拝啓、姉上様

 薄暗い部屋に入った瞬間、身震いを覚えた。
まだ冬もさ中ではあるが、気温が低いゆえの寒さではないことはわかっていた。一歩一歩その部屋へ近付くたび、震えが強くなって行くのを感じていた。
小さな己の足音が廊下に響く。その跡を追うように、控えめな足音が続いた。自分よりもずっと大きな形(なり)をしているはずなのに、石床を叩く音はひっそりとしている。その背の翼で半分身体を浮かしているのではないかと訝った程だ。

 蒼い光がぼんやりと漏れていた。光はひどく不気味に映り、より一層震えと緊迫感を煽っている。
これに似た感触を思い出した。まだ五つの時。自分よりも背の高い大人たちの間を転びながら歩いていた記憶が蘇る。ただ大人の言われるままに進み、マントを何度も踏んでは、後ろを歩いていた乳母に助け起こされる。周りの大人の笑いを含んだ息に包まれながら。

 だが、今起こっているのは一国の皇帝が誕生するかしないかの話ではない。
始祖オルティナが命を賭して戦い、封じた邪神が解放されようとしているのだ。それを止めるのもまた、オルティナの子孫だと聞かされ、ここへやって来た。

 扉を開くと、部屋には錚々たる者たちが顔を突き合わせていた。部屋の中央には布1が掛けられた木箱が置かれ、その上に不気味な光の源があった。メダリオンの周囲で一部の者が光よりも蒼白な顔をしていた。
「邪神を抑えねばならぬ……」
 そう言い、皆が固唾を飲んで注視する中、すう、と息を吸い込む。
彼女の後ろで、今にも倒れそうにしている少女に、三年前教えてもらった歌がある。それが白鷺の姫が遺した邪神を鎮める唯一の方法だ―――そう信じて疑わなかった。本人も、ここにいる皆も。


「―――違う。旋律だけでは駄目。歌詞、言葉がなければ―――」
 治まるどころか、光を強めるメダリオンを愕然と見ていると、扉の方から新たな声が聞こえて来た。
その声と姿に皆が動揺し始める。今の今まで戦火を交えていた相手の将だ。暁の巫女とデイン軍から崇拝されている少女は、敵だった者たちの中に恐れもせずに歩み寄った。正確には、メダリオンの方にだが。その巫女があれだけ命を奪おうとしていたベグニオンの皇帝にも、今は気にも留めていないようだった。
 皆が唖然としている中でも、銀の髪の巫女は瞳を閉じて口を歌を紡ぐ。巫女と呼ばれるだけあり、その歌声は鷺にも劣らない澄んだものだった。蒼い光が銀の髪を照らし、神々しいまでになっていた。
 先刻何も引き起こせなかった本人―――神使は茫然とデインの将が歌う姿を見ていた。唇が渇き、腹の底がかっと熱くなっていた。
 なぜ、この者が歌を知っている。
 なぜ、自分ではメダリオンを止められなかったのか。
 なぜ、この者がメダリオンを止めようとしているのか―――

 ぐるぐるとそう巡り、邪神を抑えられるか否かが脳裏から押し退けられようとしていた。それが、完全に彼女を支配した瞬間、まばゆいばかりの光に包まれ、意識まで消し去ってしまった。





 彼女はいつも皆の中心だった。いや、中心にならざるを得なかった。身体を女神に貸しているのだから。
 敵対していたはずの者も彼女を巫女と呼び、少しずつだが信頼を置くようになり始めていた。サナキもまた、負の女神を通したミカヤの言葉に従っている。それが不快なのではなく、サナキ自身、自らの意志で帝都シエネへ一団と向かおうとしてのことだ。
 ただ、同じ隊にいるのに、隊長と話する機会がないことにわだかまりを感じていた。シグルーンが気を利かせて取り持とうとするも、サナキはそれには応えようとはしなかった。あくまで自分で、ユンヌではなく、"ミカヤ"と話したかった。かつては敵同士で、ミカヤ自身必死に自分を討とうとし、彼女の策で天馬騎士も帝国騎士も何人も死んだ。

「のう、シグルーン」
 主は石となった民家に、一行は宿を借りていた。今まで住居としていた神殿に比べれば粗末な家だが、サナキは文句ひとつ言わず、隙間風の容赦ない部屋にわずなか明かりを灯している。
シグルーンが民家の台所から食糧を持って来た時に、サナキはそう口を開いた。
「今まで考えていたのじゃが」
「今はこれにてご辛抱を」
 シグルーンは机の上に己の絹の布巾を広げ、パンを並べた。それが食器のことなのか、雑穀が混ざったパンを差してのことなのかはわからない。
「あの、巫女殿は……オルティナの子孫なのではなかろうか」
 シグルーンの指が一瞬だけぴたりと止まった気がした。
「何を突然申されますか」
「ベグニオン皇家とて、家系図にない者がおったとしても不思議ではない」
 他国の王侯貴族同様、九族の中に、若い頃の放蕩や火遊びで市井に落胤した可能性をサナキは考えたのだ。
「鷺の子孫だとお考えになられてはどうでしょうか」
 シグルーンは温度の感じぬ声を発しながらバターの入った皿を置いた。
彼女は"印"が付いている。行軍前に、本人がおくびにも出さずに言った。仲間以外の人間が石になった状況で、迫害されている種だと告白されても誰も驚かなかった。
そう、鷺の血が混ざった混血なら。詞を乗せた完全な歌を知っていてもおかしくはない。それに、彼女には鷺の民のように心を読む力があるというのだ。彼女はデインに仕える前、この力で各地を転々として弟を育てて来たと言う。
 サナキはシグルーンの言葉を妙に納得し、バターを薄く塗ったパンを齧った。その様を、サナキよりも安堵の表情でシグルーンは見ていた。


