変わるもの、変わらないもの

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 いいね。
 両親の言う事をよく聞いて、よく本を読んで、好き嫌いもせずにいれば、
 必ず素敵な淑女になれる。そう、我らが女王様のように。
 そして、いつかお前の目の前に白馬に乗った王子様が現れて、お前を迎えに来てくれるのだよ。

 毎度毎度、優しくそう語りかけられていた。だけど、

「はん、ぼんやりしているだけで上手いこと王子様が転がり込んで来ると思ってたら大間違いだよ」
 そう言われた回数の方が、遥かに多かった。
 そのせいだからか、わたしは甘く優しい語り聞かせよりも、薬味と香辛料がよく効いた箴言が好きだった。より現実的な方向へ視線が向いていた、と自負するほどに。母の言葉を借りれば、地に足が着いている。父はもう少し夢のある娘でもいいんじゃないか、と少しだけ心配していたが、ちらりと母を見ると太い首をさらして大笑いしていた。




 クリミア王国王都メリオル。
 メリオルでも、クリミアの膝元である城下町は、変わらない活気を、宵の世界になっても見せていた。隣国デインの奇襲、侵略、いわゆる「デイン=クリミア戦役」より十年。デイン兵による破壊が一際激しかったこの地も、真っ先に再興の手が進み、今では戦前より盛んな人の行き来があった。

 クリミア王城正門よりまっすぐ走る大通りから、最初の角の酒場は、復興が着手されて最初にできた憩いの場だった。今では最良の立地条件の一つと言われていてるが、元手もわずかにそこで店を開く事ができたのは、ひとえに経営者夫婦が、クリミア最後の王族エリンシアを旗印に立ち上げた新興クリミア軍に参加していたゆえんだ。
 つまり、戦争が終結すれば今までの生業を捨て、酒場経営に乗り出そうとしていた若い男女は、荒れ果てた城下町に商売人たちが戻ってくる前に最良の場所を押さえていたのだ。街の復旧のどさくさに紛れて。
 その努力の甲斐あってか、通称「カリルの酒場」は開業以来客足が途絶えた時がない。経営者夫婦は、今晩も、開業時と変わらず城下町の皆の労をねぎらう。いや、経営者夫婦だけではない。二人の一人娘も今では立派な酒場の労働力だった。


「あら、いらっしゃい」
 店の入り口をくぐった常連のひとりに、娘は微笑みかける。母親に似てしっかりとした、だが、夜の街に染まり切っていないあどけなさの残る笑みは、誰にも好意的に取れるものだった。
「しかしねえ、あのエイミもここまで立派になったもんだ」
 デインから祖国奪還後、すぐに商売を再開した中年男は、まるで親戚の娘を見るような視線をエイミに送る。
「そうだろ。そうだろ」
 と、カウンターを挟んで女主人が満足そうな笑みでグラスを客の前に出す。娘がほんの小さな頃から彼女を見守ってきたも同然で、実質親戚のような間柄だとは男も自覚している。
まだ十も半ばの年だというのに、エイミの手際は、長年の積み重ねからなる熟練の所作だった。次々と酒や料理を運び、酒臭い匂いを撒き散らす客にも笑顔で言葉を交わす。中には、柄の悪い男が酒精の勢いで絡んで来る事があるが、鍛え抜かれた身体を持つ父親が出てくる前に体よく捌いてしまうのだ。周囲の常連の手助けもあるが。

「あ、騎士団の方。いらっしゃい」
 数え切れないほどの客が出入りした店の入り口。その客の中には、クリミア宮廷騎士団の面々も珍しくはなかった。今では足が途絶えているが、昼過ぎの閑散時には、クリミア女王も足繁く通っていた時もあったのだ。目的は酒ではなく、女主人の作る菓子だったが。
「やあエイミ。今日も張り切ってるねぇ」
 勤務を終えているはすだが、この男は鎧を脱がずに酒場の入り口を通ってきた。しかし、この男はその点を抜いても、宮廷騎士だと説明されても画点がいかない。常にへらへらとした笑みを浮かべ、背も伸びているとは言えず、鎧を通しても頼りなげな痩身。勤務態度も不真面目、しかも賭博に目がなく、男の家族が絶えず尻拭いを繰り返しているのだ。彼を良く知る他の客らも、この男にだけは呆れ顔で接している。
「今日はどうだったの?」
「うん。いつも通り」
「まったく……」
 のんびりとした答えにエイミはため息をつく。王宮騎士のくせに不届けの金貸しから平気で金を借りる男は、賭博の勝ち負けでそうそう表情を変える事はない。男の妻は、その姿をどう脳内で映しているのか「何事にも動じない、常に自然体でいる人」と評している。

