キミは葉がら



 街はこの寒さにも関わらず、にぎわいを見せていた。溶け残った雪と土が入り混じり、その上を歩く者達の靴を汚して行く。マーシャは、冷え切った髪を揺らして空を仰いだ。分厚い雲に覆われているが、やがて太陽が顔を出すだろう。
 その視界に、女神アスタルテの聖印が入った。軒下に吊るされたそれに、その季節がやって来たのだとマーシャは年季の入った聖印に見入る。思い返せば、ベグニオンの聖天馬騎士団を抜け出してから、息つく暇もなかった。こうして、毎年のように同年代の少女達と盛り上がっていたこの行事も、すっかり忘れ去っていたのだ。
 随分と遠くへ来てしまった気がしたと、改めて感じた。ベグニオンが誇る聖天馬騎士団に所属していたとは言え、これほど大きな戦争は初めてである。長期間国を離れている事も。

 大通りの人ごみの中に、見知った顔を見かけた。彼女も束の間の駐留地にて買い物に来ているのだろう。店に並べられている商品をぼんやりと見つめている。いつもは明るいその面立ちが、少し翳っているように映った。
「ミスト」
 名を呼ぶと、彼女―――ミストはびくりと一瞬体を強張らせる。声の主がマーシャだと気付くと、普段の朗らかな笑みをたたえた。
「マーシャも買い物に来たの?」
「うん、ミストも?」
 そう問うと、ミストはうなずく。マーシャは、店先に並んでいる物とミストの顔を交互に見て、にんまりと口の端を上げた。
「そっか、今日は『聖者の日』だもんね」
 マーシャの言に、ミストは困ったような、照れたような影を落とす。本人からは決して口にはしないが、このクリミア軍の将軍の妹の想い人をマーシャは知っていた。マーシャが傭兵団に入った頃から、彼女はその人物と所構わず喧嘩していたので、気付かない方がおかしいというものだ。
「ねえ、マーシャは―――」

 ―――マーシャは、誰かにあげないの?

 ミストの声と、マーシャの記憶の中の、同僚だった天馬騎士の言葉が重なる。同時に、燃えるような赤い髪の騎士の顔が同時に浮かび上がった。
「えっと、わたしは……」
 マーシャは言葉を紡ぐのを躊躇う。彼とは、共にいる時間は短くはないが、ミスト達とは程遠い関係だと自覚している。そもそも、あの騎士に恋愛感情という存在があるのかも疑問だった。今日、この日に贈り物をしてもその意味に気付いてくれるだろうか。
「じゃあさ、一緒に選ばない?」
 恥ずかしそうにマーシャを誘う姿は、同性の目から見ても微笑ましいものだった。二つ返事でそれに同意する。常に近くにいては、些細な事で喧嘩する。そんな二人をマーシャは羨望の眼差しで見ていた。今日だけは仲睦まじく過ごせるだろうと願う。
 もしかしたら、彼も気付いてくれるかもしれない。目に見えなくても、僅かながらに変化があるかもしれない。
 そんな淡い期待を込めて、マーシャは小物屋の扉をくぐった。


 


