キミは葉がら



「あっボーレ。オスカーお兄ちゃん見なかった?」
「うん?見てねぇけど」
 ボーレは常日頃から、弟の自分と兄との態度の違いを面白く思っていない。ヨファが物心ついた時から、ボーレは呼び捨てなのだ。いつかこの生意気な小僧に「ボーレ兄ちゃん」と呼ばせ、兄としての威厳を築きたいと思っているのだが。
「お兄ちゃんにね、街まで連れて行ってもらおうと思ってるんだ」
「無駄遣いは兄貴に叱られてただろ」
 ボーレの言葉に、ヨファは「今日は聖者の日だから」と口を尖らせる。聖者の日。それが今日だと知ったボーレは、先刻ミストがマーシャと街まで出かけていた事も思い出した。毎年、ミストはオスカーと共同で(ほとんどオスカー手製と言ってもいいが)焼き菓子を作る。今年はどうなのかと、ボーレは胸が鳴った。しかし、よりにもよってこの日の朝一番に、顔を合わした瞬間に口論となった。当て付けで、自分には何もないかもしれない。
「―――馬鹿馬鹿しい!」 
 何を心配してるんだ。ミストが誰に贈ろうが、おれには贈るまいが知ったこっちゃねえよ!
 脳内を駆け巡っていた思いを振り切るように、ボーレは武器庫の垂れ幕を勢いよくめくった。訓練用の斧を乱暴に掴むと、早足で訓練場へと向かう。その足取りは、胸に残るわずかな期待を踏みつぶしている様だった。




 ごく限られた存在にしか明かされなかった存在ではあったが、エリンシアは離宮の生活を窮屈だと思った事はなかった。両親はどれほど忙しくても離宮には毎日顔を見せていた。それに、優しかった叔父。そして、常に一緒だった二人がいる。この姉弟は共に騎士の道を選び、ルキノはエリンシア王女の近衛隊へ、ジョフレはクリミア王立軍の将軍へと成長した。人格も優れ、多くの部下から慕われていると聞く。難を強いて挙げれば、融通が利かない所か。いや、乳兄弟の身として、その「難」はかなり困ったものだった。
 天幕内に座する主の前に、クリミアでは大変珍しい、鮮やかな染料で染められた織物が差し出されていた。それを挟んで、向かい合うようにしてルキノは膝を折っている。
「それで、これはフェニキスからの友好の品と言うのですね?」
 呆れた色を隠さずに口を開くと、顔を少し上げた為にルキノの青い髪が揺れる。
「はい。書状はありませんが、ラグズの方々は文字をあまりお使いにならないと聞きいております。我々の形式に捕われていては国交は望めません」
 いささか的外れな返答に、エリンシアは心中で溜め息を吐いた。それにラグズは文字を好まないという事も、彼らはベオクとの交流の際には、ベオクの流儀に則した書簡を送って来る。そのような事は言われなくてもわかっていた。問題は、今自分の目の前に差し出された品が、クリミア王国宛てではなく、これを持って来た家臣へ贈られた事に当の本人が全く気付いていない事だった。
 お互いとんだ朴念仁に好意を寄せたものだ。
 エリンシアはタカの民の少年に同情した。
「それで、ヤナフ様は他に何かおっしゃっていましたか?」
「いえ、以上でございます」
 そう応えた時、ルキノの表情が一瞬だけ曇った様に見えた。
「今日は聖者の日だったわね。ベグニオンの方から聞いて思い出したわ。何せこの戦乱で息つく暇もなかったから」
「そうでしたか」
 ルキノは軽く下げていた頭を更に深くして答えた。エリンシアは先程の考えを撤回した。ルキノはこの贈り物の意味を知らない訳ではないのだ。
「あなたからお礼を言っておいてくれないかしら。ヤナフ様へ」
「でしたら、礼状をお書き下さい」
 勢い良く顔を上げて進言した事が、エリンシアを確信させた。二回目の溜息を心中で吐く。好意で送られた物をどうして頑なに拒むのだろうか。
「ラグズの方々は書簡など必要無いのでしょう。だからわたしに代わって使者であるヤナフ様へお礼の言葉を差し上げて。いいですね?」
「……御意」
 ようやく承諾の声を聞き、エリンシアは安堵の息を漏らした。
 ルキノが重い腰を上げて去るのを見送る。これからエリンシアも作戦の準備に取りかからなければならないのだ。恐らく相手は、ルキノよりも強敵であろう。

