受け取りなさい私の愛!

 白を基調としたクリミア城は、あの時の、離宮の窓から眺めていた風景と同じだと、エリンシアは感じた。一年前、アシュナードに率いるデイン軍に踏みにじられる直前の、何も知らなかった幸せな時でもあった。それがかえって恐ろしく思え、細い指は天馬の手綱を無意識に強く握っていた。
 国が滅びた今になって、初めてクリミア城へ足を踏み入れた。なんと皮肉な事だろう。春の芽がほころぶ花壇に血潮が飛び、かつては小鳥が羽ばたいていたであろう中庭の空に絶叫が吸い込まれる。「王女」である己が身がその城へ姿を現した途端、戦場と化したのだ。容赦なく踏み躙られた国に心をいためるも、エリンシアは毅然と前を見据え、剣を振り上げる。目指すはクリミアを侵した仇敵。自国の者からも「狂王」と呼ばれた男の許へ。

「エリンシア様!」
 下方から、乳兄弟の聞き慣れた声が響いた。ルキノの周りには、黒い鎧と大きな猫が倒れていた。ルキノはエリンシアと目が合うと、言葉を続ける。
「デイン王がっ、アシュナードが出陣しています!」
 エリンシアは咄嗟に本城のバルコニーの方角へ顔を向けた。遠くからでも感じた強大な存在が、いつの間にか、玉座代わりの黒竜ごと消えていた。
 手綱を握る手が震えた。先刻、クリミア城で待ち構えていたアシュナードと対峙した時は耐えられた。しかし、今になって、一年前狂王に見据えられた時の恐怖が蘇って来た。父母の血を吸った剣、歓喜に歪んだ顔。
「お父様、お母様、叔父様―――」
 自然と口が開き、肉親の名を呼ぶ。だが、その声は上空を飛ぶエリンシアの真横を過ぎ去る風にかき消された。
 状況を理解した時には、それは既にエリンシアを通り過ぎて行こうとしている。だが、「彼」もエリンシアの存在に気付くと、その翼を身体ごと翻す。
「あんたか、クリミアの王女ってのは」
 エリンシアの天馬ほどもある大きな鷹が、そう言葉を投げかけた。無意識に頭を振りながら、目の前の大鷹がフェニキスの王だと気付く。彼は城外に配置されていたが、その戦闘が終わったのだろう。化身した鷹王の姿を、エリンシアは今初めて目の当たりにしていた。数ヶ月前にクリミア軍へ参加した二人のタカの民も大きな翼に目を見張ったが、この王は彼らよりもずっと大柄だった。
 フェニキス王―――ティバーンは、そんなエリンシアの驚きを他所に、言葉を続けた。
「ベオクの大将がデイン王とやり合ってる」
 アイクが、アシュナードと戦っている―――
 息が詰まりそうになりながら、エリンシアはティバーンが首を向けた方角へ視線を向けた。黒い竜がまず眼に入り、遠目でも禍々しい気を纏う狂王の姿があった。そして、その強大な存在に剣を構えるアイクも。フェニキス王の言葉が本当だと確信する。手綱を繰り、天馬の首が向きを変えた途端、ティバーンがそれを制した。
「手出しは無用だ」
「でも……!」
 ティバーンは、真横に走った傷がある顔を、剣を構えるアイクへと向ける。
「あいつが討つって言ってんだ。信じてやれ。それに、あの野郎の鎧、アイクの持つ剣じゃないと歯が立たないらしい」
 淡々と告げるティバーンだが、その声に自分も手を出せない苛立ちが滲み出ていた。それは、エリンシアも同じ気持ちだった。
 アイクの腕が信じられない訳ではない。しかし、実際に、人とは思えぬ禍々しさを放つ男と対峙している姿を見ると、心配せずにはいられない。デインに追われてから、ずっとそばにいてくれた。彼を失う事など考えられようか。
「あっ、おい……!」
「エリンシア様!」
 ティバーンとルキノの制止の声を置き、エリンシアは天馬を羽ばたかせた。あの男に剣を突き立てられないのなら、アイクの身を助ける事ができないのならば。自分ができる事をするまでではないか。



