ジョフレ、ジョフレ、ジョフレ……!

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「失礼します」
 老人の枯れ枝のような、だがしなやかな動きは計り紐を無駄なくぴんと引き、ジョフレの胸板に添えられた。しなやかな裸の胸は、軍人らしく張られ、静かな呼吸に上下している。だが、緊張した体とは別に、恨みがましい念に駆られていた。その感情を隠す事なく、そのままの視線を壁際にもたれる二人の男女に向ける。それで、含みのある笑みを消すような二人ではない事も充分に承知だったが。

「将軍、動かないでください」
 熟練の老職人は瞳はジョフレの半身のまま、堅い声を放った。すまない、と口の中で呟く。視線は、壁際の傍観者たちから外してはいないが。
 執務室に突如現れ、初めはこの老人を引き取り願おうとしていた。しかし、後から続いて入室してきた姉と友人が口を揃えて女王が寄越した職人だと告げるのだ。女王の名を出されては、ジョフレも無下にはできなかった。

「まさか、君がそこまで衣装に無頓着だとは思わなかったよ、"デルブレー伯爵"」
「最低限の嗜みくらいはしてもらわないとね」
 姉とフェール伯は口々に言いたい事を言い放つ。
 余計なお世話だ、とジョフレは二人に一瞥をやるも、気の置けない者たちは彼の身体つきについての話題に意識が向いていた。それすらも、本人を目の前に言いたい放題である。ジョフレは盛大に溜息をついた。そして、また老職人から注意されるのだった。


 
 そもそも、こうなったのはジョフレに届いた二通の知らせが始まりだった。
 一通目はデルブレー伯爵宛ての手紙、もう一通は彼の抱える密偵からの報告だった。デルブレー伯爵より、クリミア宮廷騎士団長としての肌が強いジョフレは、無論痩身の密偵の言葉に耳と精神を傾けた。そうでなくとも、くぐもった声が紡ぐ言葉は、ジョフレの眉目を寄せるには充分だった。昨年起きた内乱が絡むとならば。

 国外へ逃亡していたと言われるフェリーレ公爵の旧臣が、ここ最近クリミアの国境を越えたと、密偵は告げた。
 フェリーレ公の野望を打ち砕いた際、その後処理に携わったのは紛れもないジョフレだった。敗走するフェリーレ兵を漏らさず捕え、抵抗と反女王の意志が激しい者は処刑した。自ら放った網に破れがあった事にジョフレは歯噛みを隠せないでいた。
 敗兵とフェリーレ家関連の処理に翻弄していたのち、内乱が本格的に始動する直前に、公爵家の臣下らが公爵と諍いを起こしてベグニオンに逃げたとの情報がもたらされた。だが、クリミア宮廷内にて反乱と彼らの関係は薄いと決議され、それ以上の詮索は無用と言い渡された。おそらく、国内の不手際を帝国にまで持ち込みたくないという文官らの思惑だったのだろう。内乱直後のベグニオン帝国とラグズ連合軍の戦争勃発もあり、ジョフレもその件は記憶の彼方に追いやっていた。
 首謀者は未だ獄中にあり、反女王の気風は以前とは打って変わって影すら見せない。その中で、長く国外にいた彼ら旧臣が事を起こす可能性は低い。だが、充分に目を光らせておく必要はあった。密偵に引き続きの情報収集を命ずると、ジョフレ自身も執務室を後にした。



 ルキノは女王の執務室の控えの間にいた。近衛である彼女は、女王の公務中は大抵そこにいる。控えの間が実質ジョフレの姉の執務室のようなものだった。
 宮廷騎士団長と近衛隊長。立場で言えばジョフレが上ではあり、本来ならば姉を呼び出すのが本来の筋というものだが、長年のしがらみのせいか、ジョフレは自然と足を姉の元へ向けていたのだ。