「あー、今日は他の連中は来てないんだな」
 男は我が物顔で椅子にどっかりと腰を下ろし、周囲を見回す。「お前さんとは違うんだからよ」とどこかから野次が飛んだ。
 背を丸めて肘を突く身体は、既に酒を漂わせていた。賭博場でもかなり下地を作ってきたらしい。「ここで賭場が開けたら文句ないんだがね」とは、この男の口癖だが、それはここの経営者たちが許さない。
 男につられ、エイミも店中をぐるりと視線を巡らせた。少し考え込んだが、カウンターの方から料理ができたと母親の声で思考は遮断された。夜半は、酒場が一番活発な時間なのだ。仕事以外考える隙間もない事は、エイミも熟知している。
「もう、早く奥さんの所へ帰ったら!?」
 ほとんど八つ当たりで騎士の男にグラスを置く。グラスの底と木製の机がぶつかる乱暴な音がするが、すぐに喧騒にかき消されてしまった。もっとも目撃者がいても、誰も男に加担しないが。



 酒と煙と男たちの声で埋め尽くされる店だが、客が姿を消すと、すっかり静寂の世界に変わる。一握りの寂しさを胸に残すも、祭りとは違い、この店にはまた明日それがやって来るのだ。
 片付けも終わり、店の明かりも消え、二階の自分の部屋に戻る頃は夜も終わりかけていた。しんと静まり返った中、時折男女の笑い声が響く。それを背景に、エイミはわずかな蝋燭の明かりの下で本を開いた。ちゃんと椅子に座る時もあるが、今日は疲れもあってか寝台に寝転がった。
 文字はすでに習得していた。教会の学校ではなく、母親から教わったものだ。エイミの母は、この酒場を開く前は、魔道の修行の旅に出ていた。旅先の開拓地で偶然開拓労働に従じていた父と出会い、一緒に旅するようになったと、数年前に母から聞いた。
 
 エイミが読んでいるのは、母の魔道書、ではない。最近メリオルで流行中の作家の最新作だった。人生の終を待つだけだった老人と若い娘の淡い恋物語。エイミの母はこの本を見た途端眉根をひそめたが、それだけで何も言わなかった。
 ごめんね。お母さん。
 今ここで広げているのが、魔道書ではない事に、エイミは残苦の念に駆られる時がある。魔道を志していた母は、一時期エイミにもその道を歩かせようとしたが、頑なに拒む娘にようやく断念したのだ。エイミにとって、誰よりも尊敬するのは母だった。年頃になり、母親と女の分別を嫌悪するようになっても、母に対する愛情は変わらなかった。無論、父も。
 エイミは母親のようになりたいとは夢見ても、母と同じく魔道を志す道は考えもつかなかった。そう期待する母の心は言われなくとも感じていた。エイミは、誰に教えられた訳ではなく、どことなく気付いてしまっていた。自分が、母の胎から生まれた子ではない事を。父を胤(たね)としている訳ではない事も。そして、自分が何者なのかも。


 十年前、なぜか父親から離れ、母とともに国外にいた思い出があった。メリオルから帰宅した直後、母が魔道書を差し出したのだ。
 だが、その時にはすでにエイミは悟ってしまっていた。自分が両親や、店の常連客らとは違うのだと。たまにやって来るガリアやフェニキスの特使らとも違うのだと。
 
 自分はいつか、周囲から不審な視線にさらされるのだ。それがいつになるかわからない。今すでに成長が止まっているのかもしれない。
 だから、魔道の修行を理由にメリオルのこの城下町を抜け出させようと母は画策していたのだ。旅から旅への身は、変わらない姿には丁度よいのだと。
 だが、エイミは魔道書を手に取らなかった。
 母に憧れる気持ちはあっても、母の期待を汲み取る気にはなれない。申し訳ない気分で一杯になりながらも、エイミは首を横に振った。母は「仕方ないね」と苦笑いしただけだった。側にいた父も「仕方ねえな」と大笑いしていた。

 半分まで進んだ小説は、どんな苦境の中も前向きに生きる娘に、老人が心動かされていた。時の流れに身を任せ、若い体の中にも燃えるものはなかったと述懐する年老いた男。娘は老人にこう言うのだ。燃えさせましょう命の火を。心に燃える物がなければ、これからそれを見つければいい。それがいつになってもいい。そして、燃え尽きれば、それは命の死を意味するのよ。流星の如く。

