焼き菓子の冷めない距離

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「は?」
 王都警邏隊のブラッドは、同僚の願い出に眉をひそめた。
「いや、だからさ。お前あのシスターと仲いいんだろ」
 あのシスター。
 「あの」がつかなくとも、ブラッドと懇意のある尼は、一人しかいない。王都を去り、今は故郷のキスカで養父に代わり孤児院を切り盛りしている幼馴染が思い浮かばれた。そう言えば、ローラと最後にあったのは半年以上前だった。しかし、仲のいい、なぞと評しているこの同僚が、なぜ半年以上ネヴァサの土を踏んでいない少女を知っているのか。彼がブラッドと同じ隊に所属したのはふた月ほど前だというのに。ブラッドは休憩所の傍の井戸から木杯に水を汲み、頭の中の疑問を正直に同僚に問いた。
「え、だって。おれ転属前は城門に配置されてたんだぜ。城へ登るってったらおっさんや爺さんばっかでさ。でもその中に可愛い娘がよく城へ上がるからつい気になってな」
「よく?」
「ん。ひと月に一度は来てたぜ」
 一瞬、口に運んでいた木杯の手を止める。それは初耳だった。半年ほど前に、ローラがネヴァサへ来たついでだと城下町警邏隊の駐屯所へ顔を出した。その出来事のせいか、彼女が定期的に王城へ出仕していたなど、夢にも思わなかったのだ。
「他の奴に当たったら、ラグズ連合と戦ってた時からお前と一緒にいたって聞いたからよ」
 紹介してくれ、という言葉はすでにブラッドの頭には入らずにいた。だが、幼馴染が自分に何も沙汰もなしに王都へ、しかも定期的に来ていた事が気になっていた訳ではない。
 もしかしたら、ネヴァサにも孤児院作る話があるのかもな。
 そんな予想が脳裏を巡ったからだ。



 

 警邏隊が主な任務だが、ブラッドは城下町の詰め所から、同僚たちと交代で城内へ上がる時もあった。その際は城の警備ではなく、デイン軍歩兵隊の訓練が彼に課せられる。ブラッドも定期的に城へ上がっているのだが、ローラもそうだったとは、まったく気付かなかったのだ。彼女と違い、ブラッド自身は城内へ入るのは稀なせいもあるが。

「ローラ?」
 かつて解放軍の時分からともに戦った青年―――レオナルドはブラッドの問いかけに匙を一度止める。彼はブラッドとは違い、常時弓隊に所属する軍人だった。今日の訓練で見かけ、昼食を一緒に囲む事にしたのだ。そこで、ブラッドの幼馴染の事を訊いてみた。
「ああ。たまに見かけるよ。どうもミカ―――新王陛下に拝謁の許しを頂いているようだ」
 レオナルドの端正な顔は、淡々と、いささか固い表現で事実を告げる。どうやら、同僚の言葉は真実だったようだ。
「また何で」
「そこまでは知らない」
 レオナルドの手中の匙が、そつなく動き、彼の口に運ばれる。まだゆらりと立ち上る湯気は、ブラッドの首下もわずかに湿らせた。その僅かな温かさが、ブラッドも目の前のスープに意識を傾けさせる。久しぶりの暖かい昼餉だった。しかも、公費での。軍の官舎から運ばれる昼食は、詰め所までの道のりですっかり冷めてしまう。城下町の食堂の利用も可能だが、その場合は自腹だった。
 帝国の圧力の鎖を断ち切り、わずかだがようやく自分たちの足で進むようになった。物流も着実に量を増しているのは、城下町の人々の慌しさを見ていればわかる。そして、いま目の前に並ぶ定食の品数もそれを語っていた。薄いが、香ばしく焼き色が付いているのは確かに豚肉だった。ベグニオンの養家を出て以来、味わっていない。つい先日まで、警邏隊の仲間たちとも幼き日の友よろしく話題に上げていた。
「あ、でも……」
 スープを口に入れた後、感動の再会を果たした豚のソテーにナイフを入れる。
「他の兵の話だけど、頻繁にタウロニオ将軍とも一緒にいるとか」
思わず旧来の友を噴出した。レオナルドの柳眉も寄せられる。胡椒どころか、塩すらかけられていなかった。
 


