祝い酒



 フェニキスの背の高い木々の梢は、鳥たちの安寧の場所だった。そこから歌が紡ぎ出され、その歌を運ぶ風は、海の潮を含み、金糸のような髪を通り過ぎる。蒸し暑い夜をねぎらうように、ひんやりとした手で首筋を撫でながら。フェニキスの朝は、この潮風と鳥たちの歌声で始まる。
 皇帝サナキから贈られた茶葉は、意外と口に合う。同じく贈られた陶製のカップに注ぎ、毎朝欠かさずに飲むのが習慣となっている。火を熾すのが多少難があるが、現在はタカの使用人に湯まで用意させている。今は問題ではない。

「……あのな……」
 冬の白木の枝を思わせる指が、金淵の取っ手をつまむ。立ち上る湯気を楽しんだ後、それをゆっくりと傾けた。気化したものとは違う香りが口に広がる。同じ茶でも様々な表情見せる事に、最初に感じた時と変わらない驚きが胸に迫った。この茶葉も素晴らしいが、感服すべきは、その味を最大限に引き出した技術だと。
「……リュシオン」
「冷めますよ」
 咎める低い響きも臆する事もなく、視線は彼の正面に置かれたもう一組のティーカップに向けられていた。
 的外れの返答に、ティバーンは肩に力が抜ける気がした。ベオクの風習を頭から毛嫌いする事はもうないが、だからと言って迎合するつもりもない。だが、ティバーンの頭痛の元は、その点ではない。
「もう六日だ。いい加減にしたらどうだ」
 二、三日で気が済むだろうと高を括っていたが、ティバーンが先に痺れを切らしてしまった。
「迷惑なのですか」
 ふいに深い湖のような瞳に見据えられ、思わず口を噤ませる。小さくため息をついて、ティバーンはくしゃりと黒い髪をかき上げた。鷺には弱い。青い瞳は、彼の思考を止めさせる強力な魔法のようだった。
 フェニキスの城の一角にあるこの部屋は、リュシオンを庇護してから二十数年、彼に充てていたものだった。それに、ティバーン、いや鷹の民にとっても鷺の民は半ば家族のようなもので、何日いようが迷惑ではない。しかし、この鷺の王子がここにいる理由が、ティバーンを呆れさせるのには充分だった。
「今日はシエネの神殿にて、ベグニオン皇帝と会談です。帰りは明日に。タカの護衛はすぐに帰しますから」
 呆れ顔で立っているティバーンをよそにカップを傾けていたリュシオンだったが、それを置くと同時に籐製の椅子から立ち上がった。この日の予定を淡々と告げると、寝台のそばに置かれた机上の書類を手に取る。
 リュシオンはシエネの神殿にて泊まる腹積もりらしかった。これは今回が初めての事ではない。皇帝サナキの好意を受け取るようになったリュシオンに、ティバーンは驚きを隠せずにいた。数年前までは、一族の仇敵と憎悪を燃やしていた相手なのだ。およそ三年前のサナキの謝罪により、僅かながらもベオクとの調和の糸口を見せ始めてはいる。しかし、鳥翼連合国の手綱の一端を任せるようになってからは、真綿のようにベオクの趣を吸収して行く彼は、鳥翼族の間でも穏やかではない風を吹かせていた。
 だが、ベグニオンの皇帝に謁見するのも、そのままシエネに泊まるのも、ティバーンは否定するつもりはなかった。正の女神アスタルテと、いや、皇帝を奸計にかけた元老院と戦う運びになってから、サナキへの隔たりは少しずつ厚みを削ってきた。彼女と、その側近ならばリュシオン一人預けても何も問題はないと、不審感を溶かしてはいる。あくまでこの範囲内だが。しかし、ティバーンの渋面の理由はその点ではなく、あくまでフェニキスへ戻ると言い張っている事だった。
「シエネだったら、わざわざフェニキスへ戻る事はないだろう」
 ベグニオンにより近い、しかも本来の場所が彼にはある。しかし、リュシオンは張り付いたような無表情のまま部屋を出た。「帰りは明日」ともう一度告げて。
 リュシオンの歩みに合わせて、蒸し暑いフェニキスに似つかわしくない純白の翼が揺れた。主のいなくなった部屋でひとり、ティバーンはもう一度ため息をついた。
「まあ、気持ちはわからんでもないがな」