 どんなに長く生きていても、竹林のように風にしなっているのみでは、生きている意味がないと、物語の娘は言う。
エイミは彼女と親しいラグズの友が大好きだった。だが、それは自分と違うのが珍しい訳でもなく(最初は、尻尾や翼が羨ましいと思ったが)、ベオクよりもずっと長く生を歩める訳でもない。むしろ、今のエイミにとっては、ベオクより存える命が怖かった。

 読みかけの本に栞を挟み、表紙をぱたんと閉じる。
 蝋燭の灯を吹き消すと、部屋は闇に包まれた。闇に意識を溶け込ませるように、エイミはすっと目を閉じる。
 まぶたの向こうに思い描いた人物への思いがどういう類のものか、年頃の彼女は充分に理解していた。



 十年ほど前。まだエイミが幼い子供だった頃だった。
 母は魔道の力を宮廷騎士団に請われ、一時期軍属に出ているのだと、父から諭されていた。母のいない日常は心細いものだったが、父の分厚い手と、「いい子にしてたら早くお母ちゃんは早く帰ってくるぞ」という言葉を支えに耐えようと心に決めていた。それ以外は変わらない日々、のはずだった。
 ある朝、まばゆい光がエイミの目を覆いつくした。朝日ではない事は幼いながらも直感で知っていた。それが、何かとてつもなく恐ろしいものだという事も。
 お母ちゃん!
 光は眼球を刺し、真っ白な闇でエイミの視界を塞ぐ。その中で、エイミは何度も叫んだ。
 後ろから誰かが悪戯で目隠しをしていたかのように、ぱっと手が離れた感覚になり、白い闇は一瞬で見慣れた部屋に戻った。だが、何かが違う。朝早くとも、商業街である城下町は人と車輪の音でにぎわう。それがまったく聞こえないのだ。
 お父ちゃん!
 今度は、父を何度も呼んだ。先刻とは違う恐怖がエイミの心をつかんでいた。足をもつれさせながら階段を下り、酒瓶の補充や料理の下準備をしているはずだった。階下の調理場で、父はいつも通り夜の準備をしていた。している途中で、全てを止まらせていた。
 お父ちゃん、お父ちゃん!
 触れた腕は冷たく、固かった。起こす時のように揺らせば、その姿のまま、がたがたと床板を鳴らす。これ以上強くすれば、父は倒れて粉々になる。そう予見して父をつかむ手を離した。父―――の像は固い音を立てながら小刻みに揺れると、ぴたりと止まった。だが、エイミの涙は止まらなかった。
 お母ちゃん!お父ちゃんが!
 店と二階の居住区を、何度も何度も走りながら母親を探した。そこにいるはずがないとわかっている。だが、探さずにはいられなかった。走らなければ、涙と恐ろしさと寂しさで、おかしくなってしまいそうだった。
 お母ちゃん、おかあちゃん!おかあちゃん!!
「―――エイミ!エイミか!」
 階下から、声が聞こえた。人の声。耳に直接届く声が。聞き慣れた響きが。
 エイミは階段を駆け下りながら大声で喚いていた。何を言っていたのか今はもう覚えていない。足がもつれ、途中でこけたが、すぐに抱きとめてくれた。勢いよく額をぶつけた。固い鉄の鎧。だが、父のような石の肌よりもずっと良かった。
 
 泣きじゃくるエイミを、大きな手はずっと抱きしめていてくれた。本当はそんな事してくれる人じゃない。酒場で何度も顔を合わせ、言葉を交わして来た人だが、そこまで親身になってエイミを抱いてくれはしないと思っていた。だが、外に動くものすらない世界で、その人の肌は何よりも暖かい。
 抱き上げられ、馬車の幌の下に乗せられると、エイミは泣き疲れたのか、すぐに意識を手放した。その間も、あの暖かい手はずっとエイミのそばにあった。
 十年経った今も、その暖かさと手の感触を覚えているなど笑ってしまう話だった。無論、その後彼に触れた事など一度もない。
 


