よせよ、あいつは肉食だ



 凍りつくような雪の世界で、視界が反転するような気分だった。

「リアーネ姫もご無事だ」
 鷹王の腹心が放ったのは、ネサラの心臓を抉るような矢に似ていた。そのまま空中で身体の均衡を失い、地に落ちてしまいそうな。ネサラはそれを必死で耐え、眩暈を悟られぬよう呟いた。
「リアーネが……生きている……」
 それしか言葉が出なかった。しかし、何か言葉を発さなければ、身体が崩れ落ちてしまいそうで。
 
 あの悲惨な状態から、あのか弱き姫がどうやって生き延びたのかは想像に難い。恐らく、先日急に息吹を取り戻した森と関連があるのだろう。だが、そんな事はどうでもよかった。鷺の姫が生きている。その現実の前では、己が身が白鷺の王子の敵意の矢の前に晒されようが、どうと言う事ではない。贖罪の証に、金で雇われたデインを裏切ろうとも。

 不貞腐れたままではあるが、リュシオンは確かに許すと告げた。
「リアーネを連れてまたキルヴァスへ来てくれよ。ニアルチが喜ぶ」
 にやりと口の端を上げ、雪のように白い翼の背を軽く叩くも、帰ってきたのは、全てを凍らせるような視線だった。

 
 奇跡に等しい事実を聞くも、ネサラにはすぐにそれを確認する暇(いとま)はなかった。ベグニオン帝国の元老院との取引が控えている上、デインを裏切った事による「後処理」という仕事も増えてしまったのだ。恐らくリアーネはフェニキスにて保護されているであろうが、早々に戻る事は叶わない。

「おい、誰か国に戻ってうちの老いぼれに知らせてやれ」
 主よりも鷺を贔屓する老カラスの事だ。涙を流して喜ぶに違いない。引き上げた兵にそう告げ、残ったカラス達とベグニオンへ翼を向けた。
「それにしても……」
 真正面から風を受けながら、ネサラは一人呟く。
「解せないな」
「何がですか? 」
 風に乗って独り言が部下の耳に届いたらしい。兵の一人が翼を進め、ネサラの真横を飛ぶ。
「ティバーンの腰巾着やら、おまけにリュシオンまでニンゲンの軍隊にいる事がだよ」
「探りましょうか」
「いいや、別にいい」
 そう言い放ち、それ以来ネサラは口をつぐんだ。
 あの「ニンゲン」の軍隊が、クリミア王家の生き残りを擁した軍だという事はわかっていた。デインに組した時、嫌でも耳に入れなければならない。だが、フェニキス、リュシオンまでもが参入した話は知らなかった。ベオクにいつか報復を、と日頃から謳って止まない彼らである。
 率いているのは、あの青い髪のニンゲンか。
ネサラは直感で青い髪の少年がクリミア軍の総大将だと見ていた。リュシオンを説得に軍隊へ近付いた時に、間近で合間見えたのだ。フェニキス王の腹心二人も、あの少年とは親しげに接しているように思えた。
「まあ、これ以上は深く関わらんだろうしな」
 ベオクを手助けするとしても、金が絡む仕事しかしない。「祖国奪還」という大層な名文を持つクリミア、しかもフェニキス付きとあればネサラが立ち入る隙もない。となれば、詳細を知っておく必要などなかった。




