あのこと

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 それは、最近よく見る風景だった。
 野営地の天幕の群れができあがれば、小さな空間でも必ず設けられる個人鍛錬の場。行軍の日々でも、武器を振るうのを怠らない者は少なくない。
 その小さな広場に、剣戟がぶつかる音が絶え間なく続く。それは、最近よく見る風景だった―――はずだった。

 その鍛錬場の近くを、ほとんどの兵は素通りしていた。中には、「それにしても、熱心なお方だ」と感心を含む者もいたが、それでも軍のいち風景としてしか捉えてはいなかった。慣れというものだろう。この風景と、転戦の日々に。それらが混ざり合い、何度も実戦を生き抜いた兵たちには、今鍛錬上で鳴り響く金属音も、彼らの日常なのだと聞き流してしまっているのだ。
 
 
 だから、ふと、勘と耳の良い者が立ち会う二人の違和感に気付き、足を止める。
 対面するマントもばさりと音を立て合っていた。その影から若い男女が踊り出て、手の代わりに刃を重ね合わせている。
 一方は、まだ荒削りながらも幾つもの戦いを潜り抜けて来た男。この軍の実質的な将でもあった。だが、もう一方は、護身用の剣は覚えがあるものの、実戦はまだ数えるほどしか経験していない。この軍の旗印であった。本来ならつい最近まで、戦いに出る事はおろか、鎧をまとい、天馬にまたがり、あまつさえ剣を握る事すら考えられないはずの深窓の姫君だったのだ。

「何をなされておられるのですかっ!」
 事態に気が付いた中年の兵士は、見物していた場外から思わず駆け出した。だが、真剣を振り合う若者たちには、兵士と言えど近付くのは容易ではない。しかも、一方は大丈夫が振るうのも苦労するような大剣を扱っているのだ。剣圧と、それによって舞い上がる砂埃に思わず目をそむける。
「王女っ、お止め下さい!アイク将軍も何をなされているのかわかっているのか!」
 突風のような剣の風に及び腰ながらも、兵士は軍の頂上たる二人の仕合いを必死で納めようとした。だが、男の声は耳に届かないのか、金属音で返答を出しているようだった。そんな二人を前に、剣がぶつかり合う音がする度に兵士は背筋を凍らす。剣を重ねる音の合間に、低い声が男の鼓膜に響いた。
「そんな事、おれが聞きたい……」
 一体それが何を指すのか、兵士には理解できなかったが、よく見れば、王女の方が攻撃的な剣を繰り出している。アイクはそれを受け止めているだけだった。それもそうだ、と兵は思う。傭兵を生業としていたこの年若い将軍と戦う事を決意してわずかな日数を得た王女では、剣の腕は雲泥の差だった。訓練と言えど、アイクからかかれば、細腕の王女がその剣を受け止め切れるはずなどないのだ。
 王女の身の危険はないとわかると安堵の息が漏れる。だが、それでも中年の兵士は踵を返して天幕が並ぶ中を急いだ。


 ミストが噂の場所へ駆け込んだ時には、すでに人垣ができていた。
 どれくらい剣を合わせているのかはわからない。だが、必死でアイクに切り込んでいるエリンシアの頬に流れる汗と、途切れる息がかなりの時間の経過を知らせていた。

「ええっ、お兄ちゃんがエリンシア様と!? 」
 最近よく見る風景が、今は異常なものだと、瞬く間に天幕の林の中を駆け巡った。将軍の妹の耳に入ったのも然る事だった。
 何かと時間を見つけては剣を振るっていた兄だ。しかし、戦場以外では刃をこぼした、または木製の剣を使っている。しかし、今、クリミア王女と交わしているのは研ぎ澄まされた実戦用の刃らしい。空高い太陽の光を受けて、双方の剣はぎらぎらと光を跳ね返していた。
 見物人らも将軍と姫のただならぬ雰囲気に静かにざわめいている。普段の兵らの喧騒のように、面白おかしくけしかける訳にはいかないと、言葉にせずとも察しているようだった。
 白い鎧の兵士やわずかなラグズの兵を掻き分けて、ミストはいよいよ剣戟の最中によろめきながら立ち入ろうとする。しかし、先刻の兵よろしく、剣で防御するだけでもアイクの大剣の剣圧によろめいてしまう。大の男も気色ばむのだ。小柄なミストも、見慣れているとは言え近付けば吹き飛ばされそうだった。剣圧も然る事ながら、エリンシアの放つ殺気にも。

