よせよ、あいつは肉食だ



 ぽっかりと空いた心を埋めるように、森は優しく包んでくれた。
 なぜなの、どうしてなの
 初めはただ泣き叫んでいた。そんな娘を森は諭す。ゆっくりと時間をかけて。幼い娘は次第にその言葉の意味を知り、暖かな揺り籠に身を任せるようになった。

 しかし、優しく肩を揺り動かし、目覚めさせたのもまた森だった。その時が来たのだと。
 ぼんやりとしたまま重たい頭を上げる。眠る前のような渦巻く負の気ほどではないが、それでも飲み込まれてしまいそうな深く濃い気が漂っていた。濃い霧に包まれた意識の中、白金の髪が滝のように流れた。それが、眠っていた時間を示していた。
 今まで守るように包んでくれた森の気は、信じ難いほどに微弱になっていた。ありがとう。そう呟いて灰色の土を一歩踏み出す。飛ぶ力までは戻ってはいなかった。
どこへ行こうか、何をすべきか。それすらもわからないままに歩く。だがそれでも、歩かなければならない。そんな気がしていた。



 セリノスの森。ベグニオン領内ありながら、そこはラグズの一族の住む森だった。帝国出身の者なら、そこがどのような意味を持つ森である事など、幼い頃から教えられるまでもなく認識していた。しかし、今アイク達が足を踏み入れている場所は、「女神の祝福を受けた森」という二つ名を持つなど、誰も信じないだろう。

 青々と揺れていたはずの枝葉は生気を失い、落ちた葉は土の上で腐り、しかし土に還る事なく、どろどろとした溜りを作っていた。その腐臭に顔をしかめながら、ベグニオン帝国神使サナキにより依頼を受けたグレイル傭兵団の一行は灰色の森の中を進む。
 元は堂々とそびえ立ち、森の住人達を守り包んできたであろう大木は、朽ちてアイク達の進軍を阻んでいた。最後のベオクへの抵抗のように。
 幾度か上空を飛べる仲間を斥候に遣ったが、立ち枯れの木々と枝は、絡み合い地上の視界を塞ぐ。一行は次第に焦りを濃くしていた。慣れない不気味な環境下での捜索に加え、逃走しながらも激しい抵抗を見せるタナス公爵軍。そして、未だ姿が見えぬセリノスの王子。
 このままだとこちらの消耗の方が早い。一行の中から、そんな意見が交わされるようになった。

 木々が拓けている場所を見つけると、アイクは仲間たちに休息の合図を送った。ほんのわずかに陽の光が差しているせいか、草木は青く色付いていた。長く色褪せた世界を歩いていたからか、森本来の色を見つけただけでも、彼らの胸中に安堵が芽吹く。
「ねえ、お兄ちゃん」
 仲間たちの中で、一際身体の不調を見せていたミストが、もたれていた大木から腰を上げた。アイクを呼んだと言うのに、兄と同じ青い瞳は、アイクの頭の先を捉えている。
 その妹を不審に思いながらも視線の先を振り返ると、木々の影にふわりと白いものが揺れた。考えるより先に、その方角へと足を向ける。
「アイク、今の」
 ナーシルもそれに気付いたらしい。白鷺だ。言葉に出さずとも彼はそうアイクに告げるようにうなずいた。仲間たちも、遅れてアイク達に続く。

 確かに、白い翼を持ったラグズだった。灰色の世界に眩しいほどの羽根は、ゆっくりとした歩みで揺れている。
「待て!」
 そう叫ぶも、アイクはその背中に違和感を育てていた。あれは確かに鷺の民。しかし、アイクの目には、先日タナス公爵邸で見た背格好よりも一回りほど小さく映っていた。鷺の王子は線の細い華奢な青年に思えたが、今歩いているのはどちらかと言えば少女に近い。それに、覚束ない足取りに合わせて踊るように揺れる裾は、女が身に纏うドレスを思わせた。
「待ってくれ、おれの話を……」
 アイクの声が灰色の空を通して届いたのか、白鷺は足を止めてゆっくりと振り向く。先日のアイクを射抜くような氷の視線ではなかった。それと同じ色だが、どこかぼんやりとした大きな瞳が印象的だった。そして、胸中の違和感は正しかった。