 確かに、アイクの剣は狂王の胸を貫いた。それはセネリオの目にもはっきりと映っていた。終わった。誰もがそう思った。
 だが、アシュナードは笑みを浮かべ騎竜の鞍に結わえていた包みを解いた。その瞬間、どす黒い何かに押しつぶされそうな感覚になり、セネリオは一歩身を引いた。
 これが「負」、邪神の気なのだと言われずとも感じる。「やばい、これは……」呻くようなライの声が耳に入った。ベオクの身でもこれだけ圧倒されるのだ。ラグズのより感受性の高い者なら耐えられないだろう。ベオクの中でもそういうものに鈍いとされるアイクですら、横顔に汗を滲ませている。それでも、その気迫に負けじと剣を振っている。先刻の狂王の剣とは比べ物にならない程の剣圧が、見ているセネリオにも伝わった。
 その気に間近に充てられて、デイン王が跨る竜も発狂したように首をしきりに振っていた。アイクの身を案じるも、手助けができないのが歯がゆい。風精を操る魔道書の角を、何度も指でなぞる。無意識の行動だった。
 風に乗って、大きく羽ばたく音に、セネリオは上空を見上げた。それと同時に、セネリオは暗い影に包まれた。
「鷹王だ!」
 誰かが、そう叫んだ。顔を真横に走る大きな傷、他の同族よりも一際大きな翼。フェニキス王ティバーンだと、セネリオも確認した。彼には城外を守るデイン軍を抑える任務があったはずだった。ここへ来たと言う事は、外のデイン兵を片付けたのか。
「フェニキスの大鷹だ!」 
 そんな思案を巡らせるセネリオを他所に、他のクリミア兵達は、ティバーンの登場に歓喜の声を挙げていた。まるで勝ったかのような喜び様だった。ラグネルの広い刃を受けつつも、アシュナードまでも、兵(つわもの)に笑みまで見せている。
「フェニキス王」
 静かに、セネリオはその名を呼んだ。大きくはないが響く声は、ティバーンの耳に届いていた。アシュナードに飛び掛らんとしていた身体を留まらせる。
「ベオクの軍師、何用だ」
「手は出さないで下さい。ここは、アイクに任せて」
「何だと……!」
 苛立ちにティバーンの傷が歪んだ。
「アイクが、そう言ったのです。だから、どうか……」
 小さく舌打ちが聞こえ、ティバーンの大きな翼がはためき、中庭の上空へと浮き上がった。
 お前などに手が出せるのなら、始めからぼくが加勢している―――
 ティバーンよりも深い苛立ちを、セネリオは胸の奥深くに沈ませていた。アイクとの約束なのだ。それはどんな状況でも、守らなければならない。
 
 デイン王の振るう大剣が鋭く空を切り、アイクの頭上に振り下ろされた。セネリオは息を飲む。アイクは寸でで剣で受け止めようとするが、その重さに耐え切れずにいた。短い悲鳴とともに、後方へ飛ばされた。
「アイクっ!」
 アイクの身体は、植え込みに沈んだ。革の胸当ての深い傷が目に飛び込んだ時、心臓が凍りつくようだった。赤いものは見受けられない。それでも受けた衝撃は強いらしい。起き上がれずにいるアイクを、愉悦の笑みでアシュナードは見下ろしていた。
 セネリオは咄嗟に辺りを見回した。自分が戦力意外でアイクに力になれる事。それを思い付いたのだ。慣れない事だったが、それでもなにもせずにいるよりかは遥かにましだった。
 中庭の芝生にて、負傷兵の手当てをしている傭兵団の仲間が目に付いた。考えるより先に、セネリオの足が動いた。
「キルロイ、貸してください!」
「えっ?」
 突然の事でうろたえるキルロイには全く構わず、セネリオはキルロイから強引に奪った物を高々と掲げる。同時に、その上空で天馬のはばたきが聞こえ、白い羽が舞った。
「アイク様……!」
 悲鳴のような高い声が聞こえるが、それに負けじとセネリオも叫ぶ。
 
「アイク―――!」
 地上から、上空から放たれた癒しの光は同時に輝いた。
リブロー。 08/03/25戻る

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