「ええ、知っているわ」
 姉はあっさりと弟の問いに答えた。知っているだけならばともかく、フェリーレ公爵家が解体されたと知りながらも何かと額を突き合わせているとまで。
「知っているなら何故おれに知らせない」
 宮中の政治劇ならいざ知らず、国家、いや女王が再び危機にさらされる可能性があるのだ。どんな小さな芽でもジョフレの手で防ぐのが己の使命だと考えている。
 しかし、弟のすごみにもルキノは動じる事もなく、ゆっくりと首を振った。
「まだはっきりとしている訳ではないもの」
「だがな、フェリーレの残党となれば用心に越した事はない。真意を確かめるのに労は惜しまん」
 昨年の内乱で、首謀者に捕らえられ、あわよくば処刑までされようとした本人は、それでも平然と弟を見ていた。姉をもうあのような目に遭わせたくはないという気概よりも、再び国家と主君が危険に晒される心配をジョフレはしているのだ。姉もそれはわかっているのはずだ。姉は仰ぐようにしてジョフレを見た。彼と同じ色の髪が肩で揺れる。二年前まで、背中まであったのだ。
 今は肩で切り揃えられている姉の髪は、昨年、ルべドックに拉致された際にばっさりと切られ、一年経った今でもその長さを保っている。髪を伸ばさない理由について、様々な噂が宮中で飛び交っているのだが、当の本人は、貴族たちが毒にも薬にもならない見解を交わしている様を傍から見ているのを喜ぶ為だとジョフレは思っている。


「それより、あなたにも届いているでしょう?招待状が」
 ルキノが切り出したのは国の危機の可能性よりも、ジョフレに届いたもう一通の知らせの方だった。
 おれの話を真面目に聞け、とジョフレは姉を一喝しようとするが、そんな弟の言葉と感情を押しのけてルキノは言葉を続ける。ジョフレも諦めて、封すら切っていない手紙を思い出した。正直にそれを告げると、ルキノは手紙の内容を説明し始めた。
「ベイル男爵から歌劇会の招待状よ。領地に劇場を建設したからその落成記念に招待されてるの」
 ベイル男爵。その名は宮中の事情にさほど詳しくないジョフレも知っていた。デインがクリミアに侵略を謀る前は、爵位すらない内務官だったのだ。クリミア奪還後、復興に尽力を注いだ功績で議会にて爵位の進呈が承認されたのだ。
 だが、そんないち地方貴族の出世にではなく、ジョフレの渋面は姉の説明の内容にあった。
 デインの侵略前は、クリミアは芸術の鑑賞や狩猟、乗馬などが貴族間で盛んだった。ジョフレ自身幼少時よりレニングに付き従いそれらに参加して来た。伯爵家の嫡男であったジョフレだが、貴族よりも、小さな姫を守る騎士に一刻でも早くなりたいと思っていた彼には、詩の韻がどうだとか、旋律の素晴らしさやらには全くの興味が生まれなかった。狩猟や乗馬とて、同じ弓でも豪奢な狩猟用の物より、戦に備えた弓や槍の捌き方を知りたがった。
 貴族らが以前の娯楽に手を出し始めた事は国の安定を示してはいるが、できればジョフレは関わりたくはないのが本音だった。
 だが、それを見透かしているかのごとく、ルキノは苦笑じみて弟を諭した。
「爵位を持つ貴族とその家族には全員招待状が来ているはずよ。それから、フェール伯も男爵に劇場の建設費を貸しているのよ」
「ユリシーズが噛んでいるのか。ならば話は早い。彼を通して」
「女王陛下もご出席なさると聞いているわ」
「陛下がご出席なさるならなおさら」 
 切り札、とばかりにルキノは主君の出席の話を出した。貴族が自領で私的な行事を行うとならば、その警備の任はその家の私兵が担う。しかし、そこへ女王が赴くとあらば話は別だった。
 女王の出席、それはジョフレにとって欠席の大義を与えた―――と思っているのは本人だけなようだ。ルキノは空色の髪を横に揺らす。
「これはまだ不確かな話だけど」
 ルキノの勿体ぶった物言いは、逐一ジョフレを苛立たせた。が、次の言葉は苛立ちを一度に吹き飛ばした。
「主催者であるベイル男爵がフェリーレ家の旧臣をまとめている噂があるのよね」
 そうならばなぜ、と及言しかけたが、ジョフレは喉元でそれを留めた。
 姉がここまで呑気にしているという事は、本当に不確かな情報しかつかんでいないという事もある。それに、宮廷騎士団長という立場である以上、近衛士の姉と文官の友にいつまでも頼っている訳にはいかない。
 ならば、こちらで独自に網を張っていればいいのだ。何か男爵と旧家臣らに動きがあれば、肌に合わぬ観劇などいくらでも蹴る事ができよう。


