旅の終わり



 久しぶりに、暖かい食事にありつけた。
 ひしめくような男たちの体温と酒臭い息も、冷え切った身体には、よく干された毛布と同等に思えた。周囲から時折投げかけられる揶揄と口笛も、部屋を暖める要素にしか感じない。
 やがて厨房から、十にも満たない小さな給仕がテーブルに近付いてきた。一見おぼつかない足取りに見えるも、すいと背を伸ばしても椀のスープを波立たせはしなかった。濡れている小さな手のひらにコインを一枚乗せると、幼い給仕に目もくれずにスプーンを取った。あの子供よりももっと年の小さな子が、重労働を強いられている様も、覚え切れないほど見ている。

 大きく切られた野菜が浮かぶスープをひと匙すくった瞬間、背後でがたんと音がした。仕事帰りの男たちや旅人がこぞって集まる場所では、多少の喧騒などは景色の一部だ。その音を鼓膜に響かせながらも、意識は匙の上の冬瓜にあった。だが、それを口に入れる前に近付く気配と声が影のように覆いかぶさった。

「なあ、あんた」
 しかし、それに反応を見せずに、悠々と冬瓜とスープを口に入れる。こんな男くさい場所に、女ひとりで座れば、その器量がどうであろうと自然と目立つ。いや、器量には自信がある方だ。遠巻きにひやかされるのも、こうして直に声をかけられるのも慣れている。そのすべてに対応していれば、馬鹿を見るのはこちらの方だ。長旅の経験上、それは身体に染み付いていた。

 粗方空腹を満たし、冷えた体温も室温と同化してきた頃に、ようやく視線を男に向けた。スープを食している間も、彼は構わずに声をかけ続けていた。他の男と違って声を怒りに染めたり、諦めて背を向けたりはしなかった。
 視線が合うと、丸い目を輝かせて、男は正面の椅子に座る。薄手の木綿の服は粗末なもので、その下の隆々とした筋肉が窮屈そうにしていた。

「あんた、ここで働いているのかい?」
 スープで温まった口を開けば、白い息が漏れる。男に声をかけたのは、気まぐれだった。
「ああ、でもあんたは木こりや石切りにゃ見えねえな。あ、飯炊きに来たのか」
 言葉を発するごとに、男は大仰に腕を振ったり身体をゆすったりしていた。これは随分と田舎者だね。そう胸中で呟いた。
「いいや。あたしは旅の途中でここへ寄っただけさ」
「そうかい」
 男はうなずくと、頼んでもいないのに自分の話を矢継ぎ早に話し始めた。それに細い顎を手のひらに乗せ、適当にうなずく。男はそんな態度にも満足げに口の端を上げていた。傍から見れば、相手の女が彼をどう思っているかなど、ひと目でわかるのだが。彼だけは満面の笑みで女に語り続けていた。
 
 いつも通りに適当に流し、去ればいいのに。
 そう脳裏が告げるも、気まぐれが椅子に腰を落ち着かせていた。長い徒歩の末、闇の中ようやく辿り着いた宿だからという理由を見つけ、ほっと息をつく。

「そうだ。あんたの名前聞いてなかったな」
 大方喋りに満足したのか、男は急にそう切り出した。そう、これは気まぐれ。旅立てば、すぐに切れてしまう縁だ。それに、子供のように目を輝かせて、男は発せられる名を待っている。それに、応えずにはいられなかった。だから、口を開いてしまうのだ。
「カリル」
 紅で縁取られた唇は、短く名を告げた。
「そうか。おれはラルゴっつうんだ。今日からトモダチだ。よろしくな」
 細い手は、分厚い手のひら力一杯くるまれた。痛いよ、と非難の声をあげると、すまん、と豪快な笑い声で返された。

