5 境界線のない二人

 格式ばった式は、嫌いではなかった。
 広場には人の声はなく、鎧の留め金と靴音だけが規則的に響き、クリミア王家の紋が空に伸びていた。そしてその空に、クリミア王国万歳、クリミア女王万歳!と、大きな声が次々に吸い込まれて行く。その声で己はクリミア女王だと実感できるのだ。情けない話に。
 

 公式の式典ではあるが、小規模ゆえに、立ち並ぶ兵の数も少なく、その先頭に並ぶ将軍も幼馴染を始めとする貴族の高官ばかりだった。隊長格であろうとも、身分の低い者は参列を許されてはいない。ひと月前の盛大な式典を思い出して、エリンシアは心の中で苦笑いしてしまう。よく晴れた陽光にきらめく白銀の鎧が、彼には余りにも似合っていなかったからだ。


 沸き立つ兵士らに手を振ると、エリンシアは宮廷へ戻った。エリンシアがバルコニーに出ている間、部屋の奥で立ち話をしていた侍女たちが慌てて駆け寄り、準備を始める。
 部屋に入った途端に遠くなる声が、名残惜しく、尾を引くように感じる。この先、気の重くなるような面々が待っているからだろうか。ため息を押し殺して、幾人もの侍女の手が自分の衣装を替えて行くのをじっと鏡越しに見ている。
 今、この間にも、あの人は何をやっているのだろうか。と、エリンシアは度々思いを馳せるようになった。
 彼はデインと戦った兵士たちや、民からは英雄だった。しかし、突如現れた傭兵の若者が容易にクリミア貴族たちに受け入れられるはずもなく、ベグニオン皇帝の後見を得た爵位があっても、宮廷での風当たりは日増しになって行くのに心が痛んだ。
 貴族のしきたりは理解できない、と言っていたこともあり、ジョフレも気を利かせて宮廷に上がる回数を極力減らし、兵士らを直接まとめる仕事をさせているらしい。それゆえに、王宮に篭りがちなエリンシアはその姿を遠目に見るのも難しくなっていた。

 鏡の前の、着飾った姿を見ると、遠くなったのは傭兵の青年だけではないような気がする。あの頃は、デインが襲撃してくる前までは、エリンシアは離宮にひっそりと暮らす王女だった。来ている服も良質ではあったが、今身に纏っている物ほど贅を尽くしてはおらず、身の回りのことをする侍女も一人か二人だった。
 傍にはルキノがいて。ジョフレやレニング叔父は軍務で多忙だったが、毎日顔を見せてくれた。父や母も、叔父に負けず劣らずの忙しさであったが、離宮に足を運ばない日はなかった。父母も叔父も今は亡く、軍を束ねるようになったジョフレも軍務に追われ、ルキノやユリシーズに至っては公式の場では、他の貴族に遠ざけられるきらいがあった。昔からの馴染みの家臣ばかりと懇意にされては困ると言われ。
 だのに、新たな主君を得た家臣らは、年の若さを理由に見下した態度を隠さなかった。エリンシアはただひとり生き残っただけの王族なのだ。そう絹に包んで囁かれているのも知っている。それはエリンシアも充分自覚している。王族として、滅ぼされた国を立て直したい。隣国に蹂躙された国土を見てそう思うのは普通ではないのか。



 エリンシアに重圧をかけるのが目的のような御前会議は、太陽が沈むまで続いた。
 幸い、この夜はもう何処にも出る必要はなく、自らの居住する区画へ足を運ぶだけだった。天馬に乗るにも、夜駆けまでする気力と体力は残ってはいない。最近は顔を見るだけの愛馬に、申し訳なさも抱いている。
 外にも所々に燈篭が建ち、王族が住まう小城の壁と、面する中庭を照らしている。月夜の趣がない、と侍女やユリシーズはぼやくが、一国の君主の身辺警護をする兵を思えば仕方がない。窓から、橙色の光が、クリミアの白い鎧に映る様子が見える。
 ふとエリンシアは足を止め、炎に照らされた中庭を見つめた。だが、背後で衛兵と侍女が訝しがっていることに気付くと、女王は早々に窓から体を離す。