「いらっしゃい」
「やあエイミ」
 昨夜はやって来なかった男が、適当な場所の椅子に座る。陽はまだ燦々と城下町を照らしていた。
「珍しいのね。お昼時にいらっしゃるなんて」
「たまにはいいかと思ってね。抜け出してきたんだ」
「宮廷騎士団って暇なの?」
 率直な言葉を投げかけられ、男はコップの水を噴出しかけた。人目を気にしてか、懸命にそれを堪え、持っていた手巾で口を拭う。昼食を楽しむ者も少なくはないが、夜の喧騒に比べれば、まだ外の方に活気があった。
「仮にも、国家を守る団体なんだ。暇だとかそんな事は言わないでくれ……」
 己の身より、騎士団、ひいては国の沽券を気にしている発言だった。さすがは騎士団を束ねる者と言ったところか。
「それにな。今日は私は休日であって、別に抜け出したって誰も文句は言わない」
 今度は己の擁護に入り、エイミはおかしくなってきた。正午の鐘が今しがた鳴り響く。これから、休憩でやって来る者が押し寄せてくるだろう。厨房から吐き出される料理の匂いや調理音の量がどっと増えていた。
 あれから十年経った今も、エイミと彼は経営者の娘と店の常連のままだった。エイミは年頃になり、彼はより青さが抜けてきたのだが、距離はいつまで経っても同じ長さだった。コップをつかんでいる手の大きさも、きっと変わっていないのだろう。騎士団長の周囲の者は大概身を固めているのだが、彼だけは未だ独身な辺りも。
 それがエイミを余計に焦がさせているのだ。皆が言うように、早く申し込んでしまえばいい。エイミですらそう思う。その相手は、きっと待っているのだ。彼からの言葉を。
 自分はあの方にはふさわしくないのだと、何かと言い訳をしているが、きっとそれは、彼も恐ろしいのだろう。何かが変わる事が。
 変化を怖がって、何ができるというのだ。エイミはむしろ、いつまでも変わらない事の方が恐ろしいと思う。それは、いる自分にやって来るかもしれないのだ。変化のない人生が。

 明日がどうなるかわからないから、人は一生懸命に生きるの。
 読み途中の小説の娘もそう言っていた。変わる事を恐れて、何もせずに後悔だけが残った老人。エイミも、ベオクよりも長い寿命があるはずだが、突然潰えるかもしれないのだ。だから、生きていられる。そう信じていた。
 いいのかしら。このままあの方が別の人と結婚してしまっても。
エイミよりもずっと大人のこの騎士を見るたびに、そう思ってしまうのだ。

「平和な今だからこそね、ガツーンと何かやってみなさいよ。しょーぐん!」
 突如そう言われて背中を叩かれ、騎士は匙ごと料理を噴出した。
「なに」
 数度咳き込んだ後振り返ったが、昼時の繁盛時に入ったためか、エイミの姿はすぐにカウンターへ消えていた。


 変わらないでいいものは、思い出だけでよかった。
 あの時触れてくれた暖かさはエイミの中だけでずっと残っている。それでいい。

 今でも、あの時の手のぬくもりを覚えているなんて言ったら、あの人、きっと面食らうもの。

「ああ、でもどうしようか……」
 例え自分が発破をかけたとしても、きっとあの臆病者は動きはしない。エイミよりもずっと親しい彼の周囲が色々と動いているのに、何も変化がないのが何よりの証拠だった。
 どうしようか、とは、ああ言ってもここ十年先もこのままの気がしてならないからだ。
 
 小説は終盤に入っていた。
 老人は年若い娘と小さな雑貨屋を開いていた。店の場所の件で、地主と揉めた場面もあった。柄の悪い連中に商売を邪魔された時もあった。だが、老人の口調と行動は、前半とは打って変わって少年のように生き生きしている。
「例え今私の人生が終わっても、私は後悔していないよ。たくさんの富を抱えて死ぬよりもずっと素晴らしい」
 孤独だった老人は、娘に満面の笑顔でそう言った。


 変わるもの、進歩するものって素敵。
 幼い頃、どこかで誰かがそう言っていた。それが誰なのか思い出せなかった。きっとこの世界で、変化を愛する数少ない人なのだろう。
 エイミもそれを愛したかった。だが、いつかやって来る。己の外見が変わらない日が。それを恐れてはならないのだ。だから、かつて同胞たちがそうしてきたように、各地を渡り歩いて人目を避けるように生きる道だけは、決して選びたくはない。

「ああ、だけど……」
 エイミは窓を開けた。
 外はすでに宵の刻を過ぎ、月明かりと星が存在を主張している。すい、と漆黒の空を光が細い線を描いた。星が燃えている。

「もし成長が止まるとしたら、三十くらいで止まったらいいな」
 流れ星に願い事など、今のエイミには食指が向かない。だが、ちらと要望だけは呟いてみた。
 これから先、変化を嫌うあの騎士団長が今のままだったら、自分から変えてやるのだ。だが、いつまでも若い娘のままでは外聞が悪かろう。彼女なりの、たちの悪い気の利かせ方だった。





09/06/09back
字書きさんお題 その3 一度も書いた事のないキャラを主人公にして書く  エイミ

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