 タウロニオ将軍。
 その家からは代々軍人が輩出され、彼自身「不動の四駿」と謳われた。今より三代より前の王より仕え、軍人らしい実直さと公平さを慕う部下は世代を問わず数多くいた。
デインが滅びたのちも、祖国復興のために尽力し、今では王となったミカヤに代わり、デイン軍を束ねている熟年の将。
 
 解放軍の実戦部隊を束ねていたのも彼であったし、解放軍がまだ少数の頃にブラッドたちは参入した。面識はある。しかし、旗印であった先王ペレアスの下に将軍は常につき従っていたし、ローラと言えば兵士らの治療や衛生品の管理に忙しく陣中を駆け巡っていた。接点はあまりないと言えよう。
 
 そんな二人が、なぜ。
 テーブルに転がる咀嚼を免れた肉切れに眉を寄せながら、「ちゃんと片付けろよ」とレオナルドが苦々しく言う。
「ローラが将軍に何の用なんだ」
「さあね。ぼくも人伝てに聞いただけだし」
 そう言い放つと、ぼくは午後の勤務もあるから。と、かつての仲間は盆を持って早足に去っていった。ブラッド自身も、午後からは城下町の見回りがある。
 ぐるりと食堂を見回すが、見知った顔は誰もいなかった。これ以上誰かに問い質すのは不可能と知った。
 問い質す?なぜ?
 ローラは妹同然に育ってきた。だが、もう孤児院で庇護された時同様の子供ではない。色々と危ない面はあるが、故郷の孤児院も任されているし、自分の身を守る術も心得ている。今さらブラッドがあれこれ詮索して気を揉む道理などないのだ。
 ふう、とため息をつくと、盆の中の料理を食すのを再開した。すっかり冷めてしまい、薄味がやたらと気になる。しかし、未だ成長を続ける身体は、しっかりと腹を満たさなければ、午後の勤務に堪えるのだ。




 ネヴァサから数里離れた片田舎、キスカ領の片隅に、孤児院はひっそりと建っていた。粗末な造りの建物の後ろには深い森が広がり、熟練の猟師ですら立ち入る事を躊躇わせた。
 白い壁には、その場しのぎにすら足り得ない補修があちこちに見られ、遠くから眺めれば傾いているようにも映る。それゆえに、ベグニオン帝国の統治下の際も、アスタルテ正教総本部からの司祭たちはこの建物の前を素通りしたのだ。

 歪みの激しい窓枠の隙間から、かぐわしき匂いが森へ流れる。それにいち早く気付いた、孤児院の外で無邪気に遊んでいた幼子たちは、その匂いに遊びの時よりも心を弾ませる。そして、建物の中へ一気に駆けて行った。

「いいにおい!」
 ばたん、と大きな音を立てて扉が開け放たれた。台所に立つローラは、それを諌めながらも微笑んでいる。
 机には竈から出されたばかりの焼き菓子が並んでいた。三年前、いや、ローラが子供の頃よりずっと前よりこの孤児院では滅多に姿を見せなかった甘い菓子。途絶えていた物資の流れが戻りつつあると言っても、都から離れたキスカまでは未だ不十分だった。だがこうして嗜好品が傾きかけた孤児院で焼きあがるのは、ひとえにローラがネヴァサまで買い求めに行くゆえんだった。とは言え、そう頻繁に子供たちの口に入る事は叶わない。
 夢中で焼き菓子を頬張る子供たちをにこやかに見ながら、ローラの手は残りの焼き菓子を包みに入れていた。

「シスター、またネヴァサに行くの?」
 ローラの仕草に気付いた子供の一人が、目を輝かせて問いた。
「ええ、そうよ。お留守番お願いね」
 シスターが数日孤児院を離れるのは忍びない。だが、彼女はいつも都の土産を抱えて戻ってくるのだ。子供たちはそれを楽しみにローラを送り出す。それに、ローラが孤児院を空けるのはほんの一、二日ばかり。 キスカから王都への道程は、街道の整備により以前より短縮されていた。それに、時折彼女は子供たちが語り聞かせられる物語に出てくるような、立派な馬車で帰って来る時もあった。