「お兄ちゃん、エリンシアさま!」
 悲鳴に近い呼び声だが、それでも二人、いや、エリンシアの剣は止まる事はなかった。近くで見れば、クリミア王女の握る剣は確かに、王家の宝剣だと知らされたアミーテと呼ばれる剣だった。天馬の機動力に合わせてか、剣身は短めで柄も良質の材を用いて軽量に勤めている。ミストは以前それを握らせてもらった事があるが、細身の剣を愛用する彼女ですら驚くほど軽いと感じたものだった。
 一方ミストの兄アイクは幅広で身の丈に近い長さの剣。それを振るう筋力も王女の比ではなかった。
 天馬から下り、しかもそんな軽い剣で兄に姿に、ミストも周囲の兵らも固唾を飲まずにはいられない。アイクは困惑顔でエリンシアの剣を受け続けてはいるが、その気になればいつでもその剣先を跳ね返す事はできよう。普段から行われている剣の教授では、それは日常ではあった。だが、真剣を交わしている今、旗印たる王女にいらぬ怪我を負わせかねないのだ。
 
 アミーテは軽いが、名工の手による作品なのだろう。白銀の剣はこぼれる事なく、大雑把な大剣を打ち続けていた。しかし、その主の体力が先に根を上げそうだった。兵らは、王女を助けるでもなくただ見守っていた。このまま疲れ果てて、この謎の剣劇が終わればいい。誰もがそう思っていた。
 だが、先に苦しみを訴え始めたのは、アイクの持つ刃だった。今の打ち合いだけでなく、今までの戦闘での疲労を受けたままでいたせいか、長い刃の一点がこぼれ落ち、思いっきり力を込めてぶつかって来たエリンシアを受け止め損ねてしまったのだ。
アイクに斬りかかる事だけを頭一杯にしていたのか、それとも経験不足が物語ったのか、エリンシアは不測の事態に対処できずに体制を大きく崩す。兵士らが大きく驚きの声を上げた。

「エリンシア様っ! 」
 靴が大きな轍を生み、そこへ王女の身体が倒れるのと同時にミストが駆け寄った。後ろから兵らも近付いて来る。
 エリンシアは、半身をミストの助けで起きるも、憮然と立ち尽くすアイクに彼女の視線はあった。憎しみでもないが、何か不穏な揺らめきをミストは瞳の奥で見つけた。
 細い肩は限界だと言わんばかりに大きく上下していた。しかし、それでもなお王女は立ち上がろうと身体を起こす。
「王女様、姫様、もうお止めください……」
「そうよ、エリンシア様。お兄ちゃんも何か言って」
だが、剣の打ち合いが止んだ今、見物人らは元来のクリミア兵と戻る。ミストを始め、たくさんの手が血気立った姫を制止した。それに気を鎮めたのか、今度は激しい抵抗も見せずに俯いてしまった。ミストはそんなエリンシアとアイクを交互に見やる。兄も状況がまったくつかめないと言った顔でエリンシアを見ていた。


「……エリンシア様! 」
 一堂の背後から、王女を呼ぶ声が響いた。騒ぎを聞いたルキノがようやく辿りついたのだ。兵士らは彼女に王女への道を作る。
「一体、どうなされたのです」
 先刻の気色立った様子はすっかり影をひそめ、エリンシアは力なく乳兄弟へと首を上げた。小さく首を振る。
「ルキノ、何でもないの。皆さんもお騒がせして申し訳ありません」
 か細い声でそう搾り出されると、エリンシアはルキノに促されるまま、天幕へと歩き出した。残る兵士らと兄妹は、魂の抜けたような背中を唖然と見送るだけだった。
「何だったんだ、一体……」
 誰かがそう呟いたが、その答えは誰も見つけ出す事はできないでいた。間もなく、各々の元の任に取り掛かるべく散り散りになった。後に残されたのは、傭兵団の兄妹だけ。

