無理!それ無理だから!

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 乾いた風、乾いた大地。砂埃が全てを覆っていた。マーシャは天馬の上から注意深く砂埃の世界を見渡す。だが、上空から地上の様子は全くわからない。恐らく、地上はもっと酷い状態なのであろう。土煙から聞こえる兵士達の叫び声、武器がぶつかる音、魔法の轟きが空に届く。

 不意に下から風を切る音と天馬の小さな悲鳴が耳に入った。同時に何かがマーシャの頬をかする。じわりとそこが熱くなった。矢だ。それが飛んで来た方向―――愛馬の羽根を見やる。マーシャが掠った頬と同じく、右の翼の中央が赤い染みを作っていた。翼を庇いながらも、必死でマーシャを落とさぬ様バランスを取っていた。

 天馬の鬣を撫でながら周囲を見回すが、自分が飛んでいる位置が自軍の辺りなのか、敵陣なのか、それすらも見失っていた。かろうじて目をこらせば、クリミア王国の紋であろう色の旗と友軍であるベグニオン軍の旗が入り交じってが見える。しかし、敵と混戦しているかもしれない。だが、マーシャの天馬もこれ以上飛ぶのは限界だった。

 ゆっくりと高度を下げて地上の状況を確かめる。細かい砂の粒子が舞う中、ベグニオン帝国軍の鎧が隊列をなしているのが見えた。自軍だ。マーシャは胸をなで下ろす。だが、その直後、けたたましい愛馬のいななきが聞こえたかと思うと、マーシャの身体は空中に投げ出された。

 肩を強く打ったが、それでも咄嗟に身を起こす。「何をやっているんだ!」男の怒号が背中でした。ベグニオン兵の声だろう。マーシャは凍り付いた。ベグニオン兵の叱咤のせいではない。眼前に、デインの黒い鎧が砂埃を纏って駆けて来る。最前線だったのだ。

 振り返ると天馬は翼だけではなく前足にも矢傷を負っていた。先程の衝撃はそれが原因だったのだ。駆け寄ろうにも、飛ぶどころか、歩く事もままならない天馬ではどうしようもない。不覚にも槍は天馬の近くに突き刺さっていた。下馬しての実戦は皆無に等しい。しかも、武器は腰の護身用の短剣しかない。立ち上がって構えるも、震えは止まらなかった。

「デイン兵め!!」

 咆哮に近い叫びがした。砂埃でどこからかはよくわからない。だが、聞き覚えのある声。

「我こそはクリミア王国王宮騎士五番小隊隊長ケビンなり!いざ参る!」

 聞き慣れたその声のやはり聞き慣れた口上がすると、マーシャ目がけて疾走するデイン兵の隊列の真横へ、騎馬隊が攻撃を仕掛けていた。先頭には先程の声の主。その姿がやはりケビンだとわかった途端、安堵の溜め息を漏らした。直後にマーシャの真横をベグニオン兵達が駆け抜け、砂埃を一層舞い上がらせる。

 ケビン達の騎馬隊とベグニオン軍がデイン勢を食い止めている内に、マーシャはうずくまっている愛馬の元へ走る。矢を受けた前足と翼は血と砂埃で汚れていた。一刻も洗浄してやらなければ危険であった。しかし、本陣の位置もよくわからずに天馬を歩かせる訳にはいかない。鞍の小物入れから化膿止めと包帯を取り出して応急処置をする。それでもほんの少しだけ怪我の悪化を食い止めるだけしかできない。このまま、本陣の救援を待つしかないのか。