「しょうぐんにもよろしくね。シスター」
「ええ。必ず伝えるわ」
 食べかけの焼き菓子を片手に、子供たちは一斉にローラに手を振った。

 


 城下町の詰め所と、城内の間には兵士の出入りは頻繁だった。城から詰め所へ下るのは兵士だけではなく、宮中の浮ついた話も大小問わず伴って来る。レオナルドの言通り、将軍タウロニオが小柄な少女とともにいる姿を城内で見かけるようになったと、ブラッドが所属する詰め所でも口の端に上がるようになった。
 武人を絵に描いたような将軍ゆえに、その手の話の伝達速度は奔馬に例えられる。そんな色付きの事情ではない可能性もあるのだが、意外性と話題性に期待が加わり、どうしてもそういう方向へ持ち込みたがるのが野次馬の性分だった。ブラッドがレオナルドから聞いた時は、むしろ早耳な方だったのだと兵士らの騒ぎぶりから察せられた。
「それで、どんな感じなんだよ」
「裏庭にひっそりとだな、ってか目立つんだよ将軍の鎧。全然忍んでねえのよ」
 陽を強く照り返す白銀の鎧。加えて壮年だが、若輩者に劣らぬ屈強な身体。木陰に忍ぼうと、目立たない訳がない。実際目の当たりにしていないブラッドでもそう思う。
 だが、密会(という言葉もはばかられるが)の目撃例はあったが、ただ談笑していた以上の「報告」は耳には伝わってこなかった。どことなく、安心したように胸が軽くなるのを感じる。
「いや、しかしやるねえ。タウロニオ将軍も」
「何時も春来れば色ど勝る、って奴かね」
 前時代の貴族の詩を持ち出して話題の火を煽る者もいた。


 次の城へ上がる日。
 あれから、タウロニオ将軍と片田舎のシスターの話題は、それ以上の燃料が見受けられなかったためか、時折休憩中の肴になるだけで終わっていた。
 だが、それは完全に途切れる事はなく、ブラッドの脳裏にも、壮年の軍人と幼馴染の仲を想像してしまう節が見られた。そのたびに、振り切るように首を振るのだが。
 そして、耳から耳への噂話で済んでいた事が、視覚で実際に確認してしまう羽目になる。
 歩兵隊の訓練の後、急病を抱えた見回り兵の代役を勤めなければならなくなった。
 あの噂に出くわさないよう願いながら任務を果たしていると、人気のない裏庭に、大きな人影が揺らいでいたのだ。大きな白銀の背中はまさしくタウロニオ将軍その人で、その影にいるであろうローラの姿は見えないが、密やかな会話をなしているのは悟られた。
 
 ブラッドは反射的に城壁の影に隠れ、深呼吸する 。
 タウロニオの低い声が、小さく空気を振動させてブラッドの耳に届く。しかし、言葉までは理解できなかった。向かいで話すローラの声も。それに胸を撫で下ろす。下手に聞いてしまい、確信へと変わるのが怖かった。
 おれ、何してるんだろう。
 落ち着きを取り戻した頃、そう自分に質問した。
 彼には見回りの任がある。一兵士が、上官、それもかなり上位の軍人の密会を盗み聞きしようなど、非礼で済む事ではない。それに、例え噂通りだとしても、ブラッドに何か関係があるのか。まだ少女とも呼べる、妹同然の存在に恋仲の貴人がいても関係ないではないか。
 話し声は途切れを知らない。それを背に、ブラッドは城壁から身体を離した。己の愚かさに呆れながら。

 ブラッドも勤続は短いとは言え、デインの兵である。
 背中にて、背後の二人が自分の存在に気付いてしまったと知った。だが、それ以後の反応はうろたえるだけだった。観念する前に、その一人が彼の前に姿を現したからである。

