執心鐘入

方言版



 今宵の月は、姿をすっかり隠していた。それゆえに、影すら見分けの付かぬ闇の中を歩かなければならなかった。
 クリミア王国王都メリオルを目指して二日。最初の一人旅の夜は宿を見つけて過ごせた。しかし、夜の道しるべを隠されてしまった今夜、計らずとも道なき道へと足が向かい、あえなく迷い人となってしまったのである。

「どうしようか」
 そう呟くも、返答は木々のざわめきだけだった。
 ほんの数年前まで鎖国状態だった母国ゴルドアだったが、頑なな父王が突如意向を変え、開国し、他国との交流を宣言したのである。知的好奇心旺盛な王子クルトナーガは手放しで喜んだ。そして、文化交流の一環として、外国へ遊学を兼ねての奉公へ自ら赴くと言い出したのだ。
 初めて国外へ出るのだが、供も付けぬと言い張った手前、無事にクリミアまで着かなければ面目が立つはずもない。発つ前にイナが密かに忍ばせたヤクシ石があるが、それを使ってしまえば、この先父は、どこへ行こうとも彼に供を付けるであろう。若い好奇心を内に燃やすクルトナーガにとって、それはどうしても耐えがたいものだった。


 ゴルドアを抜け、ガリアとの国境も無事に越えた。今クルトナーガの立つのはクリミアであるはずだった。ガリアの樹海を通り過ぎたのも確かで、影すら落ちぬ土には、ベオクの気配が多々たゆたっている。しかし、その先どこを目指せば王都メリオルのクリミア城なのか。
 クルトナーガは星が点々としているだけの空を仰ぐ。この黒い空に紛れ、竜となる方法が脳裏をよぎったが、長歩きの疲れはそれを許さなかった。
 せめてこの夜が終われば。
 クルトナーガは諦めて野宿を決めた。森を抜けて、今では暗い中でもなだらかな丘陵地がどこまでも広がっている。吹き抜け、彼の褐色の頬を撫でる風は冷たい。
 樹海へ戻った方がいいのでは。そうも考えたが、樹海からこの地を歩いての時間を考えると、闇と同じ色の髪をゆすった。
 月のない空は、星だけが頼りだ。闇に目を凝らすと、暗い大地に広がる斜面に、うっすらとした輪郭が窺がい知れる。
 助かった。
 クルトナーガは外套をひらめかせ、ひっそりと建つ家へとまっしぐらに走って行った。小ぢんまりとした質素な家で、煙突から上る慎ましやかな煙がそこに人の住む家を示していた。若者の胸に、希望と安堵が沸き起こる。太陽が沈んでかなりの時間が経っていた。だが、クルトナーガは躊躇せずに扉を叩く。