 
 朝露は、未だ森に残り、それが寒さを助長させていた。昨夜のトモダチは、あの長い語りに違わず近くの山林にいた。他の男たちと同様、大きな斧を振り上げ、大木に一撃を浴びせる。カリルの姿を見つけると、その手を止めて大きく手を振った。
「おおい、カリルじゃねえか」
 その大声はよく響き、大杉の先にまで届きそうだった。周囲の作業員らの耳には、言うまでもない。
「おいおい、ラルゴ。おめえ早速引っかけたのかよ」
 卑下た笑いがあちこちで発せられた。それに彼は「そんなんじゃねえよ」と顔を赤らめる。カリルの目には、それがひどく奇妙なものに映った。無論、男たちのからかいの声ではない。
「あんたもここで働くのか?」
「ん、まあね」
 デインとベグニオンの国境をまたぐこの山林にて、両国の出資で開拓事業が行われているらしい。人手が足りないと聞いて、カリルは朝早く現場監督である役人の許へ足を運んだ。旅の魔道士だと告げると、胡散臭いものを見る視線が少しだけ和らぎ、報酬の額が口から提示される。路銀の足しにはなるだろう。
 魔道士の仕事は、作業員の食事作りでも、ましてや伐採でもない。数ヶ月前より集められた小枝や枯葉、掘り返された切り株などは小山となり、カリルの前で佇んでいる。太い幹や枝は他に活用の場があるが、これらは捨てるより他ない。
 斧が幹を打つ音、枝が風に揺られる音、車輪が根とぶつかる音。それに人の声と気配が混ざり合う中、意識は飛び交う精霊へと向けられる。呼びかけた火精たちが次々と集まり、カリルを熱い気で覆う。体中が熱くなる。しかし、ここで集中を途切れさせれば、本当に焼かれてしまうのだ。
 貯めた気を放つように、目の前の小山へ右手を振り下ろす。それと同時に、小枝とその周辺の空気が一気に燃え上がった。周囲から歓声が上がる。

「いやいや、さすが。魔道は違うね。いちいち人手で火を着けてちゃ埒があかない」
 監督という名の見張りの役人が、満面の笑みをカリルに見せた。塵を燃やすのは、修行の一環で、年端もいかない頃からやってきた事だ。ここまで大掛かりなものは初めてだったが。役人の言う通り、これを人の手で火を着けていたら、全てに炎が燃え移るまでかなりの時間と手間を要する。多少の賃金を払ってでも、魔道士に頼んで人員と時間を割くのを避けたいのだろう。
「すげえなっ!あんた魔法使いだったのか!」
 人だかりの中、それを掻き分けるようにラルゴがやってきた。居場所を知らせるかのような大声も一緒だ。
「何だお前は。持ち場へ戻れ」
 現場監督の露骨な嫌悪の顔に目もくれず、ラルゴはカリルの肩をばんと叩いた。
「おれあんなの初めて見たよ。びっくりこいちまった」
「そ、そうかい」
 魔道は珍しいと言えばそうだが、そこまで感動するものなのか。カリルの頭にはそんな疑問が浮かんでいた。目の前の大男は、カリルの一挙一動を新鮮に受け止め、その度に大仰に感動するのだ。返す言葉に困った。


「三ヶ月くらいしたら、また来てくれ」
 廃棄物の小山を全て灰にした時には、太陽は西の地平線をめざしていた。作業場の男たちは、最後の休憩で木陰に腰を下ろしたり、寝そべっていた。
役人に次回の依頼と報酬を渡され、カリルは開拓地を後にした。事業に取り掛かったばかりの頃は、この山を根城にしている山賊やラグズを追い払うため、かなりの人数の傭兵が雇われていたらしい。それも今ではすっかり身を潜めてしまったようだ。
 ひとまずの路銀が懐を暖め、ほんのひと時の止まり木のような宿を立つ。次の場所への地図は、脳裏には描かれていなかった。歩く足取りとともに、ゆっくりと描かれている。
 少ない荷物をまとめ、外套を羽織った背中に、一晩で聞き飽きた大声が投げかけられた。カリルが発つと、どこからか聞きつけたようだ。
「おうい、待ってくれよ!」
 一応トモダチだ。別れの挨拶でもしておくかと振り返る。しかし、彼の粗末な外套を羽織った姿、肉厚の手に提げられた小さな鞄がカリルの顔を強張らせた。
「あんた、どういうつもりだい?」
「おれもあんたに着いて行こうと思ってさ」
 男はけらけらと笑った。その声も大きく、青い空に吸い込まれて行った。
「あたしは魔道の修行の旅なんだ。あんたみたいな魔道のまの字も知らない人間に付いて来られたって」
「荷物持ちでも護衛でも何でもやってやるよ。な、いいだろ?あんたといると、面白い事がたくさんありそうだ」
 そんな事で。
 カリルはその言葉を喉で抑えた。子供よりも子供らしい顔つきで、カリルを見ている。初めて出会った時より、頭が少し弱い男と評していたが、彼はただ純粋なのだ。何かをではなく、求める事自体に夢中と表せば正しいのだろうか。
 カリルはため息をつくと、次の行き先はまったく決まっていないと告げた。トモダチは、それは楽しそうだと、澄み渡った空に笑い声を響かせた。


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