 しかし、この夜は大人しく寝台に横たわらずにいた。
 侍女が去ったことを悟ると、夜着から簡素なドレスに着替え、上着を羽織るとそうっと部屋を抜け出す。王族専用の城のただ一人の住人となって数ヶ月しか経ていないが、勘はすっかり板に付いていた。城内ならば、どの機で衛兵が見回りに来るのか、交代の時はいつか、エリンシアは知り尽くしている。王の責任に眠れない夜を幾度も過ごし、扉の向こうの足音をじっと聞いていた結果だ。ゆえに、中庭には難なく出ることができた。
 明るい燈篭の許に出れば、エリンシアは上着を胸元に寄せ、城内とは違い堂々と足を進めた。途中、衛兵がエリンシアに気付いて驚くが、夜の散歩だと言えば道を開けてくれる。
 
 煉瓦で造られた衛兵の詰め所があり、その先にクリミアの英雄がいる。
 最初に知ったのは、侍女たちの噂だった。王女を助け、狂王を斃したのは、十八の若き傭兵だった。下賤な傭兵の癖に、と快く思っていないのは一部の貴族だけで、クリミアの民には英雄譚の主人公そのもののように今でも思われているのは知っている。
 詰め所の外で、彼は剣を振っていた。愛用のマントは脇に無造作に投げられ、その上に将軍を表すマントの留め金と銀の剣が乗っていた。その光景が、昨年までの光景と重なり、自然と目が細くなる。
「アイク様」
 エリンシアの声と、土を踏む音で剣を握った腕がぴたりと止まった。
 明かりの下、英雄からクリミアの将軍となった青年は、眉ひとつ動かしはしなかった。
「どうした、こんな夜更けに」
「散歩です」
「そうか、散歩か」
 逆にエリンシアの頬はより緩んでいた。彼の部下に当たる衛兵たちは、散歩だと言うと道を開けてくれるが心底怪訝な顔をするのに。 
 だが、以前の再興軍の時とは違い、アイクは一向に剣の鍛錬を再開する素振りは見せなかった。
「あの、アイク様……」
「何だ?」
「その……お邪魔をしてしまって申し訳ありません。どうぞわたしに構わず続けなさって下さい」
 元々、アイクの顔を見たかっただけだった。挨拶程度の会話ができれば充分で、彼の日課となっている剣の鍛錬を邪魔したくはない。それに、どんな立場になろうとも、変わらず剣を振っている姿を見ることができて嬉しかった。
 しかし、アイクの返答は、エリンシアの思い描いていた剣を振る動作ではなかった。
「それは無理だ。"任務の対象"が目の前にあるんだ」
 最初は言葉の意味を理解できず、エリンシアは目を丸くしてアイクを見遣った。意味を飲みこんでも、驚きばかりが残る。
「申し訳、ありません……」
「なぜ謝る。おれは剣だけ振っていればいい身分じゃなくなった。それだけだ」
 今度は別の申し訳なさで一杯になった。何と言って良いかわからず、エリンシアは黙りこむ。だが、目の前のアイクは、月明かりと燈篭の下、僅かに柔らかい顔付きを見せていた。
「なに。城の外から見張るより、至近距離にいた方が護りやすい」
 気を使ってくれたのだろう。エリンシアの心を占めていた申し訳なさが消えて行く。そして、その気遣いが、エリンシアの背中を押してくれた。今では立派に将としてクリミアの兵を率いているが、例え貴族にさせようとも、何百人の兵の上に立たせようと、アイクはアイクだった。あの頃の、落ち延びてきたエリンシアを自然と気遣ってくれた傭兵の青年だった。だから、これ以上ここにいれば、変わってしまいそうで怖かった。

「アイク様」
「うん?何だ?」
 それでもしばらくの沈黙が続き、今ようやく口を開いた。
 いつか伝えよう。ずっとそう思っていた。エリンシアとアイクの今の立場なら、彼に直接なり伝える術はいくらでもあった。だが、心の奥底で鎖を繋げていたのだ。
「戻りませんか?傭兵団に」
 口は堅く結ばれ、じっとエリンシアを見つめていた。怒っているのだろう。表情は余り豊かではないが、そういう感情を抱いているに違いない。
 きっと彼は驚くだろう、だがほっとするかもしれない。そう思い描いていたのだが。