 しかし、それは間違いだったと、ひと月を過ぎようとした頃に思い知らされる。ベグニオン帝国を相手にした仕事終え、キルヴァスの城へ戻ってすぐの事だった。
「王、フェニキス王が……」
 扉越しに兵の震えた声が聞こえたかと思うと、壊れんばかりに派手な音が響く。その音と、音の主にネサラは顔をおもむろに歪めた。
「お前んとこのお付には伝えていたはずだがな。あの件であいさつに行くとな」
 遠慮なく向けられる鋭い視線にも、鼻を鳴らして返すだけだった。キルヴァスへ戻れば、鷹王から何らかの接触がある。そう予想はついていたが、ここまで荒々しいものにはさすがに閉口していた。
「お前に頼みがある」
 しかし、続いたのは予想外の言葉だった。視線だけをちらりとティバーンに向ける。
「あんたからそんな言葉とは、珍しい。あいさつ代わりの手土産って事か」
「短直に言う。リアーネが攫われた。連れ戻すのに手を貸せ」
「おい」
 ネサラは勢い良くティバーンに向き直り、歩み寄った。今度はネサラがティバーンを睨む番だった。
「ああ、おれの不徳だ。それは認める。それを推してお前の手を借りようってんだ」
「それが人にものを頼む態度かよ」
 いくら睨み付けようが、頭ひとつ以上長身のティバーンは、ネサラを見下ろしたままだった。リアーネを守れなかった不手際を悔いているであろうが、ネサラに頭を下げようとは毛頭思っていない事は明らかだった。不遜な、いや威嚇に近い態度を崩す事なく、ティバーンは言葉を続ける。
「だから手を貸せ。それでリュシオンをニンゲンに売った事は水に流してやる」
「別にあんたに許される謂れはない」
 睨みつけるのを諦め、くるりと踵を返す。しかし、すかさずティバーンに両肩を掴まれた。太い指がネサラの肩に食い込まんばかりに締め付けた。思わず痛みに顔を歪める。
「うちの若い連中が血気盛んにキルヴァスへの制裁を叫んでんだ」
「元々あんたが野放しにしていただけだろ」
 今更ティバーンに言われずとも、その情報はネサラの耳にも届いていた。掴む肩を外そうと節くれ立った手を掴む。だが、それを成そうにも、鷹王の怪力には到底敵わなかった。
「手を貸すんならおれが何とか抑えてやる」
「あのな。あんたがやってる事は頼み事じゃねえ。脅しだ」
「ああ。それでも言う事を聞かせてやる。いいか。連れ去ったのは真っ黒なでかい鎧を着たニンゲンなんだ。そいつを見つけなきゃなんねえ。お前なら知ってるか探し出せるはずだ」
 黒い鎧。その言葉に、ネサラの記憶はすぐに直結する。ネサラの胸中に気付いたのか、ティバーンの力が緩んだ。それを見逃さず、ネサラはすかさず緊縛の手を振り払った。
「ふん、そんな情報だけで探せってか。まったく、骨が折れるぜ」
 怪力から解放され、息を吐く。間を置いてニアルチを呼んだ。老カラスは文字通り飛んで若い主君の許へやって来た。開かれたままの扉の向こうにて、真っ先に視界に映った巨躯に驚きの声を上げる。
「これは、フェニキス王。いつおいでで……」
「こんなのにあいさつはいい。それよりも、やってもらいたい事がある―――」
 ニアルチに振り返り、脳裏に描いた設計図を始動させる。意識には極力入れないと勤めているが、背後の鷹王がずっと肩頬を上げているのが気に入らなかった。

 

 そう言った事情にて、ネサラは深い森を貫くようにそびえ建つ塔を臨んでいた。太陽が西に沈みかけた頃に、ようやく辿り着いた。この塔の存在と場所を知り得るのに、かなりの人脈と金を要した。
「なんて臭いだ」
 近付いた瞬間、とっさに左手で鼻を覆う。話は聞いていたが、予想以上の悪臭だった。その中を、黒い鎧の兵士たちは変わった様子もなく動いているのが見える。こんなにも酷い臭いであるのに、ベオクは感じないらしい。
 ネサラは森の中へ降り立った。これ以上浮遊していれば、警護の竜騎兵に見つかる可能性もある。それに、近付くにつれて強くなるこの妙な臭いは、飛行を困難にさせていた。
「ぼっちゃま」
 老従者と二人のキルヴァス兵がネサラの後に続く。彼らもあの建造物から放たれる臭気に異常なものを感じ取っているようだった。酷い臭気のせいか、涙ぐんでいる者さえいた。
 あれを出せ、と言わんばかりにネサラは右手をニアルチに向かって振り下ろす。老カラスより後ろに控えていた若いカラスが、抱えて来た包みを草の上に置いた。大きな布がするりと解け、西日が反射するのを確認すると、ネサラは纏っている服の襟に指をかけた。
「しかし、本当にやるのでございますか? 」
 心配そうにニアルチが覗き込む。
「こんな場所に翼を生やした身で行ってみろ。生きて戻れる保障はないぞ」
 このグリトネアと呼ばれる塔は、デイン国の罪人の収容所だという事は以前より知っていた。しかし、先日遣った兵の話では、現王の治世になってからはラグズをも連行されるようになったらしい。日増しにラグズの数は増えているという。そして、身も凍えるような獣の雄叫びが近隣の村々にも響き渡るようになったとも。塔を取り囲むデイン兵の数もさることながら、斥候の兵たちは、近付くにつれ身体の不調をきたし、とてもではないが中に入る事は叶わないと告げた。
 肩口の留め金をつけ終え、黒い兜を目深に被る。不安だった翼は何とか痛めずに納まる。圧迫された違和感は残るが。
「それじゃあ、行ってくる。後は頼んだ」
 部下たちにそう告げ、黒い翼をはためかせずに足で地を蹴る。その姿は、誰が見てもデインの兵士だった。


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