キミは葉がら



 夜になれば、凍りつくような風が舞い戻ってきた。就寝用天幕の中では、肩を寄せ合うように小さなカンテラを囲んでいる。
「雪が降りそうだな」
 僅かな灯に照らされた文字から目を離し、何も見えぬ外の世界に目をやりながらぽつりと呟いた。
「うえ、まじかよ」
 寒いのは苦手だ。とこぼす。毛布はすでに二重に羽織っていた。それでも、眠る事はせずに酒瓶を傾けている。二人のいる天幕の前を、何人の兵士が通り過ぎただろう。足音と共に、他愛のない話が耳に入ってくる。やはり今日がベオクにとって少しだけ特別だという事も。
「なあ、ウルキ。知ってたか、今日が聖なんたらの日って」
「聖なんたらは知らんが、ベオクの司祭が処刑された日なのに、何故かベオクが喜んで物を贈り合ってるという日なのは知ってる」
 本から目を離さずに、ウルキは答えた。最近、彼は時間さえあれば本を読んでいる。元々文字は読めるのだが、軍内にて親しくなったベオクから勧められたらしい。それ以来、寡黙さに拍車がかかったように見えた。
「だよな。なんで上手く伝わんなかったかなあ……」
 乾いた紙がめくれる音が、相槌のようだった。しばらくは、その音と獣脂がちりちりと焦げる音だけが天幕内に響く。ウルキが耳をぴくぴくと動かしているのをぼんやりと眺めながら酒瓶を傾ける。突然ウルキが口を開いた。
「男に生まれとて女に生まれとて、かなさねんむやただの葉がら」
「は?」
 妙な言葉に首をかしげる。それでも、ウルキは視線を本から外さずに言葉を続けた。
「ベオクの詩だ―――私はこれを返しに行って来る」
 おもむろにそう言うと、ウルキは立ち上った。
「お、おい……」
 夜目を心配したが、それも無用なほどの歩きだった。一人酒は寂しいが、この寒さと闇では外へ出るのも気も削がれる。大人しく一人で飲もうと毛布を頭から被り直したが、天幕の帆布越しに聞こえる声に、それを勢い良く取り放った。
 自慢の千里眼は、夜の闇では無力だった。だが、その姿は月明かりがなくとも、身に纏う空気ではっきりとわかる。
「今朝は、素晴らしい物をありがとうございました」
 悠然とした笑みを見せ、軽く頭が下げられる。返答を濁していると、「その、お返しです」と目の前に差し出された。天幕からのわずかな光が、それがガラスの瓶だと示した。
 ぼんやりとした輪郭と、その瓶を交互に見た。常日頃から誘っているが、年を理由に今まで断られて来たのに。
「今日だけですよ」
 気恥ずかしさと呆れが混ざった声が、天幕の奥深くへ届いた。



 一体、あの人はどこへ行ったのだろうか。
 太陽もすっかり西の地へ沈み、月も雲に隠れてしまっている。マーシャは小走りに天幕が立ち並ぶ中を探し回っていた。しかし、昼近くに厩舎で彼を見かけてから、一度もその姿を見ていない。今更になって、渡しそびれた事を後悔していた。
 思えば、今年ほど誰かに贈りたい思った事などあっただろうか。白い息を吐きながら、マーシャは以前の自分を振り返る。ベグニオンの聖天馬騎士団に所属していた頃は、ただ何となく同僚に合わせていた。別部隊の少女に頼まれて、代理で渡した事もある。その時はつい悪戯心を出して、目的の人物の天馬の口に噛ませてしまったが。
 すっかり夜も更けてしまったが、天幕の至る所で明かりが漏れ、笑い声が聞こえる。寒さの中、外を往来する者も少なくはなかった。
 マーシャは、すれ違う兵士達が自分へ含み笑いを向けられているのに気付く。このクリミア軍に、天馬騎士は三人しかいない。マーシャの存在は、自然と目立っていた。そのせいであろうと片付けていたが、一人の面識のない男に声をかけられた。
「あんただろ、マーシャって」
 口を開いた途端に、この男が酒を飲んでいた事が匂いでわかった。そのせいか、それとも寒さのせいか、男は赤くなった頬を歪ませるような笑みを見せている。
「な、何ですか……」
 体を強張らせていると、男はにやついたまま天幕が立ち並ぶ方向へ親指を立てる。
「いや、赤毛の兄ちゃんがしきりにあんたの名前を叫んでたからよ」
 血の気が引いて行く感覚がした。無我夢中で、男の親指の方角へ駆け出した。「若いのはいいね」という男の声がどうでも良くなるほど、マーシャの心中は羞恥に支配されていた。

