Die Vater freuden 1



先日の領主会議でまとまった案件に、ロイはざっと目を通していた。
 およそ半年後に誕生するリキア王国の要職の席は、ロイよりも遥かに年齢を重ねた、リキア各領主の名が連なっている。元よりそれが条件で王国への統一が決まったようなものだ。
 そのリキア名士の中から、玉座に座るのは若干十八歳、フェレ家の嫡男ロイである。勿論最年少だった。三年前のベルン動乱の功績からによるものが最もだが、またそれとは別の理由があった。当初は、そのベルンとの戦いで斃れた、リキア同盟盟主ヘクトルの死後、暫定盟主となったロイの父エリウッドが王冠を頂く予定ではあった。しかし、本人は病弱を理由にそれを辞退。他のリキア領主たちからも順繰りにかぶりを振られ、結局、年若さへの不満の声はあったものの、エリウッドの嫡男ロイが適任であるとされたのだった。
 
 リキア貴族の名が連なった羊皮紙に筆記具で署名し、フェレ家の印を押す。それを待っていたかのような絶妙な機で、執務室の扉を叩く音がした。ロイは羊皮紙の隅から目を離す事なく応えた。
「どうぞ」
 扉の影から、機敏な動きで老マーカスが入ってきた。彼は長年仕えて来たフェレ騎士団を退団し、現在はロイの補佐役を務めている。それからおよそ一年が過ぎたとは言え、ロイが物心付く頃より老練の将軍だった彼が内政をしているのには妙な気持ちがあった。恐らく、本人にはより一層そう感じているに違いない。
「ロイ様、書簡が届いております。エトルリアのマルヴィル伯爵家からです」
「マルヴィル?」
 渡された封書とその家名に、ロイはできうる限りの記憶の糸を巡らせた。しかし、どうしても、その名を思い出す事はできない。エトルリアはリキアよりも階級を重んじる国。古くからの歴史の中で、爵位を王家から授かった名家は何百とある。
 真白い封筒には確かにロイの名が綴られていた。ロイは実質当主の執務をこなしているものの、フェレ家当主は間違いなくエリウッドである。肩書きを何より大事にする貴族が、当主ではなく、わざわざロイ宛てに封書を送ってくる事も妙だった。
 家名に覚えのないまま、ロイは封書の封蝋を割る。どのような思惑があれ、宛名が己であるのだから己が開くのが道理だ。少し癖があるが、エレブ公用文字で綴られているのは、少なくとも相手を重んじているのだろう。
 ロイの視線はゆっくりと文字をなぞっていたが、急に歯車が止まったかのようにぴたりと止まる。自分の目と読解力を疑った。はっとして、また何度も読み返す。眉間に刻まれた皺は次第に深くなって行った。何度読んでも同じ文面だが、何度読もうとも信じられない。

「いかがされましたか」
 そんなロイの様子に、マーカスは訝しんだ声を出した。
「父上を呼んでくれないか」
 その声は掠れているようにマーカスには聞こえた。ロイの青い目が、ゆっくりと羊皮紙から老補佐へ向けられる。
「結婚の申し入れだ。それも、父上に」


 それは、エトルリア王国マルヴィル伯爵家の子女を、父エリウッドの元へ輿入れさせる旨の手紙、そしてフェレ家とマルヴィル家との親睦を深めるための晩餐会への招待状が同封されていた。差出人はマルヴィル伯爵ミュレーベ・エル・アデル・マルヴィル。当然の事ながら面識はない。
 伯爵家の家名が刻印された封筒。手紙の末尾には、ミュレーベ・エル・アデル・マルヴィルの名にかかり、立派な角の雄鹿と柊をあしらった朱印が押されている。無論見覚えはないが、恐らくエトルリアでも有力貴族の一員なのだろう。あからさまにフェレ家を見下した態度ではないが、有無を言わせぬ高圧的な態度は、直接話をせずとも伝わるものなのだと感心している。
 