 後に再び密偵から告げられた内容は、ほぼ姉の話と同じ内容だった。つくづくルキノ、いや背後にいるフェール伯ユリシーズ、そしてほぼ彼の密偵と言っても良い「火消し」の仕事ぶりには感嘆を示さずにはいられない。
 それに引き換え、姉の話を元にジョフレ自身が密偵に調べさせても、件の男爵とその周辺では怪しい動きは見えなかった。そもそも、フェリーレの旧家臣とは誰なのか、何人いるのかすら掴めていない状況で、内心ばかりが焦り、幾日の時間だけが無為に過ぎていた。
 
 そんな中だった。衣装職人が弟子を連れて再びジョフレの元へやって来たのは。歌劇会に着て行く服の事などすっかり忘れ、さらに募る苛立ちもあって、今日の所は帰ってもらおうと考えたが、老人と弟子の後に続くユリシーズの顔がそれを拒否していた。

「今日は仮縫いができたとの事。大人しく着てみるがよい」
 職人たちの手前、男爵と旧家臣らの話はできそうにもなく、苦虫を噛み潰したような顔で仮縫いの服に袖を通す。
 絹のシャツの襟は吸いつくようにジョフレの首を覆い、心地よいものだが、袖の大仰なレースが気になってしょうがなかった。さらに閉口したのはシャツの上に羽織る腿までの上衣であり、厚手の生地は通気性が良いとは言えず、さらには派手に煌めいていた。まるで、舞台衣裳かと思うほどだ。
 三年ほど前、まだアイクがクリミアの将軍だった頃、彼もこういった意匠を身に着けなければならなかった時分、包み隠さず不平を洩らしていたが、ジョフレもそれには手放しで頷ける。軍人用の礼服ですら、窮屈に思えるのだ。
「おお、ジョフレ、ジョフレ、ジョフレ……!見違えたぞ」
 ユリシーズは諸手を前に出して、感動していた。
「我が友よ。そう露骨に嫌な顔をするでないよ」
「どこかお気に召さぬ部分がございましたか」
 職人の的外れな質問に、ジョフレは首を振る。そもそもこの服と歌劇会の参加自体がお気に召さぬところだと言いたいが、さすがにそれには口を噤む。代わりに、とばかりにユリシーズが口を挟んだ。
「ああ、そこ。そのスカーフ留めの孔雀石だがね。もう少し大き目の物に変えられないか」
「残念ですが、他の貴族の方々の注文で手いっぱいでございまして……これ以上の物となると間に合いません」
「ユリシーズ!余計な事を!」
「まあまあ。せっかく吾輩も協賛の役目に預かっている会なのだ。吾輩の為にも少しはめかし込んでくれたまえ」
 かねてより芸術面に造詣の深いと評判のユリシーズだった。デイン=クリミア戦役より前より、若手の歌手の育成や、詩の朗読会の主催などを頻繁に行ってきたのも知っている。今回のベイル男爵の劇場の建設費用も一部貸付けているというが、姉曰く、貸付は名目で、費用の負担により劇の台本を書く大義を男爵に承認させているとの事だった。

 もしかすると、その為に会を中止するのを憚っているのでは。
 と、ジョフレの中で不審さが込み上げて来る。
 ユリシーズはクリミア王国宰相として女王の後ろ盾を務めている。一方で、宮中でも芸術を好む事で名高い男でもあった。国が多少荒波に晒されようと、愛する趣味を取る可能性もこの男なら充分にあるのではないか。
 じろりと友人を見たが、平然と伯爵は髭を上げているだけだった。その様子では、ジョフレの心中などお見通しと言った風だ。
「そうそう。スカーフと言えば。実は陛下からお預かりしてる物があってな」
 先日の姉のように、勿体ぶりながらユリシーズは小脇に抱えていた袋を執務机の上に置く。美術品には全くの無知であるジョフレですら、その袋自体が高価な物だろうとは悟る事ができる。だが、目を見張ったのはその中身であった。
 ユリシーズ自ら青い孔雀石を外し、ジョフレに赤紫のスカーフをかける。その艶やか、もっと率直に言えば派手過ぎる布にジョフレは言葉が出なかった。
「おお、やはり似合うな。さすが陛下のお見立て」
「左様でございますな。もっとスカーフが引き立つように上衣の襟を変えておきましょう」
 老職人も、満面の笑みで弟子と新たな意匠へ意欲を燃やし始めた。元の白い方でいいと叫びたかったが、主君が選んだとあれば無碍にできるはずはない。不謹慎ではあるが、男爵とまだ見ぬ旧家臣らに祈りを始めるのだった。


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