「おれが」
 アイクは大きく胸を膨らませて呼吸をし、ゆっくりと声を響かせた。
「おれが無理をしてここにいるとでも思ったか?」
 エリンシアを覗き込むようにアイクは言った。エリンシアは一瞬だけ動じたが、すぐに顔を上げてまっすぐにアイクを見上げる。
「気分を害したのは謝ります」
 国は戻りつつあるが、完全に安定しているとは言えない。地方はデイン軍の傷は浅いが治安は悪く、中枢部では国政を執りつつ貴族からの圧力に耐えなければならなかった。本来の王の資格のない自分だけならまだわかる。だが、アシュナードを斃し、事実上クリミア軍を率いて来た彼が、蔑ろにされて行く位ならば、彼の本当の場所へ帰すべきではないか。いつからか、そんな思いが脳裏に浮かんできた。
「正直なことを申せば、そうです。格式と血統ばかりを重んじる宮廷で、息苦しい思いをしているのではないか。ずっとそう思っていました」 
 かつて、ベグニオン帝国で賓客として扱われていた時もあった。クリミアとは様式が違うが、ベグニオンでの貴族のような生活に、うんざりしていたのを忘れてはいない。
「それは当たってるが……」
 アイクは苦笑いを浮かべ、バンダナにかかる前髪を掻き上げた。苛立っていると言うより、観念したと言った様子だ。
「あんたの望むままに、そう思っていたようだが」 
 申し訳ありません、という言葉をエリンシアは喉元で止めた。
 不憫だ。そんな思いが彼を侮辱しているのはわかる。だが、彼から返上を申し出るのを待ってもいられなかった。そんなのは卑怯だ。
「そんな顔をしないでくれ。ただ……おれは、あんたの望むままに動いていたのだが、今回だけはあんたの望むことと反することをしそうだった」
「え?」
「いや、だが。従おう。おれはクリミア王宮を去る。だが、何かあった時は遠慮なく言ってくれ。必ずだ」
「はい……」
 二年余りの将軍生活の賜物か、アイクはエリンシアを前に膝を折ろうとした。だが、微笑んで首を振るエリンシアを前に、すぐに身を立て直す。ついでに将軍位を表すマントの留め金と、銀の剣を返そうとそれらを拾う動作をしたが、エリンシアはそれも止めた。正式な返上は後ほど、と。
「最後の儀式だと思ってください」
「ああ、そうだな。それに、今の任務はこなさないとな」
 その任務の最もたる相手を前に、アイクはうんと伸びをした。やはり、解放された感覚なのだろう。
「だが、一つだけ条件を聞いてくれないか」
「わかりました……何でしょう」
「将軍と爵位の返上は、おれが申し出た、そう言うことにしておいてくれないか」
 なぜ、と思わず言葉が出た。だが、すぐにアイクの思惑に気付く。今クリミアの英雄を野に下してしまえば、彼を支持している平民にまでエリンシアが恨まれてしまう。アイクはそう危惧しているのだろう。
「アイク様。何と言っていいやら……本当に、本当にありがとうございます」
「いや、いいさ。本当はな、あんたの言う通り、窮屈で仕方がなかったんだ。傭兵団に戻れて安心した」
 その言葉は、エリンシアを気遣ってのことではなく本心だというのを悟り、顔を綻ばせる。
 それにな、と付け加え、アイクはくるりとエリンシアを振り向いた。
「"将軍"だと、"陛下"の許しがなくては叶わないことも沢山あったしな」
 それは何かと問う間もなく。目を丸くしていると、アイクが大股で一歩近付いた。いや、それは近いと言うには余りにも距離がなさすぎた。
 そんなこと、"女王"の許しがなくとも。と告げることすら叶わず。


おまけ(高校生以下はご遠慮ください)
11/06/20   Back