 なぜ父エリウッドに。
 その疑問は、恐らく今回のリキア統一に絡んでいるとロイは自答した。ゆえに、この手紙もロイ宛なのだとも。ロイの国王就任は、リキア同盟盟主であったオスティア侯爵の一人娘リリーナとの婚姻も一端を握っている。つまりロイの隣の席はすでに埋まってしまっている。リキアへの勢力を伸ばしたいと考えるならば、「国王の父」であるエリウッドとの婚姻が最短である、と相手は踏んだようだ。ロイには兄弟はおらず、加えてエリウッドの妻も、ロイが幼い頃病死している。それ以来フェレ侯爵夫人の席が空席であった所を付け込まれたのだ。
 リキア各領主の地位や矜持を確保する人選だけでも気を揉んでいるというのに、他国がそれに便乗しては堪らない。更に件の伯爵令嬢レティツィア・エル・アデル・マルヴィルは十七歳。ロイよりも年若いのが頭を抱えさせる要因の一つでもあった。親子のように年の離れた夫婦など、特に貴族社会では珍しくはない。だが、父は病死した妻だけを愛していると信じているだけに、息子として若い娘を父が妻として受け入れるのが恐ろしかった。



 父の元へマーカスをやってから、ロイは革張りの椅子に深く背を預けて目を閉じていた。
 政治的な魂胆が絡んでいては、リキアの国益を最優先で考えなければならない。父本人、いやフェレ家の意思よりも、各領主の意見が優先される。だが、それでも一応は父に話を通しておこうとロイは考えていた。本人の口からそれを拒んで欲しいのが本音であったが。
 
 再びドアを叩く音が聞こえ、ロイは勢いよく立ち上がった。家臣に呼ばれた父のものだろう。しかし、執務室に入って来たのはマーカスただ一人。嫌な予想がたちまち脳裏にちらつく。
「ロイ様。エリウッド様は、行方が知れずと」
 マーカスの深い皺は更に深まっていた。
「またか……」
 ロイは額に手を当てる。あの人はいつもそうなのだ。体が弱く、周囲が心配しているのにも関わらず、突拍子もない事をしでかす。忽然と姿を消すのも得意技であった。
「探し出して、父上にぼくが火急の用事があると伝えてくれないか」
 失踪とは言ども、エリウッドが隠れている場所はフェレ城の敷地内、もしくは領内であった。彼なりに冗談で済ませられる範囲でやっているらしい。だが、ロイの言にマーカスは渋面を収める事はなかった。
「それが、午前中から捜索しているらしいのですが、一向にエリウッド様は見当たらないとか……」
 今日は体調がいいからと、朝食は親子ともにしていた。昼食は別だったが、現在はそれからはそう経っていない時刻。思ったより遠くへは行ってはいないはずだ。それでも、半日近く過ぎても見つからないのはさすがに引っかかるものがある。
「捜索の人数を増やすように。手に余るようだったら騎士たちも動員するといい」
 呻くようにロイはマーカスに告げた。老補佐は一礼して執務室を出る。
「この忙しいのに、父上はっ!」
 こうなったら、本人の意思など無視してやろうか。
 ロイは音が出るほど乱暴に椅子に腰掛けると、筆記具を取って緊急招集の書を認める。末尾に朱でフェレ家の印を押すと、もう一枚羊皮紙を取り出した。