 
 
 
二人が 情花 花咲かす 夜や
 ゆくん ちむがなさ まさて かなさ


「……ん、ハールさん!」
 冬の日の陽だまりは、これと言ってない午睡の楽園だった。それを聞き慣れた声に現実へと引き戻される。ぼんやりとした視界はやがて明確になり、男の片方の目に、その姿がはっきりと映し出された。
「おう、ジルか」
「おう、じゃありません。何ですか昼間からそんな歌歌って!」
 悲鳴に近い声を浴びるが、ハールは平然とした顔で半身を起こした。
「いいじゃねぇか。あ、そうそう。ヤマダはな、以前頼まれてこの歌の訳をした事があったんだが、その訳を読んだ奴の亭主に『三文官能小説家』って評されたそうだ」
「そんな事どうでもいいです!!」
「ハハハ、まあな。で、何か用か?」
 間の抜けた掛け合いから急に真顔で言われ、ジルがびくりと体を緊張させた。
「あ、その、軍師殿から各部隊の武器、軍需品の消耗状況を報告して欲しいと言われてまして。ハールさんこの前の戦闘で切らした物資などは……」
「それならこの前報告したはずだが」
「えっ?」
 大袈裟な程に慌てるジルにハールは眉根を寄せた。それに、以前行った報告を忘れるようなジルではない。
 ハールはその答えに大方の予想を見い出した。その為にこんな陳腐な前置きを付けてくるとは。他に言い訳が見つからなかったとしても、自分まで先刻の報告を忘れるような男に見られていたのは、いささか侵害であったが。それでも、そのつめの甘さがジルらしい。
「何笑ってるんですかっ」
 真っ赤な顔で抗議して来るジルに、ハールはずい、と左手を差し出した。
「慎んで受け取りましょう。私の聖者様」
 その左手と、恭しい口調を前にして、赤い顔を更に染めジルは口をぱくぱくさせていた。その様子にハールは吹き出すのを必死で堪えていた。余りにもからかう要素が有り過ぎるのだ。
「何を躊躇っているんだ?昔はよくシハラム隊に手作りの焼き菓子をくれたじゃないか」
 同時に懐かしさも込み上げてくる。幼い笑顔と、少し焦げた焼き菓子。かつての上司だった男の渋面と、鼻先に突き出された戦斧。
「な、何を言ってるんですかっ!もう子どもじゃないんです!」
 ようやくひねり出した怒声を浴びせ、ジルは天幕の並ぶ野営地へ踵を返した。
「まるっきり子どもじゃないか……」
 小さくなって行くジルを見送りながらハールは呟いた。そうは言っているが、もう昔のように屈託のない笑顔で焼き菓子をくれる少女には見えなかった。いや、見ていないのだ。
 本心を言えば今度は拳が飛んでくるであろう。だから、ジルが素直でなくてもいいから差し出してくれるまでいつまでも待つつもりだった。例えそれが何年かかっても。




 天高く、地上を照らしていた陽は、西の空へ傾きつつあった。泉の水面に反射してた光が名残惜しそうに揺れていた。その橙色の光と風に頬を撫でられ、アイクは眼を細めた。母親譲りの青い髪が、次第に強くなって行く冷気を含み、重たそうに沈んでいた。
 アイクは首を竦め、肩や背に押し付けるようにそれを動かした。時折コキコキと鳴る音に、疲労を実感する。将軍という過分なまでの地位を授けられた当初は、舞い込んで来た仕事の大半は理解不可能だった。ティアマトやセネリオらの助力で今まで何とかなって来ていたが、最近は彼らでも手を焼くような量の事務処理となっていた。これも軍膨れ上がった結果か。
「しかし……」
 確かに諸準備と休息の為に行軍を一時止めているのはいいが、膨大な書類を前にさすがのアイクも閉口していた。そんな中でも、休憩も兼ねた基礎鍛練も軍師は認めてくれたが、今日に限ってはそれを許してくれず、今後の進行ルートの確認やら先行部隊からの報告、軍需品の確認、新規入隊の者の審査や配属等、次から次へとセネリオは書類を運んで来た。中には今やらなくてもよい物も見受けられ、それを伝えたのだが。