「ブラッド?なぜこんな所に」
 タウロニオ将軍ほどではないが、低い声。猫のような身軽そうなしなやかな身体。ローラではなかった。
「見回りで、偶然通りかかったものだから……」
 どう言い逃れしようが、お咎めはあるだろう。覚悟を決めて、ブラッドは背筋を伸ばした。しかし、目の前にいる青年も、背後のタウロニオもブラッドの立ち聞きに目くじらを立てている様子でもなかった。
「それはご苦労。では、サザ。また後日」
 巨躯とも思えぬ軽やかな動きでタウロニオは青年―――サザの肩を叩き、去って行った。ブラッドはその白銀の鎧を敬礼で見送ると、サザに向き直る。
「悪かった。立ち聞きするつもりじゃ」
「別に気にする事じゃない」
 サザは無愛想だが、言葉どおり気にするなと言った表情でブラッドに返した。しかし、なぜ裏庭で会話していたのかは気になる。だが、それを問うのも憚られた。タウロニオもサザも国主を援ける立場である。このような野原ではなく、立派な執務室で話をすればよいはずだった。

「気になるのか」
「えっ、いや、その」
 じっとブラッドの顔を窺がっていたサザが、急にそう問いかける。気にならないはずはない。心中を的確に問われ、ブラッドはたじろぐばかりだった。だが、その態度が応と言っているようなものだ。
「おれじゃなくてローラだと思っていたんだろう。タウロニオ将軍といた相手が」
 額に汗が吹き出ているのに気付いた。必死で「別に」と声を絞り出す。
 口を真横に結んで鉄面皮然としているが、サザはブラッドを面白がっているように見え、ブラッドは軽い苛立ちを覚え始めた。
 この事は忘れ、早く任務に戻ろう。立ち去ろうとした時、サザは彼を制止した。
「まあ、丁度いいか。ブラッド。あんたにも協力してもらおうか」
「は?協力?」
 長身を翻し、いぶかしげにサザを見やる。礼節は心得ているはずの彼だが、その視線はまがりなりにも王族へ向けられるものではなかった。
「追って沙汰は出す。これは手付けって事で」
 その声は先刻よりも面白がっているように聞こえた。彼は持っていた紙包みを強引にブラッドに押し込む。
「ちょっと待て、おれはやるなんて……」
 ブラッドが言い終えるより先に、サザは城内へ消えていった。
「……ったく、なんだよ。強引な」
 手中の包みは乾いた音を立て、同時に香ばしい香りがブラッドの鼻腔を突いた。久しく拝んでいない物だとすぐに結びつく。ゆっくりとそれを開けると、想像した通りの焼き菓子が収まっていた。
 楕円の型らしくしたつもりだが、どれも歪に焼きあがっている。竈の中で形が膨らむ程度を熟知していない証拠だった。だが、形は悪くともほど良い焦げ目と立ち上る香りが味覚を保障していた。
「これ、まさか」
 焼き菓子の包みと、サザが消えて行った城を交互に見やる。
 やっぱり今日も来ていたのか。
 確かさはないが、焼き菓子を通して作り主が思い描かれる。油紙を通して熱がじわりと伝わってきた。
 今ならいるかもしれない。
 脳裏がそう意見を出したが、仕事を放り出して不確かなものを見つけ出すほど、ブラッドは不真面目ではなかった。
 気になるのか。
 サザの言葉が蘇る。なるか、ならないか。どちらかと言えば後者だ。数回の自問ののち、そう認めた。幼馴染、義兄としてか。それとも、別の立場でなのか。それはまだ、先送りにしているが。


