築中であるからだそうだ。立派な屋敷を建て、領地に己の礎を敷かなければならない。
 直接祝いの言葉を伝えようとしたが、普段の激務に加えて、それらの関係でケビンは常に執務室を空けていた。先刻も、女王を王宮に送り届けるついでに官舎へ顔を出してみたが、やはり留守らしい。思えば、まだ流浪の天馬騎士と下士官であった頃―――あの時は戦争中だった事情もあるが―――は、毎日のように顔を合わせていたのだ。
 宮廷騎士団長となったジョフレに次いで、ケビンも異例の大出世であった、といつだったかフェール伯爵が言っていた。副団長は、小隊長とは訳が違う。本来なら下級貴族では収まらない。しかし、エリンシアの腹心の副臣が、階級を急に駆け上げた上、爵位まで授けるには、他の家臣に対して体面が保てない。エリンシアへの反発を恐れ、下級貴族のままに留めておいたのだ。ちなみに、フェール伯爵の王太子筆頭秘書官からクリミア王国宰相への昇格は「まずまず妥当」だと金の口髭を上げていた。

 とにかく、副団長でも普段から忙しそうに、でも、毎日愛馬の世話と鍛錬を欠かさずにいたケビンだが、ここ最近は厩舎にすら顔を出していないと聞いていた。それが余計にマーシャの胸を不安にさせている。
 忙しさに潰れるような人ではないことは知っている。その不安は、マーシャの足をなぜかケビンの執務室ではなく、厩舎へと向かわせていたのだ。厩舎の管理をしている使用人は、マーシャの姿に気付くと不思議そうに眉を上げた。
 兵の宿舎同様、厩にも階級ごとに分けられていた。軍の上から二番目の地位にいるケビンの友は、高級仕官用の厩舎に繋がれている。高級仕官用、と言っても造りも与えられる餌も変わりない。ただ、着けられる馬具の装飾が多いだけだと以前ケビンが笑って答えてくれた記憶がある。
 彼の一番の理解者は、よく掃除された舎内に堂々としていた。いかにも将軍の馬らしく、鍛え抜かれた体は磨かれ、鬣も太い首をさらりと流れていた。従者がよく手入れしているのだろう。
 馬がいる、という事は、ケビンは騎士団の官舎にいるという証拠だ。あなたの主人は今どうしているのかと口の中で問いかける。当然答えはなく、ぶるぶると鼻を鳴らすだけだった。藁もしきりに鳴っていた。
「マーシャ殿」
「ケビンさん……」
 聞きなれた、だが、思いもよらぬ声に、マーシャは飛び上がった。数日ぶりに会う騎士は、最後に会った姿と変わりない。短く刈られた赤い髪も、鎧も、堂々と張った胸もそのままだ。当然だ。高級貴族になるからと言って、昨日今日で何もかも変わる訳ではない。だが、そうと頭で理解していても、普段どおりのケビンに胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
「貴殿が士官用の厩舎にいると聞いてな」
「それでここまで来たのですか」
 うん、まあ、な。と驚くマーシャを前に少し照れているようだ。
「それに、おれの部下から貴殿が頻繁に執務室に来ていたとも聞いている。いつも留守にしてすまない」
「い、いえっ。わたしの方こそ、忙しいのにすいません」
「いやいや、そんなに頭を下げる必要はないぞ。おれも貴殿に会いたかったのだ」
 マーシャは深々と下げていた首を上に向ける。
「先の戦の時から、貴殿と手合わせ願おうとずっと考えていたのだ」
 胸を張り、はっきりと言われ、マーシャの胸に積み上げられていた期待は崩れ落ちる。だが、そのやり取りすらも今は楽しいと感じていた。
「だが、なぜか中々それが叶わなくてな」
 新興されたクリミア軍にいた時が思い出される。ケビンがマーシャを呼び止めては、長弁の末、肝心の用件を「忘れてしまった」と首を傾げていた光景が。この人は、ずっとそれを胸の中に持っていたのか。
「なぜわたしと?」
「うむ。あの時は強固なデイン軍を相手にしていたからな。クリミア騎士たるもの、様々な戦い方を学ばねばならんと思っていたのだ」
 いかにも、クリミア騎士を天職とするケビンらしい答えに、マーシャは今まで自分が気を重くしているのが馬鹿らしく思えた。この人はきっと何があっても変わらない。どんなに高く昇っても、富を得ても変わらないのだろう。
 彼の答えにふっと笑みを見せると、ケビンは伸びた背筋をさらにぴんとさせた。
「あ、あのな。マーシャ殿。おれは……」
「はい」
「おれの家は代々男子は騎士としてクリミア王家に仕え、三代前より姓を賜ったのだ。おれも父や兄たち同様、先祖に恥じぬクリミア騎士となるべく六の歳より……」
 強張った身体とは逆に、彼は饒舌に己の系譜と騎士に至るまでの経歴を語り出した。マーシャはただ目を丸くしてそれを聞いていた。騎士道や武術に対しては、常費ごろより円滑に口を動かしているケビンだが、彼自身についての話は初耳な部分が多かったのだ。
「だからだな、マーシャ殿!」
「は、はい!聞いてます!」
 延々とそれが続き、半ば呆然としていた矢先だった。急にケビンはマーシャを睨み付け、声を一層張り上げる。上官に糾された時のように、マーシャの背筋は反射的に伸びた。
「そんなおれだが、恐れ多いことに、エリンシア陛下より、爵位と領地まで賜ることとなったのだ!」
「それは陛下がケビンさんの実力を評価されたからで。フェール伯も、遅いくらいだって……」
「騎士として、国家の盾としてお仕えすることだけで、おれは充分なのに!」
 まだ続くらしい。
「副団長ですら、過分だと申し上げてきたこの身は、ついに兵だけでなく、領民を治めよとのお達しが来たのだ」
「だから、それはケビンさんに充分な資か」
「それでだ、マーシャ殿!おれと、おれと一戦手合わせ願いたいのだ!」
 ついに口角に泡が飛び始めた。それに半身を引かせるも、頭に血が上っているであろうケビンに気付いた。
 先刻も申し出ていたのだが、その時とは明らかに違う様子が不思議だった。先ほどは胸を張り、堂々としていたのに、今は喉につかえていた物を出すような。さらに、言い終えた後は勢いが萎れたように俯き、もごもごと口を動かしている。
「あの、ケビンさん?」
「……で、もし……」
 よく聞き取れず、マーシャは近付いて覗き込む。顔は彼の髪のように真っ赤だった。
「もし、だ。おれが勝ったら、おれが話すことを聞いてくれまいか……」
 散々あれだけしゃべったのに、まだ言い足りないことがあるのだろうか。思わず口に出しかけたが、熱くなる首を振って、はい、とだけ答えた。
「それじゃあ。自分の武器を取って来ますので」
「お、おう」
 二人とも声が震えていたが、それを気にする余裕はなかった。
 いたたまれなくなって、マーシャは愛馬の待つ厩舎へ急ぐ。槍の腕に覚えのある彼女だが、わざと負けるということは頭にはなかった。


10/04/09 TOP

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