「マーシャ殿!」

 ケビンの声を背中で聞いた。鉄が激しくぶつかる音も。マーシャの足元で、槍が深く突き刺さり、柄が小刻みに揺れていた。

「マーシャ殿、怪我はないか」

 ケビンは安堵の為か大きく息を吐く。ここまで単騎で駆けて来たというのか。

「あ、ありがとうございます」

「それにしても、どうしたと―――ああ、天馬が怪我をしたのか」

 ケビンは馬を天馬の近くまで寄せる。下馬せずに、身を乗り出して天馬の傷を眺めた。

「ふむ。これでは歩くのも厳しいであろう。マーシャ殿、馬は操られるか」

「えっ?ま、まあ。嗜む程度には―――」

 突然の問いに首を傾げるマーシャに説明もなく、ケビンは馬を降りた。慌ててマーシャはクリミア軍とデイン軍が争っている方向に目を向ける。敗走しているデイン勢が見えたが、この砂煙である。どこかに敵が潜んでいるかもしれない。しかし、ケビンの方に再び目を向けると、マーシャは目を見開いた。その危惧を忘れてしまう程。

 「くっ―――」

 食いしばった歯の間から、短い呻きが漏れる。天馬の腹を肩に乗せ、両足をしっかりと腕で固定し、ケビンは震えながらも立ち上がろうとしている。

 「ケ、ケビンさん!?」

 確かに天馬は軍馬よりかは細身である。しかし、それでも人が持ち上げられるような重量ではない。さらに天馬は男に触れられるのを嫌う。だが、怪我のせいか、マーシャの愛馬は大人しくケビンの身体に己を預けていた。

 さらに信じられない事に、ケビンはそのまま自分の馬に跨がろうとしていた。

 そんな、無理な―――

 だが、片手を馬の鞍につくと、器用に馬の背に乗り上げた。こんな事大した事ないとばかりに、マーシャに向けてにやりと笑う。

「さあマーシャ殿!貴殿が手綱を取るのだ!あ、それと槍も忘れずにな」

「ええっ?無理です!」

「今さらマーシャ殿が乗ってもおれの馬はびくともせん」

 確かに、ケビンの騎馬は何事もないように鼻を鳴らしていた。しかし、これで走れるのか。

「さあ、うかうかしていられん。マーシャ殿、早く」

 覚悟を決めてマーシャは馬に跨がった。不安は胸に大きな塊となって鎮座している。馬は訓練所で習ったっきりだった。

「マーシャ殿、すまんが鞍の横に斧があるだろう」

 ケビンの言う通り、斧があった。柄が短く刃が広い。歩兵用の斧だった。

「その柄を馬に噛ませてやってくれないか」

「は?」

 咄嗟に振り向くが、ケビンの顔は真面目であった。ケビンなりに何かあるのだろう。マーシャはそれに従って馬の口に斧の柄を当てがう。馬は微塵の抵抗もせずにそれを口で固定した。

「よし、では行くぞ!」

「は、はい……」

 マーシャは手綱を取る。胸を張って叫ぶケビンの上の天馬が心配であった。この気配では暴れる様子もなさそうなのだが。

「あ、あのケビンさん。本陣の方向は?」

「何を言っている。このまま騎馬隊と合流して戦闘を続けるのだ」

「ええっ!!」

「敵は敗色を見せているが、油断は禁物だ。我らが力を合わせれば一騎当千。いや、二人だから二千だな!」

 この姿を味方だけではなく、敵にまで晒すと言うのか。マーシャは思わず涙ぐむが、それでも本陣の位置もわからずに救援を待つよりかは幾らかましなのだ。そう自分に言い付けて馬を敵陣へ走らせた。驚く事に、馬の足は全く鈍くなく、他の軍馬と遜色のない走りを見せていた。

「な、何だ?」

 その声はおそらく友軍から聞こえたであろう。間もなく敵軍からも同じ叫びが聞こえた。驚愕する両軍の視線が痛い程突き刺さる。こんなに目立っては、不利なのではないか。

「クリミア王国王宮騎士五番小隊隊長ケビンと―――マーシャ殿の所属は……そうだ、グレイル傭兵団だったかな」

「わたしの名前は叫ばなくてもいいです!いいですからっ!」

「我らクリミア王国王宮騎士五番小隊隊長ケビンとグレイル傭兵団がマーシャがお相手仕る!!」

「あ……」

 マーシャは顔を赤くして俯いた。これが本陣の指揮官勢に知られたら―――。考えたくもない。後方のケビンは嬉々として片手で斧を振るっているのがわかる。一体どういう腕力なのか。