 
 帝都シエネより帰還の途中だった。
 ローラは、かつての仲間よりネヴァサで助力して欲しいと請われていた。王都ネヴァサには帝国兵により突如親から引き離された子供たちが数多くいる。元より孤児の多い国ではあったが。
 幼馴染はそれを二つ返事で引き受けると思い込んでいた。だが、彼女は首を横に振り、ただ故郷へ帰るとだけミカヤに告げた。ブラッドの肚はもうすでにネヴァサへの仕官が決まっていただけに、ローラの言はただただ驚きの一言だった。
 何を思い込んでいたのだ。とその時ブラッドは己を叱責し、ローラの頼みにより、キスカへの帰路を護衛した。帰郷の道で、彼女は養父である司祭はもうかなりの年だという事。帝国の手を免れたはいいが、貧しさはまったく変わらない事、自分の帰りを待つ子らがいる事をぽつりと彼に告げた。
 ブラッドはローラの声に、ただ「そうだったのか」とだけ返した。
 長身のブラッドの横に並んでいたローラは、必死に仰いで彼に話しかけていたというのに。視界の端で、彼女の黒髪が揺れていた。
 肩までの黒髪が木漏れ日を跳ねた。跳ね返った光が、子供だった二人が成長しても、背丈の差は変わりない事を知らせてくれた。キスカの深い森も、道も、そして孤児院も治世が変わっても変わりないものだと思った。それが、彼女にとってそれが何より大切なのだ。
 だが、彼が孤児院にいたのは生まれてのち数年。貧しくとも暖かい手で育ててくれた司祭には恩を感じているが、ベグニオンの裕福な商家に擁されてからは記憶の片隅の老人だった。隙間風と雨漏りだらけの孤児院も、深い森から差し込む木漏れ日の中を遊び場にした日々も。ともに育った子供たちも。無論、ローラもその中の一人だった。ベグニオンの手によるデインの圧政という舞台で、片隅の記憶から戦友となった。ローラはその偶然の存在だったのだ。
 
 石が規則的に敷き詰められた廊下に、ブラッドの靴音が響く。音の主自身、己の靴を響かせている事に気にも留めていない。見回りの任務だと言うのに先方ではなくつま先を睨んでいる事が職務怠慢だとも。
 視界の隅と、かかる影で、何かがいたとはわかった。だが、それに気付くのも遅く、影とぶつかってしまう。兵士にあるまじき反応だった。

「きゃっ」
 衝撃の軽さと悲鳴でそれが女だと知った。我に返り、相手の転倒を防ごうと腕を伸ばす。
「すまない……!」
 何たる迂闊さだ。後悔が襲う前も、助けた女の姿にそれ以上声が出なかった。偶然か、それとも悶々とした思いが彼女を手繰り寄せたのか。
「あらブラッド」
 ぶつかった衝撃もそこそこに、体勢を立て直したローラが穏やかにブラッドの名を呼ぶ。
「悪かったな……」
「あなたにぶつかるのはあまり珍しくないですし」
 床に崩れていた膝を軽く払い、ローラはにこやかに答える。
 それから、沈黙。
 眉間に皺が寄っているのは自覚しているが、それから言葉が続かない。このまま去ってしまえばいいのだが、足が鉛でできたように重かった。目の前のローラは、何か言いたげな彼に気を使ってか、きょとんとはしているがずっとブラッドの次を待っているようだった。

「あのな」「あのね」
 高い声と低い声が重なり、廊下の冷たい天井に吸い込まれていく。気まずさがより膨張し、ブラッドは視線をあちらこちらに巡らした。
「……よく、ここへ上がってるんだってな」
 話しかけたはいいが、話題が見つからずにいた。ようやく見つけた話題だが、なぜかローラを責めているようにブラッドには聞こえ、後悔の波が押し寄せてくる。
「え、ええ……」
 無愛想を通り越して、やはり喧嘩腰に近い言葉尻だったのか。ローラのうろたえぶりにブラッドの心も痛んだ。
「すまん。同僚の連中が噂してたもんだから」
 タウロニオ将軍と一緒にいるのも、という言葉は喉につかえた。幼馴染は相変わらず困惑の表情を浮かべている。人を疑う事を知らない性格は、子供の頃からまったく変わっていなかった。嘘すらつけないところも。王城へよく登る理由は、何か後ろ暗いのか。そう疑わずにはいられない程ローラは狼狽していた。

