あの空に

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  辺りはしんと静まり返っていた。
  太陽は天高く輝いているはずなのに、小さな窓は遠慮がちに日の光を通している。

「今日もデインにとっていい日となるかしら」
 だが、涼やかな風は部屋の住人の頬を撫でる。火照った顔には恵みの風だった。ふわりと遮光巾を揺らす風。小さな窓から眩しいほどの雲が流れていた。あの真っ白な雲に、小さな影を期待しながら、ぽつりと呟いたのだ。
 
 寝台の主の声はしっかりとしていたが、かすれていた。側にいたサザは、考える間もなく、寝台の脇の卓上から小さな水差しを取る。細長い口をそっと乾いた唇に当てた。幾重にも重ねられた羽毛枕に背を預け、サザのなすがままに冷たい水を口に含む。その間、瞳はじっと弟に向けられていた。弟は、部屋に入った時―――朝から、ずっと押し黙ったままだった。
 
 両の手を持ち上げて、弟の頬をはさんだ。両手も熱いせいか、弟の肌は冷たい。これでは、どっちが死に行くのかわからないではないか。
 それでもサザは口を真横に結んで濡れ布巾を額に当てる。銀の髪の下は、手よりも熱い。だが、青白い肌は乾いていた。その額には、ほんの少し前まで、国家の冠をいだいていたのに。

「元より、無理な話だったんだ」
 ようやく開いた口から、吐き出される言葉。
 だが、人の心を図る力を持つ彼の姉にとっては、サザが何を思ってそう言ったのかはわかっているだろう。

 
 サザは、この血の繋がっていない姉が、自分とは違う類だと幼少の頃から知っていた。ベオクラグズ、どちらかも忌み嫌われ、迫害され、人目を避けてひっそりと暮らさなければならない種族。だが、物心ついた時から塵溜めの中で暮らし、身寄りもなく地を這って生きてきた自分には、女神の禁忌をなど関係ない。汚らわしいものを見るような目で見られるのも、石を投げられるのも、自分も同じだった。共に生きようと差し伸べられた手だけがすべてだった。
 輝いて見えた手は、幼いサザにとっては大きく、頼もしかった。しかし、二人手を取り合ったからと言って、生活が一変した訳ではない。各地を転々としながら、その日を超える事に精一杯だった。だが、一人でそうしてきた時よりも、遥かに心は軽かった。
 だから、彼女より早く大人になる事は、サザにとって誇りだった。彼女を守るのは自分の役目なのだ。背も伸び、腕力がついて、充分に彼女を庇護できるように早くなりたかった。ただ、一つの心残りは、その分彼女より早く逝ってしまう事。己が冥府へ旅立てば、誰が彼女を守るのかと。

 だが、内憂を晴らすかのように、それは逆転してしまった。
 本来ならばベオクより永く生きるはずの彼女だった。なのに、医者も匙を投げてしまった今、ただその時を待つしかないと、本人も心に決めている。その身を支えきれずに斃れてしまうまで、彼女は王だった。

 
 


 旅立ちの際まで来て、思い出を語る事もはばかられた。
 別れを惜しんで語り合うなぞこの二人には愚かしい。ともに過ごした日々は何にも例えようがなく、何物にも変え難いものだった。今ここで別れの寂しさから口に出してしまえば、全てが風に吹き飛ばされてしまうかもしれない。
  

「これは寿命なの。わたしの」
 姉の手が、そっと弟の手に添えられる。サザはその手を強く握り返した。熱い手のひらは、残り少ない命を燃やし尽くそうというのか。
「確かに、『わたし達』はあなた達より永く生きる。だけど、人には全て寿命がある。わたしの天命は、偶然この長さだっただけ。だから泣かないで。わたし、たくさん生きたわ。無理じゃない。これで、充分だった」
 たくさん。
 にこりと微笑む姉に、サザは奥歯を噛んだ。禁忌の子と言われ、特別な力を持ち、一軍、一国を束ねた運命が存えるはずだった命を激しく燃やしたのではないか。
「ほら、もう泣かないで」
「泣いてなんか」
 あなたは涙も、声も出さずに泣く癖があるから。
 熱い手が頬に添えられ、指先が目じりに当たる。最後まで、弟を心配する姉だった。産みの親の顔など知らなかった。だから、こんな気持ち知らなかった。だのに、彼女と出会い、知ってしまった。けれど、それを口に出す事はないだろう。例え特別な力がなくとも、きっと彼女にはサザの心はわかっていたはずだ。

 観念して笑ったつもりでも、きっと姉には、泣いているようにしか見えないのだろう。最後まで、心配させてしまった。悪い弟だ。





 国中が重苦しい空気に包まれる中、サザだけが晴れやかな心でいた。たくさんの美しい花に囲まれて、最愛の人は旅に出た。
 ここ数日は気持ちの良い天気が続いていた。彼女の心を穏やかにするために、太陽すら配慮していたかもしれない。そう思うとサザにも笑みがこぼれる。空を仰ぐとその太陽の周りに、虹が珍しく輪を描いていた。

「冥府って暗い地底にあるような感じがするけれど、きっと空の向こうにあるのよ」
 空をじっと見ていた金の瞳は、正に空の向こう側にあった。飛び立ってしまった友を思っての事かもしれない。「彼女」には出会えただろうか。
 国内にも穏やかな風が流れている。姉と、彼女を援けんと尽力した者たちの成果だった。女王が斃れ、国の主がいない状態だが、きっと彼らが善い後継者に冠を渡すだろう。誰よりもデインを愛した者の志を継ぎ、新たな船出がこの国に課せられる。だが、それは憂慮する必要なないだろう。
 
 澄み渡った空と風に流れる雲の下、サザは少しの荷だけを持って城を後にした。彼女のいない城に、国の中枢にもうサザは必要ない。元より各地を渡り歩いてきた身だ。あの頃より身体はかなり衰えてはいるが、長年の旅慣れは鈍ってはいないだろう。この空がある限り、どこまでも行けそうな気がした。


09/06/11TOP
   字書きさんお題 好きな曲をモチーフにして書く 

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