「今やれば後々楽になる」
 と強引に押し付けられてしまった。さらに、籠った空気の天幕にいる事に耐えかねて、外へ出ようとしたアイクを、軍師は必死の形相で止めた。また、数名の兵士(ほとんど女性だった)がアイクに面会を求めてやって来たようだが、入り口でセネリオが追い返していた。その内容を聞いても彼は「大した事ではない」と突っぱねる。
 縋り付いてでも引き止めるセネリオを説得し、ようやく外の空気を堪能する事ができた時はもう陽が傾く頃だったのである。
 大きく背を伸ばすと、アイクは武器庫へ向かった。もう何日も体を動かしていない気がした。これから訓練用の剣は常に側に置いておこう、そう考えていると、殺気立った空気と共に黒い影が眼の端に映った。
「―――!誰だっ」
 暗殺者か?
 思わずその名が脳裏に浮かんだ。動きがまったく見えず、避ける動作もできずに、その影との軽い衝撃が体に伝わった。黒い影はアイクの足元へ転がる。何とかアイクは身を翻し体勢を整えるも、その影がはっきりとアイクの目に映ると驚愕の声を上げた。
「エリンシア姫?」
 呆気に取られているアイクを前に、影―――エリンシアはばつの悪そうな顔で立ち上がった。そして、すぐさまアイクの下へ駆け寄る。
「アイク様!わたしの不注意でアイク様に気付いていませんでした。申し訳ありません。お怪我はないですか?」
 気付いていなかった?
 気配、動きからしてどう考えても自分を殺そうとしているようにしか見えなかった。もし自分が短剣でも持っていたならば、エリンシアを傷つけていただろう。そう思うと背筋が凍ったが、それよりも目の前の雇い主の言動の不可解さに混乱するばかりだった。いや、本当にただの思い違いなのだろうか。
「……アイク様?やはりどこかお怪我をされたのでは……」
「ん、いや。姫こそどこか怪我は……」
 覗き込むエリンシアの瞳にはどこにも黒い影がない。やはり自分の思い違いで、これはただの事故だったのだろう。アイクはそう思い込む事でこのわだかまりを無理矢理片付けた。
「わたしなら大丈夫です。本当に申し訳ありませんでした。では失礼しますね」
「あ、ああ。気を付けろよ」
 いつもと変わらない柔らかい笑みでエリンシアは去って行く。その足取りは同じ洗練されたものでも、暗殺者のものではなく、貴族のそれだった。
 疑問を胸中に沈ませたままエリンシアを見送ると、ズボンのポケット越しに、固い何かが腿に当たっているのに気付いた。探ってみれば、手のひらに収まる大きさの木箱を見つけた。開けてみると、「あなたの聖者より」と書かれた羊皮紙の下に、美しい彫りが施されたマントの留め金が鎮座するように収まっていた。
「聖、者……」
 無論覚えがない。聖者とは一体何なのか。誰かが入れたのか。エリンシアが脳裏に浮かんだが、あの出来事でどうやって渡せようか。アイクはすぐにそれを否定した。
 釈然としないが、いつまでも考えていては仕方がない。アイクは無造作にその箱をポケットに突っ込んだ。それを吹っ切る為に訓練用の剣を取り出し、訓練場としている広場へと体を向けた。
 
 別の天幕の影で、その後ろ姿を見送る二人がいる。
「これでよろしいのですね。我が君」
 家臣の疲れたような声にエリンシアは頷いた。この家臣は数日前より、将軍の行動を調査してきた。主君の恋路を応援する事はやぶさかではない。だが、結局エリンシアの強引な要望でこの作戦に決まってしまった。これではあの将軍へ想いが伝わるはずがない、との反論も虚しく。
「これでいいのです。あの人には例え真正面から伝えても気付いてはくれませんから」
 赤く染まる青髪の将軍の背中を、熱の籠った瞳で見送りながらエリンシアは呟いた。
 その赤く染まる横顔を見ながら、ユリシーズは先程の主君の俊敏な動きに驚きを隠せずにいた。護身程度に剣を習い、現在天馬に跨がって戦場に出てはいるが、まだ常に護衛をつけている状態である。その離宮の姫が、歴戦の猛者と呼ぶに相応しいあの将軍さえも読めぬ動きで近付き、上着に隠れたポケットへ箱を忍ばせる。手練の密偵でもかのような事ができようか。
「本当に、恐ろしい方だ」
 これも恋が成せる技か。方向が違っている様に見えるが。