「うん。ちょっと……ミカヤさん―――じゃなくて、女王陛下にお呼ばれしててね。それじゃ」
「待てよ……!」
 慌てて去ろうとする幼馴染の腕をブラッドは咄嗟につかんだ。二の腕の柔らかさは、今まで経験した事のない感触で、引き止めたブラッドの方が濃い焦りの色を見せた。
 運悪く城付きの女官らが通りかかった。ブラッドの焦りはより色濃くなる。初心なシスターと下心露わな兵士と映ったのか、意味深な笑みを見せ合いながら通り過ぎて行った。
「す、すまん」
 これでは、兵士どころか城中の噂のいい種だ。
 僧服を通して伝わる柔らかい腕を、力なく放した。それをつかんでいたブラッド自身の腕もだらりと下げられ、腰に下げている不自然に膨らんだ小物入れと擦れ合う。荒い麻でできたそれは、強引に押し込んだ油紙までもこすれさせた。
「あ……ブラッド、それ……」
 ローラの顔が暗いものから急転した。
「それ、どうしたの?」
 細い指先はブラッドの腰を差していた。ブラッドはそれにつられて、指先と擦れた音の元に視線をやる。無理やり押し込んだはずの包み紙は、麻の口から少し顔を出していた。
「ああ、これか」
 躊躇いもなく麻袋の紐を解き、まだ熱の残る焼き菓子の包みを見せた。
「誰からもらったの……?」
「サザ、から」
 先刻とは違い、じっと強い視線がブラッドを襲う。それに押されて素直に焼き菓子の出所を告げた。別段隠しておかなければならないものでもない。
「サザさんから……」
 反芻の呟きが小さな口から漏れた。呆けたほうな顔がそこにある。まずかったか。呆然と手中の包みを見るローラを前に、ブラッドは閉口する。
 別の男にやるはずだったのか。それがおれの手に渡って傷ついてしまったのか。
ブラッドの懸念は外れ、再びローラの顔がほころんだ。
「じゃあ、聞いてるんですね?あの話」
「え?」
「サザさんからですよ。そのお菓子を持ってるって事は、タウロニオ将軍に会ったって事でしょう?」
「ちょっと待て、話が全然見えん」
 まくし立てるローラにブラッドは首を振った。確かにタウロニオには先刻会った事、サザからこの焼き菓子を「手付け」と言われて渡された事。その際、詳しい話はまた後日と言われた事、先刻の出来事を目の前の幼馴染に説明する。
「……そうだったの?」
 言い終えると、ローラはあっさりと詰め寄るのを止めた。
「だから、一体なんなのかお前の口から話してくれないか」
 無理やり巻き込まれたとは言え、乗りかかったどころか、完全に船に乗っている身なのだ。サザの沙汰を待つ前に、その渦中の一人とも言えるローラに詳細を聞いてもばちは当たらないだろう。
 渋るかと予想したが、ローラはあっさりと頷いた。どちらが誘ったわけでもなく同時に歩き出す。城の侍女に誤解されるような場面を見られた先刻を思い出すが、それはもう対処を諦めた。
 
