きみのための子守歌

1

  わずかな篝火と、体から立ち上る熱気で、傭兵団の訓練場は凍りついた空気が幾分か和らいでいた。それでも冬の闇は、張り詰めるような寒さをもたらしている。
 そんな冷たい空気の中を、途切れ途切れだが、柔らかい歌声が流れているのを感じたボーレは、斧を振る手を止めた。自然と砦の窓から漏れる明かりに顔を向ける。見たくもないはずなのに、無意識に探してしまう。
 きっと夕餉の後片付けをしているのだろう―――内側のカーテンが揺れ、再び明るい歌声が耳に入ると、己の無意識の内の行動と思考を打ち消すように頭を振る。ボーレは深く溜息をついて斧の柄を握り直した。
 訓練用の斧が勢いをつけて唸る。腕に無駄な力が入ってるのが自分でもわかった。そして、自分がひどく苛立っている事も。

 あんな事、喧嘩の内に入らない。
 わかっているはずだった。窓から漏れる、いつもの調子の歌声も、そう言っているではないか。
 振り切ったはずの雑念は、脳裏に残っていた。頭に上る血を抑えようと斧を振るも、あの優しい旋律も、逆に苛立ちは増して行くばかりだった。ひたすらひんやりとした空気を切り裂いているが、腕ばかりに力が入っているせいだろう、体を支える力が疎かになり、ボーレは大きくふらついてしまった。勢いついた丸い刃先が地面と接触する。


 鈍い音がして、ボーレの腕に痛みと痺れが走った。反射的にボーレの手が斧の柄から外れ、からんと乾いた音がした。
「くっ―――」
 食いしばった歯から小さな呻き声が漏れる。
「何やってんのよ」
 背後からする声に、ボーレは咄嗟に立ち上がる。振り向いても、ボーレは返す言葉がなかった。みっともない上に、それをミストに見られてしまったのだ。その恥ずかしさがボーレの胸中を瞬時に染めていた。
「な、何の用だよ」
 ようやく搾り出した言葉に僅かに後悔ながら視線を泳がせる。その視界に、ミストの持っていた縄と鋏を差し出しされる。
「ボーレの服。寒くなったから袖がある物も作ろうと思って」
「必要ねぇよ」
 吐き捨てるように言うと、ボーレはミストに背を向け、斧に手を伸ばす。
「寒いでしょ」
「体動かしゃ平気だ」
「風邪ひくよ。ここの所大分冷えてきたし。もうすぐ雪が降るかもしれない」
 幾ら不要だと答えても、ミストは食い下がって来る。これ以上反論するのが面倒になり、観念してボーレは体を差し出す事にした。そのまま背中をミストに向ける。冷えた汗が染込んだ服の上から、ミストの手を感じた。「また大きくなってるかも」と、呟く声が聞こえた。
「悪いかよ」
「別に。お兄ちゃんもそうだったし」
 そう答えたミストの声は、硬く感じられた。ひと月近く経つが、相変わらずだとボーレは内心で肩を竦める。
「何だ、また寂しくなってきたのか」
「違っ……」
 勢い良く返された言葉が、そうでないのを示していた。彼女の兄アイクが傭兵団を発ってから、生気を失ったような姿を思い出す。突然、背中に鋭い痛みが走った。
「って……何すんだよ!」
 背中を押さえながら振り向いた瞬間、ボーレは戦いた。ミストが、鋏を握り締めて睨みつけている。
「危ねえな」
「ボーレ今笑ってたでしょ?」
 その言葉に眉根を寄せる。笑っていただなんて、心外だった。そんな事、一度もなかった。ミストの兄が旅立ち、ひどく落ち込んでいたミストに、逆にボーレも胸を痛めていた。だが、決して慰めはしなかった。時が解決してくれる事をひたすら願っていた。
「ガキじゃあるまいし、いつまでも落ち込んでる方が悪いんだろうが」
 言い訳するのも面倒だとばかりにボーレは吐き捨てる。
「最低!さっきの事だって謝んないし!」
 お前もさっきまで、何事もないような態度だったじゃねえか。
 勢いで言おうとした言葉を喉で留める。ミストの目には涙が溜まっていたのを見たからだ。
「お、おい……」
 うろたえるボーレを再び睨みつけると、ミストは踵を返して走り去った。一人になった訓練場に夜風が吹きすそれでも、ボーレは汗が冷えた体もそのままに、立ちすくんだままでいた。
 あの涙は何なのか。それがわからない自分を責めながら、ミストが駆けて行った先をぼんやりと見つめていた。



