草食んで、砂を踏む



 交代だ、と急に声が頭一杯に広がり、そこで見ていた光景がぶつ切れになった。

 嫌な夢見ちまったなあ。
 額には汗が浮き出ているのは、明らかに気候のせいではなく、夢見の悪さのせいだった。はっきりと内容は覚えていないが、気分の悪さだけは残っている。グレゴは気だるそうに身体を起こす。昨日は酒精は入れていないはずなのに、身体のだるさは二日酔いの時より酷い気がした。声をかけた"仲間"は、グレゴの不調な様子にあまり関心を抱いてはいないようだ。早くしろよ、と素っ気ない言葉を投げかけると同時に天幕を後にした。

「ふう」
 剣を握って天幕を出、すぐそばの水甕から柄杓を取った。木杯に口を付けながら、辺りを見渡す。陽も西に傾き始めた時刻だった。彼が眠る少し前まで、一隊は砂漠をずっと歩いていた。陽がいよいよ高くなり始めた時に、急に休息を言い渡され、野営地を設営した。
 突然休息を言いつけられたが、この平原も木陰と草は申し訳程度に広がるだけで、夕刻でも照り付ける太陽をなんら遮りはしてない。砂地ではないだけまし、と思う事にしていた。ペレジアでの仕事は何度か経験したが、今回ほど砂漠に長く滞在した事はない。
 幾つか張られた天幕の間を、暑い中フードを被った者や、反対に半身裸に腰巻だけの格好の者が往来している。ペレジアの民族衣装は、グレゴにとっては理解の外にあったが、雇い主の格好についてあれこれ直接指摘する程、身の程知らずでもなかった。

 一隊を取り巻く雰囲気全体がどんよりとしていた。痛いほどの日差しとは逆に、暗い雲が終始かかっているような。地上にいるのに地下にいるような雰囲気を作り出している。
 暑さで皆ほとんど口を開かないだけが理由ではない。グレゴを雇ったのは、ペレジアのとある地方のギムレー教会だった。教会を挙げて儀式を行うが、教団本部のある王都まで、野盗や野獣が横行する砂漠を横断しなくてはならない為、その護衛だと聞いている。砂漠を避けて迂回すれば安全な道があるのだが、儀式の日まで急いでいるゆえに、砂漠越えを決めたのだとも。

 ペレジア王都行き。
 ペレジアはイーリスとの休戦協定を破棄し、戦争を再会させたと風の噂で聞いた。ペレジアは圧倒的な軍勢に加え、各地でも参戦兵を募っている。知り合いの同業者たちも挙ってペレジアに向かった。一方、イーリスは十五年前の休戦の折り、新しい聖王の意思により軍隊を大幅に縮小していた。にもかかわらず、今回の戦争に向けて新たに軍の増設もせず、傭兵も雇い入れる様子もなかった。小規模な騎士団と、王族の護衛を主とした天馬騎士団に、"王子様の道楽"と諸外国から揶揄されたイーリス国王子私設の自警団という心細い戦力だった。
 傭兵でなくとも、どちらに分があるかは一目瞭然だった。グレゴは傭兵を生業としているが、飯の種を得る場所への情報をつぶさに集める風でもない。今回の仕事も、この仕事を請け負うつもりだった同業者から、譲ってもらったものだった。その同業者はペレジア王都へ向かった。

 司教以下ギムレー教会の僧侶はみな呪術師だった。それはグレゴも長い経験上知っている。想像していた陰湿な印象は的確、いやそれ以上だった。グレゴ以外にも雇われた傭兵は何人かいたが、彼らもグレゴ同様、いくさ場を転々としている流れ者だった。昼夜の寒暖の差と鬱屈した空気に辟易し、非番の者たちで自然と集まるようになる。だが、酒を酌み交わす事も、賭場を開く事も雇い主はきつく禁じた。反感を持たぬ訳ではないが、相手が呪術使いである以上、面と向かって刃向えば賃金をもらい損ねるだけでは済まないはずだと、黙って従った。みな退屈そうに目的地への到着を願うばかりだった。