 秋の空に枝を広げる木々が生い茂る庭園は、フェレ家自慢のものだった。空気は少しだけ冷えてはいるが、木漏れ日はそれでも強さを失ってはいなかった。
「―――いや、だから、逆さに読むとか……」
「読めないぞ」
「うむ…………」
 二人の若い騎士が一枚の紙片を囲んでいる。
 エリウッド捜索に駆り出された騎士達である。同じく捜索で屋敷の庭園へ足を運んだウォルトは、見知った騎士の背中に声をかけた。
「アレン様、ランス様。どうしたのです?」
「ウォルトか。丁度いい。知恵を借りたい」
「はっ」
 見せられた紙片には、エレブ公用文字が紙一面に連なっていた。その文字から書き手の几帳面な性格が読み取る事ができるのだが、それは全く文章どころか単語にすらなっておらず、意味が通じない。
「これは……侯爵様の件と関係が……?」
 困ったような、怒っているような表情で、二人は同時に頷く。聞けば、初めはエリウッドの私室から、使用人が見つけた机の上の紙片が発端らしかった。「引き出しの下から二番目を開けよ」という置手紙の命令通りに開けた先には、不可解な文章を綴った手紙が入っていた。それを解読しては、また奇妙な謎解きが書かれた紙片が見つかり―――それらを辿り、現在手にしている紙を、裏庭の楡の木の鳥箱の中から発見したのだ。
 この文章、いや文字を散らした手紙には、規則性が見当たらない。二人の話によれば、同じ謎解きは使っていないと言う。初めは子どもが思いつくようなものだったが、次第に難解になってきたとも。
「書庫番や学者の方に聞いてみては……」
 騎士である彼らや自分よりかはこういった物に強いのではないか。そう思い、ウォルトはランス達へ顔を上げる。
「とうに匙を投げられたよ」
 エリウッド気に入りの楡の梢から、鳥が飛び立った。


 臨時にリキア各領主達を招集し、この件について意見をまとめ、今後のリキアの動きをマルヴィル伯爵へ返答する。正直に事態を領主たちへ打ち明ける事で、領主たちへの不信感は薄れるだろう。裏で他国と手を組み、己の地位をより強めたりする腹はない事を証明できるのだ。
 ロイが玉座への執着に薄い事が、マルヴィル伯の誤算だったようだ。世襲を良しとしないリキア緒領主の意向を汲まざるを得ない状況で、エトルリアの有力貴族との繋がりは魅力的だと思い込んでいるらしかった。それは間違いとは言わないが、閨閥を利用してまで権力を維持しようなど、ロイは考えてはいなかった。将来自分の子に王の資質がなければ、時期国王は別の人間へ、とも考えている。例えそれがいらぬ争いの種になろうと、国を正しく導ける者を王にしたかった。その人物が現時点で現れた場合、ロイは喜んで玉座を明け渡そうとも考えている。
「ロイさ―――ああっ!!」
 分厚い扉を通して、普段は落ち着いている乳兄弟のけたたましい声がロイの耳に入った。ウォルトの慌てた様子に、ロイは不審に思い自ら扉を開けた。
「す、すいません。ロイ様」
 入るよう促した矢先に、ウォルトから紙片を手渡された。文字がびっしりと詰まるように書かれた手紙のようなものだが、文字は文章を成しておらず、読む事ができない。聞けば、これはエリウッドから出された謎解きであり、解読に行き詰まっている旨を報告に来たとの事だった。
「先ほどこの手紙が風に飛ばされかけまして。掴もうとしたら、紙に陽が当たると特定の文字に色が浮かんで来たのです」
 そう言うと、ウォルトはロイの手から取った紙片を窓に向けてかざした。アレンとランスの二人の騎士は、手紙を見つけた昼でも薄暗い雑木林でずっと悩んでいた。それゆえに、長く陽光を浴びていないと解けない謎に頭を悩ませていたのだ。
 さんさんと降る午後の光を受けて、不規則に連ねられた文字から数文字が変色する。ほんの数文字のそれを、二人は目で追った。
「えーと、い、り、あ、へ、い、く……い、り、あ、へ―――」
「『イリアへ行く』――?」
 二人の声が重なる。イリア。エレブ大陸北方の国。答えは、いや、父はイリアへ行ったというのか。
「ウォルト」
 ロイは額に手を当てる。じんわりとそこに汗が浮かんでいるのがわかった。
「はい」
「今からなら間に合う。そうだ、アレンとランスも連れて行ってくれ。早急に父を連れ戻してくれないか」
「は、必ずや」
 頭痛がしてきた。だが、こちらからも早く動かなければならない。緊急招集の他に、もう一通用意した別の書簡を呼び出した使用人へ渡す。エトルリア王都アクレイアへ。招集へ間に合うように、急がなければならない。  
   Back