 


 空気を切り裂き、斧がうなり声を上げる。訓練用に砂を詰めた重りを付けた斧が振り上げられる度、ボーレの太い腕が軋み、汗が飛んだ。
 荒い息は、白くなっては霧散する。時折冷たい風が吹き付けるも、熱の塊のようなボーレの体には、むしろ心地良いものに思えた。
 しかし、胸のうちは爽快とは言い難い。ミストとの口論は、すでに日常に近かった。それでも、喧嘩するたびに浴びせられた言葉や傷ついた顔が、棘のように残るのだ。そして、どちらが謝る事もなく、何事もなかったようにそれは繰り返される。
 心中で数えていたものの、雑念との葛藤で全て吹き飛んでしまった。恐らく普段よりかは多く振っているが、終わる事はしなかった。手を止めるのを恐れるようにボーレは斧を振るっていた。
 だが、ボーレの両腕はすでに根を上げていた。潮時だと感じ、大きく息を吸い込む。最後とばかりに腕を大きく振り上げ、丸まった刃を地面に叩き付ける。その柄に縋り付くようにボーレは崩れ落ちた。
「ボーレ凄ーい!」
 その声をボーレは背中で聞いた。一番見られたくない奴に見られた。ボーレは懸命に空気を取り込み、呼吸を戻そうと空を仰いだ。空が赤く染まっていた。
「重りも大分増えたね」
 ボーレの肩に汗拭きが掛かった。それだけで呼吸も心臓もいっこうに収まらない。ボーレはそれをむしり取るようにして掴み、乱暴に顔を拭った。
「……何の用だ」
 ようやく絞り出した声は、震えていた様に聞こえた。いつにも増して目の前の少女を意識する自分に苛立つ。
「ごあいさつね!折角誉めてあげたのに」
「こんなんじゃまだ足りねえよ。ティアマトさんなんかこれを軽々と振ってる」
 素っ気ない返事をしながら、ボーレは斧を支えに立ち上がった。かさりと音がして、反射的にミストへ振り向く。
「あのね、ボーレ、これ・・・」
 そこには、小さな包みを差し出すミストがいた。
 ボーレはそれを凝視したまま肩で息をしている。返答も受け取りもしないボーレに、ミストは不思議そうに見上げていた。
「ボーレ?」
 ミストの声に、ようやく声を出すも、上手く口が動かない。
「こ、これって、まさか、せい、なんとかって・・・」
「うん。聖者の日。今年は一人で作ったんだ」
「そ、そうか―――」
 高ぶる感情を懸命に抑え、ミストから眼をそらしてボーレは包みを受け取った。中身は分からないが、壊さないようにそっと豆だらけの手で掴む。鍛練とは別に、身体の内側からじんわりと熱くなっていくのがわかった。
「ミスト、あ、あ……」
「あ、お兄ちゃん!」
 明るい声に、ボーレの搾り出した言葉はかき消された。ミストの視線の先―――ゆっくりと振り返ると、アイクが訓練用の剣を携えていた。体内の熱が急に冷えたように、悪寒が走る。ミストがアイクに、自分に差し出した物と同じ包みを差し出していたのだ。
「何だこれは?」
「やだ、お兄ちゃんも忘れてたの?今日は聖者の日だよ」
「そうか」
「うん、今までは大きいの焼いていたけど、今年はみんな忙しいでしょ?だから個別にしたの」
 だから、個別にしたの。
 ミストの最後の言葉が石のようにボーレの頭に残る。
「お兄ちゃん身体は大丈夫なの?」
「身体?」
 毎年、ミストは皆にもあげていたではないか。今までも、自分だけ「特別」だった事など、なかったではないか。
「さっきお兄ちゃんの所へ行ったら、セネリオが『体調不良で面会謝絶』だって」
 鼻がつんとしてきた。目頭も異常な程熱い。
「っち、くしょおっ!!」
「きゃっ」
 咆哮のような声が乾いた空に響いた。それにひるむミストに構わずに、物凄い勢いで駆けて行く。冷たく感じる頬で、自分が泣いているのだと思い知らされた。
 

