沈黙が流れ、どれくらいの時間が流れただろう。
 道筋でも弱弱しくなって行った決心だが、私室から現れたワユの顔を見た瞬間、最後のひと葉が吹き飛んでしまったようだ。
 夜半とは言え、キルロイにとって慣れ親しんだ砦で、部屋を間違えたという言い訳は陳腐すぎた。いや、例えそれが通用したとしても激しい後悔に苛まれるのは見て取れる。
 前にも進めず、後にも引けず。正にその場を右往左往するだけだった。その反応こそが相手の目に一番怪しく映ってしまうのに。

「キルロイさん、どうしたの?」
「えっ?いや、その……」
 これすらもしてはいけない応答なのだと、頭では理解している。しているのだが。
 何度も、部屋で何度もこの先の己の言動を巡らせてきた。それなのに、頭の中の綿密な計画はまったくの役にも立たない。
 
 ふと視界の隅に弱い光を放つ月が見えた。夜道を照らすにはあまりにも頼りない明かりが。それは何かににていないか。ふと、そんな疑問が降ってきた。現状をよそに、いや、この現状だからこそそれがまざまざと思い知らされたのだ。ふう、と息を大きく吸い込む。
「あのね、ワユさん」
 早く、浅くなる呼吸を抑えワユに向き直った。
 確かめたかったのだ。どうしても。
 確かにキルロイの身体は弱かった。転戦に続く転戦の下、身体が高熱を出して悲鳴を上げるのは珍しくもない。時には、起き上がる事もかなわず、このまま女神の御許へ行くのではないかと囁かれたのも数回ではない。長年の傭兵生活と戦いの日々は、彼の病魔を追い出してはくれなかった。
 だがそれは認めても、心まで病に侵されているのには耐えられない。
 今こそ己の情けなさを振り切らなければならない。当たって砕けてもいい。潔く散った方が、この後も傭兵仲間として上手くやっていけるはずだ。と、思う。

 ワユの視線も、キルロイからずっと離れてはいなかった。それで自分が彼女を睨みつけているのだと気付く。
「どうぞ」
 小さなため息の後にその言葉は続いた。
「うん。じゃあ、お言葉に……って……ええ!」 
 落ち着き始めたと思われていた頭は意外なほどに浮ついたままで、その意味を理解するのに少しの時間がかかった。まじまじとワユを見るも、加速を増す心臓と絡まる頭は鎮まるのを知らない。
 薄暗い中、ワユはほんのりと口元を緩めているように見えた。それはどういう意味か。こんなにも挙動不審である自分を許してくれているのか。それとも、ここへ来た時から、察してくれていたのだろうか。
 
 覚悟は決めたものの、それ以上真意を尋ねる勇気はなかった。息を飲み、じっとワユを見ているだけで時間が流れに身を任せるに戻る。
 夜の闇に慣れ、現状を少し理解する余裕が生まれた頭は、ワユが普段とは違う衣服を着ている事を知った。男物だが、ゆったりとした上衣は、多分寝巻きにしているのだろう。体格よりも余裕のある服だが、それがかえって身体の線がわかってしまうとか、白い布が月明かりに透けて肌が見えてしまうなどではない。ただ普段とは違う姿。それだけでこうも心臓は不規則に跳ねるのだ。
 何度も深呼吸を繰り返す。情けないとか、まったく男らしくないとかそんな自評が脳裏をよぎるが、浮つく心を鎮める方が先だった。何度落ち着かせようとしてもそれは収まらない。きっとそれはこれが現実だからだろう。
 何度目かの深呼吸を途中で止めた。胸中で女神に祈りの言葉を呟きそうになったからだ。ベオクもラグズも、人はあれ以来女神の手から解き放たれた事もあるが、それ以前に、自ら突き進もうと決めたのだ。例えそれが脆弱な決意だとも。背中を押してくれたのは彼女自身だけども。

「あのね、ワユさん。ぼく―――」
 この夜、幾度も言いかけて止めた言葉。だが、今度はそれを止めたのはキルロイの弱い意志ではなく、ひんやりとした細い指だった。
「ここじゃなんだし」
 彼女らしからぬ控えめで遠慮がちな声が、これからの出来事を指し示していた。簡素な扉の先は廊下とさほど変わらぬ薄暗い空間が広がっている。それはこの先は己の強い意志で進まなければならないのだと言っているように思えた。
 心配はいらない。先刻までの軟弱さと優柔不断さは、ひっそりと立ち去ってくれたようだ。キルロイは大きな一歩を踏み出す。驚いてキルロイの名を呼ぶワユを腕の中に、後ろ手が扉を閉めた。


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字書きさんお題 「途中まで同じ内容でオチが違う話を3つ作る」

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