「……都の様子は……」
「……の日が近……表されるようだ……」
 ギムレー教会の人間は、どの顔も陽気とは無縁で、長く一緒にいると自分まで陰気な性格が伝染りそうに思えた。その中でより根暗そうな顔つきの呪術師が二人、立ち止まって話し始めた。滅多に口を開く事はないせいか、口と舌の動きが悪いのかもしれない。それ程離れていないグレゴの耳にあまり届かない。彼ならば、普通に話すだけでこの野営地の端から端まで声を届かせる自信はあった。

「何をしている!」
 グレゴの視線に気付いた僧侶が、かっと目を見開いて怒鳴った。
「さっさと持ち場へ行け!」
「へいへい」
 普通に話せるじゃねえか、と内心で思いながらグレゴは柄杓を置いて、交替の場所へ足を向けた。職業上、血生臭く、胸の悪くなる場面を目の当たりにしたのも少なくはない。それらに比べれば、仕事場の環境が少しばかり暑くて陰気なだけで可愛いものだ―――グレゴはそう言い聞かせて砂漠を渡っている。だが、やはり肚の奥底に沸いた嫌な予感は、いつまでも消えずにいた。

 

 今日の持ち場と言われた小さな天幕には、もう一人の同業者が既に立っていた。
「よう、お疲れさん」
 いかつい顔をした大男は、グレゴをちらりと見ただけだった。酒かカードでも交わせば幾分かは仲良くなれるが、剣の鍛錬すら厳しく禁じている中、傭兵同士の交流は望めない。つい先日も、隠れて賭場を開いていた傭兵数名が呪術師らに連れて行かれ、翌朝から姿が見えなくなった。
 
 グレゴは天幕を上から下まで眺める。
 今までは移動する教団の護衛だけで、天幕の見張りは今回が初めてだった。この天幕が誰の物なのかは、もちろん知らされていない。ギムレー教の僧侶の目がある為、他の傭兵たちと雑談もしにくい状況も、天幕の存在を完全に隠していた。警護をするからには、司祭の天幕かと思いきや、質素倹約を是としているらしき教団の司祭は、他の呪術師と寝食を共にしていた。
 
 訊いても無駄だろうなあ。
 何分、教会の人間とギムレー教の不気味さに加え、理解の範疇を超えている呪術使いである。何が入っていも不思議ではない。人の骨だろうが、内臓だろうが、あるいはもっと恐ろしげな……

 そう妄想していると、前方から分厚いローブを被った呪術師が、こちらに歩いて来た。手に椀のような物を持っている。その呪術師が頭巾の下からぎろりとグレゴを見たので、グレゴは慌てて視線を空に遣った。そうすると、普段通り、グレゴ達傭兵などいないかのような所作で天幕をくぐる。

 グレゴは決して若いとは言い難いが、目と耳は若造には引けを取らぬと自負していた。その耳が、分厚い帆布を通した物音をしっかり捉えていた。中にいるのは人だ。しかも、子供。くぐもった声は泣き声だとわかると、肚に渦巻いていた嫌なものが、じわりと胸に広がった。今すぐ飛び出したい衝動に駆られたが、さすがに分が悪すぎてすぐに冷静になる。

 いや待て、実は教団のお偉いさんの子供で、人見知りで泣いているだけかもしれない……
 などと適当な理由で平静さを取り戻そうとする。だが、金属が激しく鳴る、聞き覚えのある音がして、いても立ってもいれれなくなった。呪術師が出て行き、姿が見えなくなるのを確認すると天幕の入り口に指をかける。
「おい」
 もう一人の護衛が、グレゴの肩に手をかけた。仲間意識はないが、さすがに心配しているらしい。しっ、とグレゴは振り返り口に人差し指を立てる。改めて息を潜め、中を覗いた。嫌な予感はぴたりと当たった。

 


 太陽がすっかり姿を隠すと、灼熱の砂漠は一気に肌寒い夜に変わる。点在する篝火を頼りに、グレゴは昼間の天幕へ向かっていた。日が沈んでから、他の傭兵と天幕の見張りは交替していた。だが、気を緩めているのか(一体何に対してかは解らないが)、見張りは一人だった。