「よっ、エリンシア姫の側近さん」
 軍議用の天幕を出たルキノが振り返った先には、片手を挙げたタカの民の姿があった。上空からふわりと降下しかたと思うと、薄い茶色の羽を小刻みに羽ばたかせている。
「ヤナフ殿。ごきげんよう」
 フェニキス王の腹心であり、クリミアの友軍である小柄なタカの民にルキノは頭を深く下げる。
「ん、まあな。これやるよ」
 ベオクの流儀だと言う恭しい挨拶に首筋を摩りながら、ヤナフはルキノに包みを手渡した。受け取ったルキノは、その柔らかい感触に首を傾げる。
「ま、開けてみなよ」
 普段は快活な少年ではあるが、歯の奥に物が挟まったようなはっきりしない態度を怪訝に思う。それでも、ルキノは言われるままに包みを開けた。そこから、見た事もないような鮮やかな色をした織物が姿を現した。その織物を凝視するルキノの顔を、ヤナフは得意げに覗き込む。
「すげぇだろ?ベオクの国じゃまず拝めない代物だぜ」
「ええ。本当に、大変素晴らしい物です。でもどうして?」
「えっ……だって、今日は……ベオクの風習なんだろ?男から女へ贈り物をするっていう」
 それは時折襲っていたベグニオンの商船の「戦利品」から知り得た事だった。そしてつい先日、野営地でベグニオン人らしき兵士が話していたのを聞いて、今日のこの日を思い出したのだ。
 だが、それでもルキノは分からない、といった表情で瞬きしていた。確か、戦利品の中に添えられていた手紙には女を口説く文章が何通もあった、と文字を読める同胞が言っていた。それが間違いだったのか。
「ま、まあ、友好の印として受け取ってくれよ。折角フェニキスから取り寄せたんだ」
 その言葉に、ルキノの顔に明るさが蘇る。
「それならば喜んで。ありがとうございます。今は戦いの時ですが、クリミアを奪還した後、クリミアから正式に返礼の品を贈らせて頂きます。フェニキス王にはそうお伝え下さい」
「そういう意味じゃなくて……」
「では失礼します」
 ルキノは織物を丁寧に包み直すと、一礼して天幕の立ち並ぶ方へ消えて行った。
「―――もっとハッキリと言うべきだったか……」
 柄になく慎重にな自分に眉根を寄せながら、ルキノの背中を見送った。無理してベオクの風習に倣う姿も客観的に思えば滑稽で、思わず自嘲じみた笑みが漏らした。
「ま、酒も飲めない子どもには早かったって事かな」
 ぽつりと呟くと、ルキノとは反対の方向へ飛び立った。




 雪を溶かした陽は薄い色の空に昇り、地上を照らしていた。薄暗い雲は去り、太陽がその全貌を現して、柔らかい空気を醸し出していたのだが。
「キルロイさん、調子はどう?」
「うん、大分良くなったみたいだよ……」
 天幕内にて横になるキルロイに、ワユの心配そうな声が降りかかる。穏やかな気候は、ここ数日の寒さで体調を悪くしていたキルロイにとって救われたはずであった。いや、実際につい先刻まではキルロイは調子が良かった。ワユに会うまでは。
 ワユの手が、キルロイの額に置かれる。それだけで、身体が燃え上がるような感覚になる。キルロイは行き場のない視線を天幕の梁へと持って行く。
「まだ少し熱があるみたいだね……ごめん、本当に……」
 珍しく酷く沈んだ様子で、ワユは膝元に置いてある小さな包みに目をやった。キルロイもつられてそれを追う。油紙にうっすらと日光が差し、狐色に焼けた菓子が透けて見えた。その程よい焼き加減だけ見れば、何の疑問もなく口にした事は誰にも責められないだろう。屈託のない笑顔で渡されれば、なおさらだ。
 熱は治まりつつあるが、しばらくは起き上がるのも苦労するだろう。あのオスカーに習ったと言う焼き菓子が、どのような過程でこのような結果をもたらす物になったのかは、キルロイには想像が及ばない。キルロイはちらりと心配そうに己の顔を覗き込むワユを見た。長い睫毛が影を落として、それが彼女が改めて「女」なのだと意識させた。
 こうして傍にいて看病してくれているのだ。もしかしたらこれが、「聖者の日」の女神の思し召しかもしれない。そう考えがたどり着くと、これも悪くはないと心の中で呟いた。落ち込むワユには悪いとは思うが。
 にやつきそうになるのを隠すように、キルロイは毛布を口元まで覆った。