 正確には、彼はマーシャの名を叫んではいなかった。ただ、人一倍大きな声でマーシャの居場所を訊いていたのだ。その現場を目の当たりにして、マーシャは、安心して良いものかどうか迷ったが。だがそれは、後悔の始まりだった。
「おお、マーシャ殿ではないか!」
 良く響く感嘆の声を皮切りに、二人は周囲の歓声に包まれた。半ば祭りのような騒ぎにマーシャの頬は引きつる。
「ケ、ケビンさん……」
 退く事もかなわず、マーシャはケビンの方へ歩み寄る。一歩一歩近付くたびに、野次馬の荒い息が耳に障った。外套越しに、隠しの中の包みに手を置く。
「マーシャ殿、探したぞ」
「はい、わたしも……」
 小さな返答は、白い息とともに闇夜に消えて行く。きまりの悪そうに周囲を見ても、目の前の騎士は移動するそぶりを全く見せなかった。
「昼間、街まで行っていたのだ。オスカーの奴が行けとうるさいのでな」
 白い息を吐き散らすケビンに力なく返事をする。今日が何の日かを知り、その上で自分を探してくれていた事は嬉しかった。しかし、この状況では素直に喜べない。
「それで街へ行ってみたのだ。そしたら、街の露店に天馬の彫刻を見つけてな」
 ケビンの顔はまるで何かを勝ち取ったように満ちていた。飛び交うからかいの声は極力耳に入れないようにし、マーシャは胸を張るケビンをじっと見上げた。
「それで思い出したのだ。マーシャ殿、以前から貴殿に言いたい事があったのだ」
「は、はいっ」
 飛び上がるように体を直立させる。まさか、ここまで儀式ががるとは想像もつかなかった。緊張で息が詰まる。


「これからの戦いの為に、一度貴殿と手合わせ願いたい」

 
 一斉に歓声が巻き上がる。だが、その言葉の意味をようやく飲み込めた者から、その声は小さくなって行った。確認するかのように、お互いを見合う。マーシャも、ぽかんと口を開けてしきりにまばたいていた。このしんと静まり返った環境に、気付いてるのかそうでないのか、ケビンは得意気に言葉を続ける。
「以前から願い出ようとしてすっかり忘れていたのだ。街まで行ったお陰で思い出す事ができた。オスカーに感謝せねばな」
「それは、良かったです、ね……」
 搾り出すように出した声は掠れていた。緊張の糸が、何とも酷い刃物で切れたような感覚だった。
 ただひたすら引きつった顔をするマーシャと、満面の笑みで胸を張るケビンの周囲には、すでに人だかりは消えていた。



 この軍に入り、ベオクと接するようになってから、ウルキは己の耳をに不自由を感じるようになった。千里先の音が聞こえなくなったからではない、むしろそれが障害になる時があるからだ。
 ウルキの天幕では、相棒の待ち人の足音を察して思わず外へ出てしまった。それは良いが、口実となった本の返却先の天幕へ向かおうとした時、数百歩手前でウルキは踵を返した。これ以上足を踏み入れてはならないと感じた。
 しかし、元の天幕へも戻り難い。点在する松明の明かりを頼りに、ウルキは視線をさ迷わせる。宿営地の裏手の木の下で、楽しそうな笑い声が聞こえた。目よりも先に、耳が情報を伝えるのは長年の習慣だった。
「おオ、ウルキじゃナいか!」
 足を運ぶと、案の定懇意にしている仲間達が揃っていた。寒空の下、各々焚き火を囲んで甘そうな菓子を手にしている。ウルキは、その量と一人の人物に目を見張った。
「リュシオン王子まで……」
「ウルキか。なかなかいけるぞ」
 鷺の王子の手には焼き菓子があった。ただ、彼は焼き菓子ではなく、その中に入れられた木の実を神経質に取っては食べている。良く見れば、リュシオンの足元には穴の開いた菓子がいくつも転がっていた。
 重く沈んだ顔をして座っている青年剣士を横目に、ウルキも焚き火を前にして腰掛ける。ひたすら焼き菓子と砂糖菓子に没頭していた少女が、紫の髪をゆすって顔を上げた。
「この日は、お菓子がたくさん頂けるので、素晴らしい日です……」
 そうか、と頷くしかなかった。彼女の周囲に、包み紙や箱が無数に散らばっていた。その中の一つが、また細い指につかまれる。開封されると思いきや、すい、とウルキの前に差し出された。
「さあどうぞ。あなたの聖者(バレンチノ)より」


08/02/221へTOP