「よう」
 グレゴは勤めて陽気に、同業者に向けて手を挙げた。長身の男はあからさまに怪訝な顔をグレゴに向ける。酒賭博、剣の稽古に加え、雑談すらも雇い主はいい顔をしないのだ。無理もない。
 そんな"規律"に臆する事もなく、グレゴは腰の物入れから金貨を数枚取り出した。
「お、おい。何なんだ……」
「いやいやいや。ちょっとした気持ちさ。これに目を当てると砂漠でも良く眠れるとか」
 長身の男が手のひらの金貨を前に動揺しきっている内に、グレゴは天幕の入り口の布をそっと開けた。グレゴの胸がずきんと痛んだ。傍の篝火に鉄格子が照らされる。その無慈悲な箱の中には、小さな身体を丸めて眠る少女がいた。

「ひでえなあ」
 グレゴは無意識に呟いた。傭兵は仕事を選りすぐるような立場でない、と頭では理解しているが、人攫いや人身売買の類は避けて仕事をして来た。女子供が成す術もなく売られて行くのを見るのは、さすがに彼の良心が痛む。その上、嫌でも過去を思い出してしまうからだ。

 あれはまだ彼が少年と呼ばれる年だった。王都から離れた山奥の村にいる、多少の貧しさを抱えてはいるが、これからの人生に何の疑いもなく、純真で、好奇心旺盛などこにでもいる少年だった。そんな幼い少年が、戦が始まろうとしている事など知る由もない。

 国が戦争の準備の為、辺境の警備兵の大半までもが徴収されている―――大人たちが旅の商人の話を、険しい顔で聞いていたが、難しい話は少年の脳裏に留まりはしない。

 やがて、イーリス聖王の急な軍事整備の影が少年に忍び寄る。地方の警備が手薄になった事を知ったならず者たちが、次々と村を襲って行ったのだ。守る兵士もおらず、各自で結成された素人衆の自警団はあっけなく破られ、地方とは言え被害は大きく、範囲を拡大させて行った。国の中枢は、邪教徒の討伐という大義を盾に、対策を怠った。そして……


「おい、正気か?」
 気が付くと、グレゴの剣は鉄格子の鍵を壊していた。背後の傭兵の驚く声も意に介さず、錠前に刃を何度も突き立てる。金属が鳴る音に、小さな肩はびくりと強張る。毛布に全てを隠すようにくるまった。

「大丈夫だ」
 壊れた錠前を投げ捨て、入り口を開けた。毛布越しでも震えているのがわかる。
「お前を自由にしてやる。だから、もう怯えなくていい」
 ゆっくりと優しく声をかけるも、毛布から身体が出て来る事はなかった。よほど恐い思いをしたのだろう。身を乗り出して鉄格子の中に半身を入れる。小さな身体は、グレゴの両腕にすっぽりと納まりそうだった。

「……し……」
 掠れた震えている。
「し?」
 それよりも何倍も大きな声で聞き返してみるが、毛布の下からくぐもった声しか聞こえない。子供を怯えさせる危惧もあったが、それでも、とグレゴの手は毛布を剥がす。女の子供だ。グレゴはさらに眉間に皺を寄せる。くぐもった声は猿轡のせいで、怒りに任せてそれを解いた。

「もう大丈夫だからな」
 にっと笑って少女の頭を撫でても、少女は震えたままだった。それでも、彼女は口を懸命に動かして何かを訴えていた。
「うん?何だ―――?」
「し……」
「だから」
「いし、いし……」
 言葉を紡ぐ度に、少女は目に涙を溜めながらも、首を天幕内に巡らすようになる。橙色の篝火が、薄い色の髪から飛び出ている長い耳を照らし出す。
「いしって、何だ?」
「だから、いしだよ。あ―――」
 先刻の震えた様子から一変して、元気そうな声色が聞こえた。それに安心する間もなく、少女が指差した方向に目を向ける。天幕の奥は薄暗いが、彼女が指差す方角にある物が、小さな袋だというのはわかる。
「これか?」
 少女は勢い良くかぶりを振った。
 

「―――何をしているんだ!」
 背後から、傭兵の男のものではない声がした。見つかる事は予想していたが、もっと上手くやる算段だった。天幕の入口には、雇い主側、つまり呪術師が松明の灯りに照らされている。あの長身の男が見えない。その男がギムレーの僧に報告したのかもしれない。
 グレゴは身を起こし、天幕を出た。
「傭兵の分際で、雇い主の荷物を詮索するとはな……言わなかったか?余計な事は知ろうとするなと」
「おれ意外と子供好きなんでね。泣き声聞こえちゃうと心配になっちまうんだ」
「貴様……!」
 茶化した態度が、余計に呪術師の怒りを煽ったようだ。長いローブの袖から指が覗くと、闇夜の中でも分かるほどの黒々とした煙が揺らめき始める。それがグレゴに向かって伸びて来た。グレゴは思わず剣を真横に薙いだ。だが、黒い煙はすぐに元に戻ってしまう。