「ぼっちゃま。今日はセリノスへは?」
 最近の老従者は、開口一番これだった。ネサラは眉根を寄せる。聞こえないように小さく舌も打った。
「今日は無理だな。朝っぱらから皇帝に会いにいかなきゃならん。謁見の後も、色々飛び回らなきゃならんしな」
 それと、ぼっちゃまはよせ。と付け加えると卓上の水を一気に飲み干した。軽い音を立てて置かれたガラスに、老鴉の寂しそうな顔が映る。
「お嬢様が寂しがるでしょうに」
「……行って来るぞ」
 大げさなほど仕草で袖を目に当てる老鴉を尻目に、ネサラは黒い翼を広げ、自室のバルコニーの床を蹴った。風に乗ると、けだるそうに翼を揺らす。
 大陸から吹く風が、紺の髪を撫で上げた。晴れ渡った空が視界一杯に広がった。数え切れないほど往復しているベグニオンへの方角へ、供もつけずに風を切る。爽快な空の道も、先刻のニアルチを思い出せば歪んで見えた。
 毎日顔をつき合わさなければならない義務などないのだ。例え、近い未来の妻と言えども。会いに行けば、花がほころぶ様な笑顔に出会うのは、まんざらではないが。
 しかし、白鷺の姫とは間逆の表情を見せる兄がいる。憎しみや嫌悪ではなく、全くの無表情。しかも、言葉を交わす事も拒否されていた。それが今でもネサラの胸に焼きついている。原因など、思案するまでもない。
「まあ、気持ちはわからんでもないがな」
 呟きは潮風に連れ去られてしまった。
 ベグニオンの従者に出迎えられ、ネサラは帝都シエネにあるマリズエラ神殿へ降り立った。シエネの中心マナイルではなく、そこから遠く離れた場所での会見は、皇帝サナキの鳥翼族への配慮とネサラは受け取っていた。元老院は先の戦でほとんど死亡したものの、彼らの影がなお強く残るマナイル神殿は、鷹の民、そして鷺の民には酷であろうと。ネサラ自身は言わずもがな、その辺りの免疫は問題なかった。
 明るい日差しの空を飛んでいたせいか、マリズエラ神殿の廊下は薄暗く感じられた。ネサラは、自分よりも頭ひとつ分低いベグニオンの近習の後頭部を、ぼんやりと眺めながら靴音を響かせる。その音が拍子となって今日の予定をぽつりぽつりと思い出す。そこに、セリノスへ寄る隙間などない事を確認するように。
「こちらです」
 最奥の部屋で茶色の髪が立ち止まった。軽く礼を言おうとするも、鋼鉄の枠飾りの扉が動きを見せた事に意識が奪われた。扉から、いくつかの人影がうごめくように揺れる。見慣れた茶の翼の人影たちからの冷たい視線を軽く受け流すも、そのひとつだけにはネサラは無視する事はできなかった。
 影だった者はネサラをちらりと見ると、眉ひとつ動かさずにベオクの従者の背中へと視線を戻す。薄暗い廊下においても、彼の翼は未踏の雪原を思わせる。慌てて、ネサラはその名を呼んだ。変に硬まってしまった事に少し後悔する。もう一度名を紡いだ。
「待てよ、リュシオン」
 二度目の呼び止めにぴたりと身体と止めるも、リュシオンはネサラへ振り向く事はなかった。投げかけた言葉が、磨かれた石に落ちていくようだった。これ以上続く言葉が見あたらないが、それでも、何か話さなければと口を動かした。
「久しぶりだな。森へ行ってもお前、顔を出さないし」
「お前が気を揉む事はもうない」
 ネサラの努力も虚しく、薄暗い廊下にリュシオンの声が冷たく響く。彼の言葉の意図が汲めず、ネサラは次の文が一瞬で脳裏から消え去った。真意を訊こうにも、リュシオンはネサラには一瞥もくれずに、光差すバルコニーへと歩いて行く。
 短く息を吐き、前髪をかき上げる。ひとまず退くべきと、脳裏が信号を送っていた。自分とは正反対の色の翼が小さくなっていくのを見届ける。二度目の吐息は頭を切り替える為のものだった。状況が掴めずに眉根を寄せている従者が扉を開いた。