 暗い廊下を離れ、中庭へと再び足を踏み入れる。突如、幼馴染は口を開いた。
「あのね。タウロニオ将軍にご家族がいらっしゃるのを知ってるかしら?」
 返答はできなかった。解放軍の数が少なかった頃からの縁とは言え、デインの将軍とそう仲良くなれる訳もない。ましてや、軍とは関係のない私事など知ろうはずもなかった。だが、あの年の将軍ともなれば、妻子がいてもおかしくはないと想像は容易だ。
「クリミアに、いらっしゃるんですって」
「デインが滅びた時に避難されていたのか」
 ううん、と、ローラの黒髪が揺れた。そこですぐに思い直す。デインが滅びた要因はクリミアに侵攻したため。結果はクリミアに敗戦したのだが、今ではデインに対し融和政策を取っているとは言え、戦争直後にデインからの民、しかもデイン軍人の家族を受け入れるのは難しいと言えよう。
「もっと前。ペレアス様のお父様の治世の時ですって」
 ローラの話が続けられる。
 将軍タウロニオがまだ四駿と呼ばれていた頃。彼は己の息子たちも、代々の家名に恥じぬ軍人にせんとばかりに、様々な無理を強いていたらしい。しかし、長男は彼の期待に応えられずにいた。戦で深く傷つき、起き上がる事も叶わなくなったのだ。タウロニオは無情にも長男を見切り、年端もいかぬ次男をも同じ運命に晒そうとしていた矢先、妻は二人の息子を連れて彼の館を出て行ったという。十年近く前の話だが。
「そんな事が」
 タウロニオの冷たい過去に、他人事だが言葉を失ってしまう。
 風貌、性格ともに軍人以外に考えられないような印象だった。確かに厳しい面もあるかもしれないが、己の子に対し、軍人の名を守るため、そこまで非情だったとは想像がつかない。
「タウロニオ将軍はそれをずっと悔やんでいらっしゃるから。それでね」
 デイン、クリミアともにひとまず平定した今、将軍の家族を探そうという話になったらしい。四年ほど前、クリミアに参戦していた際にも打ち明けた少年よりそう言われた事があったらしい。だが、その時分はクリミア奪還の戦いの最中。まずはアシュナードを討ち、落ち着いてからとの心積もりが四年も先延ばしになったゆえんである。
「将軍はご家族がクリミアにいらっしゃるとだけは知ってたの。だから、サザさんが官使のお仕事の合間に探していて……」
「なるほどな」
 絡まっていた紐が解けた。中庭でのサザとタウロニオの会話は、恐らくその件に関してだろう。執務室ではなく人目を阻んでいたのは、私事だからと答えを出す事ができた。
 手中の油紙をかさかさと鳴るたび、ブラッドの胸は空くような気分だった。だが、謎が解けたのはいいが、もう一つ問題があった。
「それで、おれは何をすれば……」
 それは、己の協力内容だった。サザが調査をしていれば、タウロニオの家族が見つかるもの時間の問題だろう。だが、それと自分は何の関係があるのか。そして、どう力を貸せばよいのか。
 眉を寄せる顔に戻るブラッドに、ローラはにこりと笑顔を見せた。
「簡単です。それを食べればいいの」
 思わず立ち止まり、ローラと持っていた包みを交互に見る。それと、今までの話と何の関係が。だが、どう言おうとローラは「食べろ」と笑顔のままだった。ある意味脅迫にも見える。
 観念して包みを開いた。先刻よりも芳香は薄れてはいるが、香ばしさは残っている。焦げたバターは胃を誘惑するのだ。楕円形とは言い切れないそれをひとつまみ、口に持っていく。鼻からではなく、口の中に広がる匂いもまた格別だった。いつぞやの豚のソテーしかり、これも長年離別していた友なのだ。
「……うまい」
 正直な感想はローラを満足させたのか、満面の笑みでうなずいている。確かに味もよいが、それで疑問は消えるはずもなかった。さくさくとした小気味の良い咀嚼と嚥下ののち、喉から出たのはさらなる疑問だった。
「で、これを食ったらどうなるんだ?」
「おいしいとわかれば充分よ。あとはサザさんからの連絡を待ってください」
 妙なその返答で納得がいく訳ではなかった。油紙からもう一つ出し、また口に運ぶ。状況に文句はあるが、この焼き菓子にはそれはない。それどころか、つい手が出るような出来栄えだったのだ。
「ったく、お前、わざわざこれ届けにキスカから城まで来てんのかよ」
 キスカからネヴァサまで大人ならば徒歩で一日もあればたどり着ける。馬や馬車などを使えばより短い。ローラは菓子作りが得意だと言われるが、菓子を作る職人など、復興したネヴァサには数多くいるはずだった。わざわざ地方から呼び寄せるほどでもない。
「え?これ作ったの、わたしじゃないですよ」
 心外だとばかりに目を丸くしてローラは答えた。へぇ、そうなんだ。とブラッドは作り主が予想と違えても構わずに焼き菓子を頬張る。
「それを作ったのはタウロニオ将軍です」
 澄んだ空に、咀嚼された菓子の欠片が盛大に噴出された。