「お兄ちゃん! 」
 突然、ミストがきっと兄を睨みつけながら振り返る。ミストがなぜ睨んでいるのか、アイクも察する事ができる。だが、閉口しか反応できない。なぜなら、アイクすらわからないのだ。
「それはお兄ちゃんが鈍すぎるからよ」
「そうは言われてもな」
「きっと無意識にエリンシア様を傷付けた違いないわ」
 しかし、妹の言う通り、無意識に彼女を傷付けてしまったとしても、突然斬りかかって来るのはどうなのか。
 アイクは剣を握っていない手で頭をかく。背後から名を呼ばれ、振り向いた瞬間に白銀の光が襲ってきては、アイクも帯剣で受けるしかなかったのだ。
 突然の、理由もわからない攻撃に戸惑うばかりだった。同じようにいきなり勝負を申し込んで来るワユとは違う。しかし、エリンシアの剣は真剣だが、まとっていたのは憎悪ではなかった。だが、決して友好的ではない負の気があの剣にはあった。アイクを睨むエリンシアの視線も。
「もう、お兄ちゃん! ちゃんと思い出すのよ。エリンシア様と何があったのか」
 言われるまでもなく、アイクは記憶を辿っていた。だが、自覚がなければ振っても叩いてもどうしようもないではないか。
「ほら、今起こった事から順ぐりに辿って行けばきっと……! 」
 エリンシアのものよりずっと鋭い妹の視線を浴びながらも、アイクはずっと頭をかいていた。



「本当に、どうなされたのですか」
 クリミア王家の紋が一際大きく縫われた天幕の主は、あれからずっと一言も口を聞いていなかった。ルキノは何度目かの質問とため息を吐くと、軍議にも使用される机に歩み寄る。今は、大陸北部の地図ではなく、温まった茶器が乗っていた。白磁のカップも、薫り高い茶葉も、クリミア軍が再興する際にベグニオン皇帝から贈られたものだった。
 兵らの手前、こういった嗜好品を戦場で嗜むのははばかられるが、姫が意気消沈しているならば話は別だ。温かい紅茶がカップを半分まで注がれ、真っ白い牛乳と砂糖が少し。王女が幼少時から好む割合だった。
 しかし、甘い香りの湯気を前にしても、エリンシアは口を開こうとはしなかった。頬と目じりが少し赤らんでいるように見えるのは、湯気に当てられたせいでもあろうか。
 妙な部分で頑なになる姫だった。赤子の時からともに過ごしてきた間柄とは言え、姉代わりと言えど、固く結ばれた紐を解く術は完璧ではなかった。


 膝の上で握られた拳も、口と同じく固く結ばれている。悶々とした気がエリンシアの体中を巡るが、その噴出し口が見つからない。
 一言で表せば後悔。
 ほぼ肉親と言って良い関係の乳兄弟にすら、言えるはずがなかった。あんな事。