 グレイル傭兵団は現在でも、ならず者退治や商隊の護衛など小規模な仕事を請け負っている。団長アイクが旅立った今でも、ティアマトの意向で傭兵団の運営方針は変わらなかった。テリウスの国々が大きく変わろうとしている今、国同士の小競り合いは激減し、各国が国内の安定に力を入れているのもその一因だった。そして今日も、シノンが揶揄する所の「草の根活動」に精を出す。
「くそぅ、何でおれが……」
 ボーレはそう呟かずにはいられなかった。陽は高くあるはずが、それでも薄暗い樹海を一人歩く。遥か前方を歩く仲間達はもう見えなくなっていた。湿った土から、所々に隆起している根が、荷車の車輪を狂わせていた。がたがたと音を立てるたび、荷車の弾くボーレにその振動が伝わる。これを馬が嫌がるという理由で、ボーレが荷車を引く事になってしまった。囮役のボーレただ一人、依頼人である商隊を守っている本隊よりもさらに後方を歩いているのであった。
 真冬にも関わらず、蒸した空気に覆われている。額から汗が滲んできた。溜息は、これで何回目だろう。しかし、それでも湿度の高い空気のように纏わりつく視線には注意を払っていた。抑えても隠し切れない殺意が、ボーレの全身に突き刺さるように向けられていた。囮とは言え、本心から来る不満を大げさに殺意の発信者に表していた。
 乾いた金属の音がした。それに気付いたと同時に、ボーレの体が、正確にはボーレが引いている荷車が大きく揺れた。何度も荷車の柄を押すが、荷車は地面に貼り付いたように動かない。右側の車輪に目を向けると、獣にかける罠が、隆起した根に隠れて設置されていた。
「しまった……!」
 気配は感じていたものの、どこかに慢心があったのだろう。突然の罠にうろたえ、その間に囲まれてしまった。汚いマントを頭から被った怪しげな男達を睨みながら、ボーレは舌打ちする。四人。何とか相手にできない訳ではないが、これも作戦の内。しかも、驚くほどに予定通りだった。首に下げておいた呼び笛に手をかける。だが、吹く寸前に聞こえた蹄の音に、びくりと体を強張らせる。
 目を疑った。駆けて来たのはミスト単騎。ただでさえ不安定な足場に、騎馬兵、しかも護身用の剣しか振るえないのでは、兵力足り得ない。しかも、一番危険に晒したくない相手なのだ。
 危惧していた通り、男達は瞬時に標的を変えた。
「させるかよ!」
 我に返り、荷台に乗せていた弩を構える。連射した矢は二人の男の肩に命中した。短い呻き声を上げて倒れる。敵一行の動きに動揺が現れた。すぐに持ち替えた斧で残りの二人をなぎ払う。あっけない程の収束に、半ば唖然としていた。しかし、肩で大きく息を吐くとすぐにミストの下へ駆け寄った。
「お前……、何で!」
 一息つくと、ボーレは馬上のミストに怒鳴りつけた。元よりこれが作戦であるのに、これでミストに何かあったらどうなっていたのか。ボーレの中で、嫌悪感が溢れ出るのがわかった。だが、ミストはそんなボーレに構わずに口を開く。
「本隊の方も、敵襲に遭って……!」
 急いで馬の嫌がる道を駆けて来たせいか、ボーレが敵に囲まれていた現場を目の当たりにしたせいか、ミストの声は震えていた。
「どれくらいだ?」
 震えた声でミストは続ける。ティアマトから聞いた説明よりも遥かに多勢な数だった。よくよく意識を本隊の方角へ向けると、木々のざわめきや獣の声に混ざり、鉄がぶつかる音が聞こえた。ボーレの体に緊張が走る。
「加勢するぞ」
 他の団員の事だ。先刻戦った程度の賊ならば、何人いようが敵ではないはずだ。だが、予定と違えば不安も芽を出す。ボーレは愛用の武器を握り直し、ミストに案内するよう促した。逸る体を薄暗い道へ向けた瞬間、踏み込んだ足が何かに掴まれた。瞬く間に視界が急に逆転する。自分の名を叫ぶミストと、樹冠から次々と飛び降りてくる野盗達の姿も逆さまに見えた。
「逃げろ、逃げろ!ミスト、逃げろ!」
 混乱した頭で叫ぶ。だが、その叫びも虚しく、ミストの体は馬から引き摺り下ろされた。
「畜生、畜生……!」
 必死の思いで体を揺さぶるも、ボーレを嘲笑うかのように荒縄が軋む音がするだけだった。
 なぜミストを守れないのか。守り切る事ができないのか。その怒りに飲み込まれて行くも、ボーレにはどうする事もできなかった。