 それから数日。
 サザの言葉どおり、警邏隊の詰め所へブラッド宛に「書簡」が届いた。公的な仕事ではないためか、洒落を利かせたのか、それは見た事のある油紙の包みとバターの焦げた芳醇な香りを伴っていた。囃し立てる同僚たちにその中身を分け(作り主はおそらくタウロニオ将軍だとは言わずに)、ブラッドは油紙に記された日時に王城の裏門へと出仕した。

 事情を何の濁りもなく国王に話せば、新王は手放しで国の再建の功労者に休暇を与えた。
サザの調査で探し出したクリミア王国の小さな館に、タウロニオの妻子はひっそりと暮らしていた。馬車で村の近くまで将軍を送り届け、徒歩で家族へと向かう巨躯の背中を見送ると、ブラッドたちはそのままデインへ引き返したのだ。
 しかし、ブラッドはそのままネヴァサへ帰還できなかった。サザにより、キスカまでの護衛まで頼まれたのだ。サザ自身は、オルリベス大橋を渡り切ると「次は公務があるから」と颯爽と馬車を飛び降りて、霧の中に消えて行った。地方の端々を渡る官使は、何かと忙しいようだ。

 
 二人きりになっても、別段気まずい訳ではない。
 解放軍の時分に彼女と野宿も経験したし(その時は他の仲間もたくさんいたが)、話題に事切れる訳でもない。他愛のない世間話と、家族と再会できたであろう将軍の話しで道中を退屈させなかった。
 キスカはもうすぐだった。
 寂しさもない。ただ、仲の良い友人を家まで送り届ける。そんな気持ちで手綱を引いていた。しかし、
「ブラッド。今回は司祭さまに会ってくださいね」
 そう言われ、手綱を持つ手が少し震えた。
「あの時は孤児院の前まで来て、そのまま帰ってしまったじゃない。司祭さま寂しがってました」
 そうは言ってもな。
 ここで始めて幌の中に気まずい空気が生まれ出した。孤児院の司祭とは、そりが合わなかった訳でもなく、養父母に引き取られた時も、笑顔で別れた。涙などもなく、ただこの貧しい世界から抜け出し、豊かな都会の子になる喜びに胸を満たしていた。彼の瞳と希望は遥かベグニオンへ向かい、歩いてきたデインなど心の隅の思い出にしていただけだと気が付いた。だから余計に顔を見せるのが躊躇われた。

「わたし、びっくりしたのよ」
 ローラは馬車の揺れをものともせず、荷台から御者台へと身体を移す。さすがに身のこなし軽くとは言い難く、最後はブラッドの手に頼っての移動となった。
「何に」 
「あなたがネヴァサに残ると聞いて」
「……ベグニオンへ帰ると思ったのか」
 その問いかけに、ローラの黒髪がふわりと揺れた。がらがらと車輪の音が激しくなって行く。整備された街道をそれ、田舎道になった証拠だった。
 孤児院になど、帰る訳がない。それは彼女にもわかっているはずだ。孤児院の暖かさを知っても、物理的な温もりには勝てなかった。だが、それでもローラは孤児院を選ぶ。彼女を何より必要としている者たちがいるのだ。だが、彼女の必要なものは。
 御者台には幌がなく、木漏れ日が差せば直接御者に降りかかる。ローラの黒髪が陽光を反射した。座っても身長差には変わりない。手綱を右手に任せ、左手は陽を跳ねる黒髪をすくった。ブラッドの指がくすぐったいのか、首をすくめて、ローラの頭はブラッドの肩にもたれかかった。普段とは違い軽装ゆえに、その暖かさが新鮮に感じる。
 ネヴァサとキスカの距離は遠くない。足を伸ばそうと思えば困難な道程ではない。だが、せめて焼き菓子が冷めない距離にはいようと心を決めたのだった。


09/05/31戻る
字書きさんお題 その2 一度も書いた事のないキャラをメインに書く。ブラッド、ローラ、タウロニオ、サザ。

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