「残念だが、生贄になるがの早まったようだな」
「あん?そりゃどういう意味だ?」 
 それに答えるかのように、黒い煙は眼前に広がる。何度も剣を振って抵抗するも、霞のような手応えで埒があかない。気付いた時にはグレゴの身体を縛り上げていた。闇魔法は何度か見た事があるが、これは全く初めて見るものだ。
「少し早まったが、その小娘と共に、ギムレー様の血肉にしてやろうではないか」
「くそっ……取れねえ」
 煙で縛られた半身はびくともしなかった。呪術師は陰気な顔を歪めてグレゴに近付いて来る。
「喜べ。貴様はギムレー様の一部になれるのだ」
「でっかい蛇の腹に納まっても嬉しかねえよ」
 いくら彼らの神へ暴言を吐こうと、もはや呪術師には響かないようだ。呪術師は腰の小物入れから小瓶を取り出して、騒ぐグレゴの口に寄せた。必死で口を固く結び、首を捻るも、黒い煙は今や首から下を覆い、動かす事が叶わない。呪術師の長い爪はグレゴの顎を鋭く裂く。痛みに思わず呻き、その隙間から"何か"を流し入れた。何とも言えない味が口一杯に広がる。吐き出そうとしても、喉に絡み付き、自ら胃の中へ進んで行っているように思えた。

 突如、ごうっ、と背後から急に熱い風が吹いた。身体を縛り付けていた煙が急に吹き飛び、風の勢いも手伝って前につんのめる。呪術師も言わずもがな、背中と後頭部を地面にしたたかに打ちつけたようだ。頭を抱えて唸っている。

 グレゴは身を起こし振り返る。そこにいたのは、グレゴの身の丈の倍はある巨大な生き物だった。
「こりゃ何だ?」
 思わず腰を抜かしかけたが、剣を支えに何とか立つ。磨かれた床のように、大きな身体は篝火の灯りを跳ね返していた。

 竜だ。
 グレゴは幼い時に、村の神父から聞いたお伽話を思い出す。竜騎士が乗っている飛竜とはまったく違う。大きな身体にきらきらと光る鱗、空を駆け巡る大きな翼。イーリス教の神ナーガもその姿を持つと言われているゆえに、教会ではよく竜を題材にした童話をよく子供達に聞かせていた。

 マムクートという種族が、普段は人の姿で生活し、竜の力は石に封じているのだと文献や伝承にはある。しかし、今の時代、文献などは一部の学者や地位の高い者しか目に触れる機会はない。だからグレゴのような学も身分もないほとんどの人間は、まさか小さな少女が石に封じた力で巨大な竜に姿を変え、火を吐くなんて想像もつかなかった。

「おじさん、大丈夫?」
 
 信じられない事に、竜はこちらに長い口を向けて人間の言葉を話し始めた。グレゴはその大きな影の中で口をぱくぱくとさせていた。
 
 背後で人が走る足音がする。この騒ぎでは無理もない。竜は火を空に向けて吐いたようで、焼かれた物は何もなかった。だが、勢いは防げるものではなく、幾つかの天幕や篝火はなぎ倒されている。その様子と竜を見て、ギムレー教徒たちは顔色を変えた。

「この、男が……小娘に石を……」
 倒れた男がグレゴを指差した。ギムレーのしもべたちは物凄い形相でグレゴを睨みつけている。仲間の言葉を聞かずとも、グレゴをどうにかしてしまうだろう。

「だが、"あれ"は飲ませた……いずれは」
「そうか」
 倒れている男の言葉に、仲間の呪術師たちはグレゴへ醜い形相を向けたまま応えた。そして何か呪文を唱え始めた。

「逃げるぞ!」
 グレゴは咄嗟に背後の竜に向けて叫んだ。その次の瞬間、グレゴと竜がいた場所に紫色の炎が立ち込める。逃げる一人と一頭の背後で、彼らを追え、というギムレー教徒たちの慌ただしい声と足音が響いた。
 
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