 
 訓練場に、彼はいなかった。予想していたもう一ケ所に向かうと、それはぴたりと当たった。周りには彼以外誰もいない。(馬はいるが)これを好機と言わず何と言おうか。
「おう、いい食いっぷりだ!!どんどん食えよ!」
 標的は大口を開けて笑いながら愛馬の鼻を撫でていた。当の愛馬は、くすぐったそうに首を左右に振っている。
「この前は凄かったな!おれの投げた斧をお前が口で受け止める!おれは手にしていたもう一つの斧で敵を倒す!これが確実にできれば新たな戦法になるぞ。生憎軍師どのには受け入れてもらえなかったがな、まずおれ達が実証すればいいんだ。それを食ったら訓練再開だ!!」
 
 またこの人は……

 呆れながらも、余りにも彼らしい発想に思わず笑みが漏れる。だが、その彼の口から自分の名前が出た途端、息が詰まる思いがした。
「覚えているか?マーシャ殿の天馬が羽根を負傷して飛べなくなった時、おれが天馬を担いでマーシャ殿がお前の手綱を取った時を」
 忌まわしい記憶を呼び覚まされ、マーシャの方頬が引きつった。あれは今思い出しても恥ずかしい出来事だった。訳もわからないまま彼の馬へ乗せられ、彼は乗馬したまま天馬を担ぎ上げ、その姿で戦闘を再開したのだ。それだけでも羞恥で心身ともに疲弊していたのにも関わらず、彼はその状態で本陣へ帰還すると言い出したのだ。本陣にて笑いの渦の中心だったひと時と、タニスの引きつった笑みは今でも忘れられない。
 マーシャはその回想を振り切るように頭を振った。そもそも本来の目的があるのだ。暗い思い出に足を引っ張られる訳にはいかない。意を決して赤い鎧の背中へと近付こうとしたが、勢いの良い声にその足を留められる。
「それでな、そのマーシャ殿に―――」
 自分に何があるのか。
 その続きを聞きたくて、足を止めた。
「っと、オスカーではないか!」
 しかし、続く言葉の最初の音と同時に、乾いた土を踏む音が重なった。彼の意識は、すぐさまその音の主へと向けられる。マーシャは二人に気付かれぬように小さく溜息をつく。全身から力が抜けて行くようだった。マーシャは厩を後にする。まだ陽は高い。渡せる時はきっと来る。そう自分に言い聞かせながら、そっと踵を返して天幕の並ぶ宿営地へと戻って行った。



 平地には厩舎として簡易な小屋が設置されている。その裏手の雑木林に、オスカーはちらりと目をやった。そこから駆けて行くように去る少女の足音は、しっかりとオスカーの耳には届いていた。
「邪魔だったかな……」
 偶然とは言え、罪悪感が胸に残る。
「何をぶつぶつ言っているのだ?」
 怪訝そうな声でこちらを見る騎士に視線を戻した。彼が、マーシャの存在に気付いていなかった事は容易に想像できた。
「いや何も。ところでケビン。今日は何かもらえたかい?」
 唐突な話題に、ケビンは口を噤んだ。全く意味がわからない。その顔はそう告げていた。
 数百年の昔、デインでは民衆の婚姻を制限していた時代があった。それを嘆いた当時の司祭が、女神の下に交わされた愛の誓いは尊いものだと訴え続け、獄中でもその愛をとき続けた為に処刑されたという。それが今日だった。この日は後年美談としてデインからベグニオンにて流行し、ややあってクリミアへと伝わった。他の二国より祝い方は小規模ではあるが、毎年この季節になれば、商店がにぎわうものだった。
 この男は、知らないのか。それともただ忘れているだけなのか。
「今日は進軍はしないし、ちょっと街にでも行ってみたらどうかな」
 自分から気付いた方が効果的だろう。もしかしたら、この二人の間が何か変わるかもしれない。希薄な期待を込めた言葉を残すと、オスカーは飼葉を取りに厩舎の隅へ足を繰り出した。その背中越しに、土を蹴る音を聞きながら。


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