「こんばんは。夜分に申し訳ありません」
 質素な家の、質素な扉は開く事はなかった。だが、その奥から人の気配が動くのを感じる。期待と希望を込めて、クルトナーガは若い声を強く放った。
「すいません」
「旅の方。いかがしたのでしょうか」
 もう一度戸を叩くと、薄い木材を隔ててか細い声が通った。若い女の声だった。
「私は旅の者です。月明かりもなく、道に迷ってしまいました。どうか一晩泊めていただけないでしょうか」
 望みを込め、クルトナーガは扉の向こうの女に告げる。ひと息つく間もなく答えは返ってきた。声色は細いが、しっかりした口調だった。
「……それはなりません。家の者がいないので、わたし一人では決められないのです……」
「そんな……」
 頼みを否定された事など、王子ゆえかクルトナーガには一度もなかった。周囲を見渡しても、この家以外に建物、いや風と夜露を避けられそうな場所など見当たらない。一瞬ためらうも、クルトナーガはもう一度頼み込んだ。
「お願いします。どうか、一晩だけでも」
「……今日は家の者が出掛けており、わたし一人で留守を預かっている身です。そんな時に殿方を泊めたとあれば、どんな噂が立ちましょうか……どうかお引取りください」
 さらに重ねられる冷たい答えに、クルトナーガは困惑する。人口が少なく、荒野に住む竜鱗族は、同族同士助け合って暮らしていた。困っている人に、外聞が悪いという理由で助けを拒むなど、彼の理解を超えていたのである。
「そんな事情でありながらも、重ねてお願い申し上げます。私はゴルドアの王子クルトナーガ」
 切羽詰まっているとは言え、包み隠さず身分を明かすのは、彼の若さと世間知らずさゆえだった。胸を開き、全てを話せば願いを聞き入れてくれるに違いない。そう彼は信じてやまなかった。
「奉公の為にメリオルのクリミア王宮を目指しておりましたが、新月ゆえに道に迷ってしまったのです。どうかこれを哀れとお思いなら、どうか一晩屋根を貸していただけないでしょうか」
「ゴルドアの……持ってるかも……」
 扉越しにそう呟く声が聞こえた。重々しい空気が家に篭っているのを感じたが、板張りの扉は簡単にクルトナーガを迎え入れた。
「……どうぞ……お入りください……」
 中から現れたのは、か細い声同様に、線の細い少女だった。見た目はクルトナーガと同じくらい(彼は竜鱗族なので彼女よりずっと永く生きているのだが)で、彼とは正反対に透き通るような白い肌をしていた。それに見合わせたかのように、背中まで流れる髪も薄い紫色をしている。
 もしかして、病気なのか。
 無理に望みを通してもらったが、病気だと思い始めると罪悪感に支配されていく。橙色の明かりに照らされた背中は、どことなく弱々しくある。しかし、その内の生命の灯は小さくとも強く燃えているのがわかるのだが。
 不思議な人だ。いや、ベオクとはそういう者なのかもしれない。
 父や外の世界を良く知るナーシルが言っていた。確かにベオクは寿命も短く、力も弱い。だが、その中に秘めるものはラグズをも凌ぐのだと。


「さあ、こちらにお座りください……」
 少女はくるりと振り返り、長年使い古した椅子を勧めた。どうやら家人らはここで食事を摂るらしく、広い木製のテーブルが中央にどっかりと占め、奥の方で調理台とかまどが暗闇に潜んでいた。
「あの、食事はいいのです……ただ寝させていただければ」
 先刻まで入る事すら拒んでいたのに、急にもてなされる身となり、クルトナーガは恐縮した。しかし、少女は細い首を振って答えた。
「……なにか、食料をお持ちなら……」
「え?」
 間の抜けた返答にも、少女は構わずに続ける。
「家中の食料がもう尽きてしまいました……お腹が空いて倒れそうなのです……」
「ああ、それはいけない。保存食でよければ」
 空腹で倒れそう、と聞けば動かずにはいられないクルトナーガであった。それに、宿を貸してくれる恩だ。クルトナーガは手早く外套を脱ぎ、背中に背負っていた袋をテーブルに乗せた。
 袋を開ける手は、クルトナーガの褐色の手ではなく、折れそうに細い白い指だった。呆気に取られるクルトナーガにも目もくれず、先刻までの弱々しい足取りと声から想像もつかない速さで、麻袋の紐は解かれた。
 少女の手は固いパンを鷲掴み、可憐な口が開かれる。念のために、とイナが多めに持たせてくれたパンは、大人の男の拳二つはあった。
「おいしかったです……」
「はあ。それは良かったです」
 そう言えば、今日は朝に宿で食事を摂ったきりだな、と思い出すも、パンは瞬く間になくなっていた。
 さらに、細い手は伸びる。ガリアの市場で買った干し肉も消え、道中怪我を負った時のための薬草、ラグズの気付け薬であるオリウイ草まで、クルトナーガの制止も聞かずに消えて行った。自分は困っている人の役に立っているのだ。それに、明日には、この夜を越えれば目的地に着く。そう自分に言い聞かせ、少女の食欲が満たされるのを見守った。