 皇帝サナキは、好奇心の塊のような子どもだとネサラは評している。普段より外交上の話はそこそこに、鳥翼族の風習、環境など、質問の矢をネサラに浴びせる。それに律儀に、かつ当たり障りもなく答えるが、最近はネサラの婚約に興味の鏃が向いているのにはさすがに閉口していた。「次の予定があるから」と何とか部屋を出る事に成功したが、生まれついてより聞き飽きた声がネサラの神経を更に歪ませる。
「ぼっちゃま……!」
 空から面倒事が降って来た。
 せわしなく翼を鳴らしている老従者をそう評し、ネサラは内心で舌打つ。ニアルチが浮上している空へ黒い翼を広げた。皺だらけの口を塞ぎたい衝動を抑えながら。老鴉が叫んだネサラの呼称は、神殿の中庭にいた兵士や庭番にしっかりと届いたらしく、あちこちで忍び笑いをする姿が見て取れた。
「どうしたんだ、いきなり」
 ネサラはキルヴァスの居城より外へ、この老鴉を連れ立つのを好まなかった。彼もそれを承知しているはずだった。そして、この老翁自身も、セリノスへ出向く以外はキルヴァスを滅多に出ようとはしない。一人でベオクの国へ入るなど、ネサラの記憶には片鱗すらなかった。
 それを推してネサラの元へ飛んで来たニアルチの顔は、焦りの色に染められていた。ネサラは苛立ちを鎮め、「まずは何が起こったかをゆっくりと話せ」と老鴉を覗き込んだ。皺だらけの手は、震えながらネサラの服をつかむ。
「お嬢様が!リアーネお嬢様が、いなくなったのですじゃ……!」
「はぁ?」
 何の冗談だ?
 事態が飲み込めず、鎮まっていたはずの苛立ちを再び隆起させて問う。狼狽を隠さぬままニアルチは言葉を続ける。どうやら、ネサラが発った後、ニアルチは単身でセリノスの森へ出向いたらしい。
「ラフィエル王子の話では、お嬢様はリュシオン王子がセリノスへ帰らないのを心配して、反対を押し切ってフェニキスへ行ったそうなのです……」
「で、フェニキスにはいないんだな?」
 震えながらニアルチは頷く。老従者の言葉で、先刻のリュシオンの言葉がようやく飲み込めた。鳥翼族が一つの国に統合されたとは言え、ネサラは、フェニキスへは余程の事がない限り風に乗ることはない。だからリュシオンはフェニキスへ身を寄せたのだ。フェニキスにいれば、「妹の婚約者」を見る事はないのだから。
 疑問が溶け、ネサラの脳裏に染み込むと、それはすぐに鷺の王女の失踪の件に戻った。ベグニオンと鳥翼族は、わずかながらも友好へと帆を向けている。しかし、それでも根強く残る差別や敵愾心は簡単には消え去る事はない。鷺の王女が一人、ベグニオンの空を飛んでいるなど、想像するだけでも嫌な汗が浮かぶ。現在のベグニオン帝国は、皇帝サナキによる公明正大な政治は、ネサラの目にもはっきりと見て取れる。しかし、その手が広大なベグニオンの地の端々にまで渡っている保障はない。
「ニアルチ、フェニキスの近海をよく探せ。鴉の兵を使ってでもだ。手に余るようなら、鷹の連中にも。リアーネが失踪したとなったら協力せずにはいられんだろうからな」
 ネサラの言にニアルチは力強く頷くと、すぐさま身体を翻して黒い翼をはためかせた。その力強い羽ばたきは、とても鴉一族の最高齢とは思えない。
 ネサラはもう一度マリズエラ神殿へと身体を向けた。何としてでもリュシオンに会うのが先か、リアーネが見つかるのが先か。それはネサラにも予想がつかない。
 


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