 兵士らが天幕を設営している間、エリンシアも雑木林にて天馬の食糧を探していた。王女がそんな雑用を、と、それすらも兵士の手が伸びようとしていたが、自分の天馬だからと頑なに拒んでいる。タニスの教えでもあるが。
 飼葉桶を手にひとり雑木林に入るエリンシアの背中を見たからと、そこへアイクもやって来ただのだ。手伝うと言ってくれたのは嬉しかった。天馬の好む若い葉や芽は樹の高い場所に生えている場合が多く、手が届かない。案の定、エリンシアがいくら背を伸ばしても摘む事のできない芽を、アイクが何度も摘み取ってくれたのだ。
 行軍の合間の、安らかな時間のはずだが、エリンシアの血は熱くなり始めた。逃れてきたばかりの時とは違い、今はお互い軍の上部に立っていた。こうして二人きりで何気ない会話を交わすのはいつぶりだろうか。
 ふと、アイクは若芽を摘む手を止め、疑問を口にした。天馬に近い馬は、固い青葉も好んで食べる。時には、固く干した草も。
「本当は高山の苔が好きなんですけど、そこまでは贅沢を言ってはいられないと、彼らもわかっているみたいなんですよ」
「……それでも充分贅沢だと思うがな」
 確かに、保存の利く干草でも食べてくれる軍馬よりかはかなり手がかかる。地上の青草も食べない事はないが、その時は天馬の動きも鈍るので、どうしても若芽が手に入らない時の最終手段だとタニスは言っていた。
「他の方には面倒かもしれませんが、自分がお世話になってる天馬のためと思えば―――あ、アイク様、それは駄目です」
「そうなのか? 」
 アイクは摘んでいる濃い青の葉を不思議そうに眺めた。飼葉桶に積まれた葉を、空いている指で摘まみ上げ、色や形の違いを確かめたり、双方を木漏れ日に透かしたり、その判断を調べていた。だが、しばらくして音を上げる。
「わからんな」
「始めは見分けが付きにくいものです。わたしもそうでした」 
 だから、こうして判断するのです。とエリンシアは近くの幹から青々しい芽を摘むと、それを口に含んだ。人も食せるものは、天馬でも口にできるのだと。青臭さを感じるが、普段食べている葉菜類とそれほど違いなかった。むしろ、ここ最近携帯食ばかりの日々ゆえに、その青さがおいしく感じる。
 ゆっくりと咀嚼するエリンシアをじっと見ていたアイクも、手ごろな若葉を摘むと、それを口に放り込んだ。もごもごと噛んでいるらしいが、眉間に皺が寄っている。
「とても苦かったり、渋味があるのは天馬もた……」
 最後まで言えなかったのは、アイクの口にあった物が今己の中に入れられたからだ。思いっきり見開いた目は、近距離にあるアイクを通り越して、重なる木々の間から見える青空が映っていた。
 わずかな苦味が、エリンシアの口腔内に広がる。しかし、顔を真っ赤にして立ち尽くすエリンシアを他所に、アイクの言葉は素っ気なかった。
「それでもおれにはまだ判断がつかん」

 それからまともな会話もなく、飼葉桶を満たすとエリンシアは早口で礼を言って愛馬の許を急いだ。あの現場を誰かに見られたはずはないが、口に残るわずかな苦味と、唇の感触が交互に思い出され、エリンシアを急きたてる。それは、摘んで来た芽を食む天馬を前にしても消える事はなかった。顔を赤くして首を振る主人を前にしても、天馬は悠々と歯を擦り合わせてはいるが。
 実を言えば、アイクとは少しだけ近い距離にあるとエリンシアは思っている。亡国の姫と、雇われた傭兵の間柄だけではない、と。
 はっきりと気持ちを伝えた訳ではない。だが、二人きりでいた時の甘い空気が、言わずともそれが伝わっていたのだ。時には膝枕したり、額に口付け合ったり。つまりあれが、初めてなのだ。
 エリンシアの胸に、ふつふつと黒いものが湧いて出ていた。天高くに臨む太陽がエリンシアの腰元を照らす。家臣ユリシーズから渡された宝剣の鍔が陽光を跳ね返していた。
 考える間もなく、エリンシアは飛び出した。水を求める愛馬のいななきも、今の彼女には届いていない。



「―――だから、エリンシアは自分で食って確かめろって言うが、おれはまだ判断がつかなくて……」
「わかった、わかった、もういいから! 」
 ミストの言葉通り、今から遡っての行動を淡々と告げるアイクを、ミストは首を振って制した。
 訊いた自分が悪かった。二人がそういう関係なのは薄々気付いていたミストであり、それを内心で喜んではいた。だが、二人の「具体的な関係」までは聞くに耐えない。肩を落として兄に進言する。
「とりあえず、エリンシア様には謝っておいて、それからこの事はあんまり喋んない方がいいと思うよ」
 それに、あれだけの大騒ぎの原因としては余りにも馬鹿馬鹿しすぎる。他の者が釈明を求めれば、この朴念仁は正直に答えようとするのか。
 妹の言にもあまり釈然としないと言った風体で、アイクはずっと頭をかいていた。問われれば本当に馬鹿正直に答えそうなのが、この兄の恐ろしい所なのだ。ミストはエリンシアに、心から同情していた。いきなり斬りかかってしまう彼女にも多少問題があると思うが。


09/07/02TOP
字書きさんお題 その7 バトル小説を書く

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