 袋の中の食料が全てなくなると、クルトナーガはひっそりと肩で息をついた。だが、まだ袋を漁る少女に、思わず身を乗り出す。
「あのっ、もうありません。薬草すらないのです」
 少女はクルトナーガの方をちらりとみやると、麻袋の口をテーブルに逆さに向けた。金属音と、ごろりとした音が同時にテーブルで鳴った。
「あ、それは……」
 クルトナーガの視線は財布ではなく、燭台の光を跳ね返すヤクシ石にあった。ゴルドアでも貴重な石で、一族の宝も同然だった。王族でも国外へ持ち出す事は滅多にできない。使わないと誓った為に、こうして荷物の奥底へしまっておいたのだ。
 クルトナーガの懸念通り、少女の視線もその石にあった。
「あのですね、これは……どうしてもお譲りできないもので……」
 彼の両の手は、ゆっくりと隠すように半透明の石を覆う。美しく光を反射する石をベオクは貪欲なまでに欲すると聞いていた。
「……おいしそう……」
「え?」
「それ、見た事がないです……どんな味がするのですか……」
「知りません。い、いや、食べられないので」
 引きつりながらも抵抗する。だが、少女の瞳は褐色の手の内側にあった。こんな華奢で可憐な少女に見つめられれば、色恋に疎い彼とて嬉しくないはずはない。だが、そう言う類の欲ではない感情が、クルトナーガの手に突き刺さっていると知れば、背に冷たい汗が流れるだけである。
 
 少女の放つ気が、最初の頃と比べて激しいものへと変わっているのがわかる。彼の手の中の、ヤクシ石への執着がそうさせているのだろうか。だが、彼としても、これだけは何としてでも守らなければならない。
 テリウス最強の種族である竜鱗族。その中でも強靭な力を持つと言われている黒竜。その彼でも、目の前の「力の弱い」ベオクの少女に心の底から震えている。
 ベオクの内に秘めるものは、ラグズをも凌ぐ―――
 改めて、父とナーシルの言葉が蘇った。確かにそうかもしれない。

「しっ、失礼します……!」
 堪らなくなり、クルトナーガは椅子を蹴った。
「あ、待って……それは置いて……」
 か細い声を背中で聞く。だが、答える余裕も、振り返る勇気も彼にはなかった。


 乏しい光の中、どこまで走ったのだろう。
 なだらなか勾配だが、走って上るとなるとさすがに息が上がる。長旅の疲れと先刻の事も手伝っていた。だが、あの少女が追ってくるのではないか。その恐怖がクルトナーガの足を動かしていた。
その甲斐あってか、暗い影となって建物が浮かび上がる。
「ああ、誰か、誰かおりませんか!」
 広い門に、クルトナーガはなりふり構わず飛びついた。そこはどうやら教会のようだった。固く閉ざされている扉の鈴をクルトナーガは必死で鳴らす。そんな彼に、あっさりと門戸は開かれた。
「こんな夜更けに、いかがされたのですか」
 扉の影からゆったりと長身の僧が現れた。闇と同色の長い髪を持つ青年だった。教会だから僧侶がいるのは当然だが、穏やかな顔つきで、きっちりとした司祭の身なりのせいか、クルトナーガは女神の手に掬われたような気持ちになった。初めて顔を合わせたにも関わらず、崩れ落ち、司祭の膝にすがりつく。
「ああ、司祭様!どうかお助けください!一夜の宿を借りた先の女性に追われております。どうかこの命お助けください」
 クルトナーガは一息で先刻の出来事を話す。漆黒の髪の司祭は、聞き終えると、一度両の目を閉じ、クルトナーガの身体を起こした。
「人の欲は恐ろしく、常に内にくすぶっているもの。あなたは、その火を炊きつけてしまったのです」
「ああ……」
 クルトナーガは絶望にひしがれ、両の瞼を押さえた。
「行く先も頼りない身です。どうか、女神のお慈悲を与えてください」
「戻る道も恐ろしければ、この教会でひと夜匿いましょう。あそこなら……」
 そう言い、司祭は教会の上方を仰ぐ。古く小さな教会だが、小高い丘にあるそこには、鐘を長年響かせてきた。
「お前たち、来なさい」
 司祭は教会の扉を開き、奥へ向かって誰かを呼んだ。薄暗い夜半の礼拝堂の奥から、気だるそうな返事が響いた。
 錆びた蝶番の音とともに、二人の影がのっそりと出てくる。さらにその影から、小柄な影が、今度は颯爽と飛び出した。
「司祭様、お呼びでしょうか」
 その小さな影が言った。年は見た目もクルトナーガより小さく、溌剌そうな子どもだった。正反対に、後ろの二人は充分に成人していると思われるが、眠そうな顔をしている。三人とも僧服を着ているので僧籍にあるのだろうが、険しい顔つきといい、大人の方はとてもそうとは見えない。
「この旅人が、旅先でおなごに追われているのです。一晩、女の強欲が冷めるまで鐘部屋に隠れてもらいますから、お前たちは見張っているように」
 言い終えると、すかさず僧侶たちが不平を漏らした。
「けっ、面倒くせぇ」
「そうっすよ。司祭様。女に追われてるなんてうらやま……じゃなくて、身から出た錆ってもんでしょ。おれ達が匿う必要なんてあるんすか?」
「酒の匂いがしますね。それと、お金の」
 正にという所を突かれ、男たちはぎくりと肩を強張らせる。シノンさん、ガトリーさんまたやってたの、と少年が眉を寄せた。
 司祭がちらりと二人に視線を送ると、二人は震え上がって右手を挙げた。
「はい!謹んで女神の名の下に!」