 二人の姿に唖然としていた両軍だが、そんなケビンに多少免疫のある騎馬隊が真っ先に我に返り、攻撃を再開した。続いて友軍ベグニオン勢もそれに加わる。それがデインの敗色は決定的になった。デイン軍の指揮官らしき騎士が撤退を叫ぶ。それを追うクリミア軍。

 

 砂埃が高く舞い、幾つもの黒い鎧が砂に埋もれていた。クリミアとベグニオンの混成軍は武器を持った手を高く上げて勝鬨を叫ぶ。指揮官達が隊列を組み直していた。

「我らは殿を勤めるぞ!気を緩めるな!」

 ケビンが騎馬隊にそう告げるのを背中で聞いた。前方のベグニオンの歩兵達の後方に捕虜となった黒い鎧が目に入った。デイン兵達は、不安気にちらちらとマーシャ、いや奇妙な騎馬を見ている。

 なぜ、こんな妙な奴に。

 マーシャには彼等の心境がそう思えてならなかった。

「さあ、我らも行こう。本陣に着くまで気を緩めるな」

 とは言いつつも勝ち誇った響きをしていた。これで本陣まで行くのか。気が重くて仕方がなかった。



「はぁ……」

 本陣に戻ってから、重い溜め息は止まる事はなかった。予想通りの好奇の視線。説明を求めてきた他の指揮官達も顔を引きつらせていた。笑いを堪えていたのか、怒りの為なのか。少なくとも、アイクは前者であった。エリンシアは「そういう戦法もあるのですね」と本気で感心していた。クリミアの人間の思考を疑ったが、クリミアの将軍であるジョフレはかつての部下を怒鳴っていたので、別にクリミア人が皆そういう思考の持ち主ではないらしい。「誉めてやろう……馬をな」と苦虫を噛み潰したようなタニスの顔が今も頭から離れない。

 天馬の傷は思ったよりも大した事がないのが、唯一喜ぶべき事なのだが、溜め息はそれでも収まらない。

「マーシャ殿!」

 重い足取りで兵士用の食堂へ向かう途中、上官であるジョフレに絞られたとは思えない程の明るい声がマーシャの名を叫んだ。

「先程は咄嗟の判断とは言え、見事な戦いであった」

「そ、そうですか……」

 彼にはこの好奇の視線はわからないのであろうか。

「それで思ったのだが、先の戦法を今後の実戦に本格的に取り入れられないだろうか」

「ええっ!!?」

 本気で言っているのか。

 ケビンの瞳は新しい発見に輝いていた。冗談を言うような男ではない事は知っているのだが、今ならこれを嘘だと言っても笑って許せるだろう。いや、嘘だと言って欲しい。

「うむ、そうだ!今日はさすがに戦闘の後で疲れもあろうから、明日からでも特訓とするか。では、マーシャ殿。また明朝」

 一方的にまくし立て、片手を上げてケビンは去る。肩を落として、それを見送るしかマーシャはできなかった。

 幸いにも「できれば完璧に実戦に登用できるまでは内密にしておきたい」と言ったケビンの提案で「新戦法」の特訓は誰にも見られる事はかった。

 しかし、日に日にやつれていくマーシャの「ケビンさんが毎日無理な体勢を強いてくるから困る」という失言が、軍内にいらぬ波紋を呼ぶ事になり、この特訓は当分身合わせる事となった。

 「女の子は大切に扱わないとな」

 それ以来軍の男どもからケビンは頭を小突かれる事となる。当然、彼はその言葉を理解はしなかった。
2006/12/21戻る