「女……王女か」
 ナーシルが呟く。少女は自分を呼んだのがベオクの集団だという事に気付くと、息を飲んだ。恐ろしさで顔と身体を強張らせる。
「待て、おれ達は」
 そう言って一歩近付くも、鷺の少女は恐ろしさか身体を震わせ、白い顔をさらに白くさせる。声にならない悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
「お、おい!」
 慌ててアイクは少女に駆け寄る。半身を起こすように抱きかかえても、少女はぐったりとアイクの腕に身を預けたままだった。ナーシルが歩み寄り、少女の細い手首を取る。少女の肌の白さで、ナーシルの褐色の腕が強くアイクの目に飛び込んだ。
「気絶しているだけだ」
 額にも手をやり、ナーシルは頷いた。彼女の命には別状はない。しかし、実際に目の当たりにし、生の温かみも確認しながらも、この現実が信じ切れなかった。二十年前の惨劇にて、二人を除いて死に絶えたと言われている鷺の民。その生き残りがもう一人いようとは。奇跡だ。ナーシルはそう独りごちた。
 
 目的の王子の行方は未だ知れないが、予想外の発見に仲間たちも動揺を見せる。この足場の悪さと不慣れな地理を、気絶している鷺の少女を連れて戻ろうか。そんな案が浮かび上がった時だった。

「おお、おお、見つけたぞ私の宝!」
 耳にまとわりつくような声が響いた。
 こんな時に。アイクは顔だけを声の主の方角へ上げる。忘れていた疲労が戻ってきたようだった。
「いや、あれは娘か。何ともう一羽白鷺がいたとは!これはきっと女神からの贈り物に違いない!おい、あの娘を傷付けぬように捕らえよ。他の者はどうなろうと構わん」
 タナス公は弛んだ頬を震わせて私兵に叫ぶ。その数にアイクは眉を寄せた。背後で仲間たちの武器を構える音がする。セリノスの森に入った時から、かなりの数の公爵軍と戦ってきた。しかし、今公爵を囲む兵士の数は、目減りしたとは言え、アイク達の人数を上回っている。元老院議員タナス公爵の豊潤な資産と地位の証拠だった。

「アイク、王女は私が」
「いや、それには及ばん」
 気が付けば囲まれていた。今までナーシルは自分の身をかろうじて守っていた。しかし、気絶している娘を連れていては、それも適わないだろう。しかし、二人を守れる戦力も、こちらにはなかった。
 アイクは鷺の少女を抱えている腕を肩へと一気に持ち上げる。
「お兄ちゃん!? 」
 ミストの信じられないと言った悲鳴が上がるも、それに構わずに少女の身体を左肩に乗せる。かかる衝撃は、思ったよりも少なかった。空いた右手で剣を抜く。軽く振り、動きを確かめる。予想以上に動けそうだった。
「問題ない、行くぞ」
 短くそう告げ、鷺の王女を抱えたままアイクは飛び出す。驚愕の声が方々から聞こえたが、誰も止める間もなく、タナス公爵の兵士が目前に迫っていた。



 遠い意識の中でも、身体がふわりと浮き上がったのがわかる。驚く余力は先刻使ってしまったようだ。心は未だ濃い霧の中にいるようで、その無形の隔たりの向こうで、声が聞こえた。

「……アイク、このまま白鷺を背負ったままでは不利です。一度神使の許へ戻りませんか? 」
 少年の声。初めて聞く声だった。
「せっかくタナス公をここまで追い詰めたんだ。倒すなり捕まえるなりしたい」
 今度はすぐそばで別の男の声がした。この声も、兄や他の同族たちのものではなかった。しかし、先刻とは違い、不思議なほどに怖くはなかった。声が身体中に響く。落ち着かせるために、優しく撫でられている気がした。
「では、白鷺は別の者に……」
「大丈夫だ。実を言うと、この娘信じられないくらい軽いんだ―――だいだい、ミストの半分くらいだな」
「うそっ」
 頭のどこかで、たくさんのベオクだという事はわかっていた。しかし、声が耳に届くと同時に、纏う気配も、心の波も伝わってくる。一族の能力の一つだ。それが、長年身を守ってくれた森が囁くよりも教えてくれた。「彼」と「彼ら」は決して悪い者ではないのだと。だから、怖くはないのだ。
 身体を支える大きな手は、兄たちの誰よりも強く、心を支えてくれる。まだ姿も見ていないと言うのに。時折耳に届く声と、支える身体へ向ける気が心地よかった。
「すげえなお前、あの白い子の倍くらい重いなんてな。おれが見たところ、その尻とふとももあたりが怪し―――」
「ば、馬鹿っ!最低!」
 負の気の中に、こうして穏やかな空気を感じられるのが不思議だった。あれほど恐ろしかったベオクなのに、彼らはまるで焼け陥ちる前の、穏やかなセリノスの森にとても似ているのだ。
「あれ?お兄ちゃん、この子笑ってるみたい」


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