 教会は、外装から想像に難くない簡素な造りとなっていた。
 礼拝堂の奥の扉を抜け、さらに奥に、石段がある。登り切れば天井が開かれた空間があった。上から太い紐が垂れている。
 石壁の窪みに、少年僧が燭台を置くと、クルトナーガに向かって自分はヨファだと笑顔で名乗った。
壁にもたれかかるように、シノンとガトリーと呼ばれた青年僧がどっかりと座った。
「シノンさん、ガトリーさん!もう!」
 胡坐をかく二人を前に、ヨファは呆れた声を出す。クルトナーガは、その対面に不安そうな面持ちで立っていた。
「ったく、急にやってきてやってらんねーっての」
「すいません……」
 反射的にクルトナーガはそう呟くと、シノンがにやりと口を曲げた。
「おお、すまんと思うならそうだな、路銀が余ってんなら置いてってもらおうか」
「シノンさん!女神に仕える身で追いはぎみたいな事を!」
「お前こそ生意気な事言ってんじゃねぇよ」
 シノンのつり上がった目に睨まれても、少年僧は口を噤んで睨み返す。あの若さで、歴戦の傭兵のような男に睨まれて平然としているなんて。クルトナーガは少年の心の強さに打たれた。
「司祭様きっと見てるよ」
「ああ、だろうな。何やっても隠せねぇのはわかるさ。あいつの目がそこかしこにあると思うと寒気がするね」
「じゃあ何でシノンさん僧侶なんてやってるの?」
「そりゃな……誰だって身を隠す場所が欲しいってもんよ。なあ」
 急に話を振られ、クルトナーガは肩を竦ませる。
「確かに、あん時司祭様がいなければおれ達やばかったもんすね」
「やばいって言や、あの司祭もかたぎじゃねぇよ、多分。おれよかやばい匂いし……」
 石壁に背を預けていたシノンだが、急に鋭い顔になり、立ち上がった。石段を登り、身を屈めて下を除く。
「追手、来たんすか」
「ああ、おれ達じゃなく、そっちの旅人さんのよ」
 クルトナーガの背筋が凍る。あの少女の気配を彼も感じたのだ。
「ガトリー」
 シノンが背後の舎弟を一瞥すると、おう、と野太い声で返事をしたガトリーが石段を駆け下りる。クルトナーガはどうか引き返してくれと願わずにいられなかった。


「あー、すんません。ここ女の人は立ち入り禁止なんすよ」
 ぼろい教会だけど戒律だけは厳しいんで、とガトリーはゆらりと歩く少女に告げた。薄い紫の髪、伏目がちな大きな瞳。外套をまとっているが、華奢な身体なのはわかる。結構かわいいな、とガトリーは顔を思わず緩める。しかし、次の言葉で、そのにやついた頬は引きつった。
「……こちらに、十四歳くらいの殿方がいらっしゃると思うのですが……」
 すげぇ鼻だな、と半ば感心しながらも、ガトリーは女人禁制を盾に少女を追い返そうと言葉を続けた。
「勘違いじゃないっすかね。ここにはそんな人いませんよ。さあ、お引取りください」
「あなたに、女神の慈悲をお分け下さる情けがあるならば……」
 ガトリーの制止も聞かず、教会へ立ち入ろうとする少女。焦点は彼にはない。反射的に、ガトリーは華奢な少女を前に身を引きそうになった。
 少女の中で渦巻く気が、その内に収まりきらず、彼女の周りに炎のように揺らめいているのが、クルトナーガには見えた。