 

 夕餉の湯気が台所に暖をもたらしていた。調子よく小刻みにまな板が鳴り、形良く切られた野菜は皿の上に並べられていく。
「トマトは苦手だ」
 オスカーの隣でジャガイモと格闘していたタニスが、急に口を開いてそう言った。オスカーの手には行軍中、通りすがりの農村から差し入れられたトマトがある。
「戦争に出て食糧の好き嫌いを言っていられる身分ではないが、これだけは、できれば口にしたくないのだ」
「今日は他にもありますからそれをお召し上がりになればよろしいでしょう」
 その真っ赤な実を切りながら、オスカーはタニスが貴族なのだという事を改めて思い知った。オスカーの幼少時、短い期間だがクリミア王宮騎士団に属していた頃、傭兵団に入ってから今まで、振り返れば経済的に豊かであったという記憶がない。その日の食い扶持すら満足に得られなかった時期もあった。食物を選り好みするという観念がオスカーには全くなかったのである。また、傭兵団に入って間もない頃、幼いアイクが夕食時、嫌いな野菜を床にそっと捨てたのを発見され、皆の前で父親に顔の形が変わるまで殴られていたのが今でも鮮明に記憶に残っている。それ以来偏食気味だったボーレもそれが治り、ヨファなどはふとした拍子に食べ物を床に落としたのを見ただけでも反射的に恐怖に怯えるようになった。
 その言葉を最後に、二人は黙り込む。オスカーは手際よくトマトを切り、タニスは分厚い皮を床に落としている。鍋の煮える音とまな板の音だけが聞こえていた。
「今日は聖者の日でしたね」
 ふと、思い出した様にオスカーが口を開いた。あの後ケビン達に何が動きはあっただろうか。 
「ん、うむ。そうだったな」
「贈り物をするという部分がクリミアでは強調されていましてね。私も、去年まではミストと一緒に焼き菓子を焼いていたのですよ」
「そうか」
 そう言うとタニスは口を噤んだが、やがてゆっくりと吐き出すように言った。
「毎年天馬騎士団の部下たちから甘ったるい菓子が届く。以前律儀に食していたら身体を壊した」
 砂糖は高級品である。オスカーの様な身分の物ではまず口にはできない。軍の若い娘に請われて焼き菓子を教えた事があるが、当然甘くはない。それを身体を壊すほどの量を食せるとは、手オスカーとは別の世界であった。
「だから近年は断っているのだ。だが、あいつらはあらゆる手を使って押し付けて来る……!執務室の机の上、訓練用の槍の先に括り付けられていた事もあった」
 苦々しい記憶を淡々と語る声、そしてジャガイモを持つ手は震えていた。
「タニス殿、その様に強く握られては……滑りますよ」
「去年など、わたしの天馬の口に包みごと押し込められていたのだ!」
 何かが潰れる音がして、オスカーは恐る恐るその方向に眼をやる。タニスの手の中のジャガイモが砕け、水を滴らせながら調理台へぼとぼとと落ちる。切る手間が省けた、そう思っておこう。
「ところで、タニス殿の方は誰かに差し上げた事はあるのですか?」
 不揃いのジャガイモを鍋の中に放り込みながらオスカーは言った。その問いにタニスは渋い顔をさらに強めた。オスカーはそれを見やると、頷いて数個目のトマトに手をかけた。彼女らしい答えだと思った。赤い半月が形良く並べられると、オスカーはタニスの方を向きその唇を塞いだ。
「んっ―――!」
 急の出来事に、タニスは眼を見開いて立ちすくむしかなかった。新しく剥こうと手に取っていたジャガイモが、ごろんと鳴って床に転がった。俯いて口に手を当てる。酸味が口の中に広がった。初めに甘いと思ったのは錯角か。
「たまにはいいものでしょう?トマトも」
 そう言ってトマトの切れ端をひらひらと見せる。そのオスカーの顔は、限り無く意地の悪いものに見えた。


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