「ちっ……やばくなって来たぜ」
 鐘台から頭だけ出してしたシノンが、険しい表情を更に深くした。ベオクには気を感じる力は、ラグズにそ比べて皆無に等しい。だが、そうでなくとも、少女の漂わせる空気が異常なものだと感じてしまう。隣で、ヨファが青ざめていた。少年同様、いやそれ以上にクルトナーガも青ざめ、震えを覚える。女神の慈悲は彼女を奉る場所でも届かないのか。血も凍るような身体を抱いた。


 
「ちょっとお嬢さん。悪ぃんだけど、女は入れねぇんだよ」
 及び腰のガトリーに業を煮やしたシノンが、ついに外へ降り、助け舟を出した。後ろにはヨファもついて来ている。
 しかし、柔らかな物言いのガトリーとは違い、冷たい響きを含むシノンの声にも、少女は構う様子もなかった。目的以外は目にもくれぬという風体である。
「なあ……いっそ通しちまってもいいんじゃねえか」
 出来ればこの少女には関わりたくない、一言も言葉を交わさずとも、本能がそう告げていた。
「いやあ、おれも出来ればそうしたいんすけどね……女神の慈悲って事で……」
「し、司祭様の言いつけを忘れたの?」
「お前は黙ってろ」
 三人の僧が言い合っている間、少女は長い睫に縁取られた瞳を大きく開いた。先刻までの、やもすれば散ってしまいそうな儚さは何処か。纏う気はベオクの目にも強大なものと感じ、凛々と夜空を仰ぐ。
「あの鐘……怪しいです……」
 やばい。
 口に出さずとも、三人の心は同じに染まっていた。憚られるが、多少手荒な手段でも追い返すか、そう行動しようとした時、優しく響く声が扉の開く音と共に聞こえた。
「……己の欲に囚われ、いたずらに人を脅かすものではありませんよ」
 すい、と司祭は少女の前に立ちはだかる。右手に、何かの包みを持っていた。
「内に潜む強欲の炎を消すもの、女神の慈悲」
 そう言って、包みを両手で包み込むように持ち、それを額に近付けた。
 魔を討ち払う祈りだ。弟子たちは司祭の背後に並び、同じように祈祷の手を組んだ。胸に渦巻く恐怖はあるが、司祭の力に少しでもなれば、不信心で常日頃呆れられている二人も、この日ばかりは懸命に祈った。
「女神アスタルテよ。この者に巣食う欲を消したまえ……!」
 司祭は両の手の中の包みを開いた。少女は言葉を失い、それへ視線も意識も釘付けになる。次の瞬間、少女はその風体から想像できぬ機敏さで、司祭に襲いかかった。
「司祭さま!……へ?」
 止めようと身構えた僧侶らは、目の当たりにした光景に、硬直する。
 司祭の手にあった包み布は地に落ち、その中身らしき物は少女の手にあった。そしてそれは、あれよあれよという間に小さくなっていく。
 女神の使徒らしく、安らぎを与えんと見守る顔、唖然と眺める顔。二種類の視線を浴びても、少女は一心不乱に白く柔らかなパンをかじっていた。
「……ごちそうさまでした……」
 それがなくなると、少女は礼儀正しく一礼し、踵を返した。それを、司祭だけが頭を下げて見送る。

「し、司祭様……」
 少女の姿が小さくなった時、ようやく弟子らが我に返った。
「もとより、こうすれば良かったのです」
「いや、内に潜む強欲の炎を消すとかはどうなったので……」
「ああ、あれは儀礼上の文句でして」
「はあ」
 あくまで穏やかに司祭は微笑む。女神の名の下に、再び平穏な夜が戻ったと。

「あ、あの旅人さん!鐘部屋に置いてったままだ」
 ヨファがクルトナーガの存在を忘れていた事に気付き、慌てた声を上げる。だが、またもや司祭が告げた。
「ああ、あの方ならお迎えの方が見えましてね。中々便利な物をお持ちでしてね」
「迎え?」
「あの方、何でもクリミア王宮に遊学の為に旅していたゴルドアの王族の方だそうです」
「どっか抜けた野郎かと思いきや、王族かよ」
 やっぱ金巻き上げとくんだった、とぼやくシノンに、司祭は錫丈で小突いた。


 


09/10/21 字書きさんお題 その10 パロディ設定で書く

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