 翌日は、寒さが一面を覆ってはいるが、が太陽が完全に顔を出していた。
顔を洗おうと民家を出、井戸へ向かおうとした矢先、朝日に反射する銀の髪を見つけた。サナキは思わず駆け寄る。今までずっと考えていた彼女への言葉など、銀の髪を見た瞬間から消え去ってしまっていた。
「あ、あのっ」
 幼少の頃より、尊大さと肥満で恰幅の良くなった貴族たちを、ものともせずに相手してきたサナキだった。しかし今、目の前の少し年上の、少しだけ背の高い少女を前にサナキはたじろいでいた。ミカヤも足音と気配に気付いて振り向くと、困惑と笑みが混ざったような顔になる。朝日の下で、サナキはミカヤの瞳の色を知った。
「神使様……」
 最後の聞いた"彼女"の声は、メダリオンの間での、繊細ながらもよく通る歌声だった。今は迷いをたっぷりと含んでサナキの地位をつぶやく。
「あの、おは、よう……」
「おはようございます。神使様」
 消え入りそうな声に、今度ははっきりと答えてくれた。サナキも自然と緊張が緩み、一歩近くへ寄る。どうかサナキと呼んで欲しい。そんな願いを秘め、もう一歩近付く。
「あの」
「あなた、サナキね……」
 望みを告げる前にミカヤの声がサナキと言う。サナキは心臓が高鳴ったが、すぐに不自然な感覚を覚えた。上目気味に視線をミカヤに向ける。
「負の女神……」
 ミカヤの小さな面はこくりと頷いた。なぜ急に身体を乗っ取ったのか。サナキは理解できないでいた。ぎゅっと唇を結び、ユンヌになった巫女を見る。
「そんなに怖い顔をしないで」
 ふわりとユンヌは笑ってサナキに近付いた。"彼女"は正の女神アスタルテと対を成す。そのアスタルテを創造神と崇める総本山の長がサナキだ。それゆえに、ユンヌはサナキに警戒心を抱いていると思っているらしい。
「いい天気ね。こんな日は旅も楽しくなるかしら」
「遊びに行くのではない」
 不満を隠さずに、サナキはそっぽを向いた。シエネへの道中、正の使徒と称したベグニオンの騎士や元老院貴族が何度襲って来たか。我を持たぬ人形のような兵に加え、自国の兵と戦わなければならぬ心労は他の者に比べて重い。
「冗談よ。重い気を少しでも紛らわそうとしただけなのに」
 サナキはむっとした表情のまま、ユンヌの傍を過ぎて井戸に向かった。不機嫌なのは、負の女神を嫌っているからではない。そしてその心の内が、告げずとも女神にも彼女にも伝わってしまっているのだろう。それが面白くなかった。

 シグルーンは交代の見回りに出ていた。
 サナキも見回りの番を割り振って欲しいと申し出たが、シグルーンとタニスの反対の上、見回りには向かないと仲間に言い切られ、不機嫌さはさらに増していた。
確かに年も若ければ背も低く、歴戦の戦士に比べれば頼りないかもしれないが、自分には魔道の心得があると自負していた。食糧の確保はシグルーンが率先して行う。サナキは軍の中で戦闘以外(しかもそれもシグルーンが無理を通して憂慮させていた)で役目のないことに歯がゆさを感じずにはいられなかった。
「セフェランよ、そなたの教えは火を熾すことにしか役に立っておらぬ」
 自嘲気味に魔道書を見る。彼女の師は、今も腹心とともにシエネにいるだろう。彼のことだから石にはなってはいまい。サナキはシエネで彼らに会えることを心待ちにしていた。
空が不自然すぎるほどに澄んでいた。サナキの真上を、鳥が梢を突っ切って飛ぶ姿が、桶に張った水面に映る。
 幸か不幸か、サナキが皆のために働く場面がやって来た。サナキは嫌な気配を感じ、桶から顔を離した。慌てて振り向いた時には地面から見覚えのある紋が光輝き、光は柱となり人影を浮かび上がらせる。それがひとつ、ふたつとみるみるうちに増えて行く。
 サナキは魔道書を脇にぐっと抱え、光の柱を睨んだ。胃が握られるような感覚に耐え、炎の精霊に古代語で語りかける。光が消え、完全に金色の鎧を着た戦士の姿が現れたと同時に、サナキは精霊に命じた。いや、叫んだ。
 地面に残る雪を土ごと溶かしながら、サナキの炎は光の代わりに使徒を包む。悲鳴にならない悲鳴までも業火に飲まれ、正の使徒は斧を振る前にこと切れた。焦げた匂いが立ち上り、胃の不快感が蘇り、サナキは前屈みになった。
 だが、燃えた戦士の後ろで、数人の使徒たちがまだ健在だった。彼らはゆっくりと近付いてくる。使徒のほとんどは元老院に与した帝国騎士。負の女神の言葉を思い出せば、この者たちはすでに自我はなく、生前の元老院の命を純粋に遂行しているだけに過ぎないのだという。
 周りは味方はおらず、サナキひとりしかいない。敵勢の目標は自然とサナキに集中する。元はサナキの兵、民ではあった。だが、立ち向かわなければ。そう思えば思うほど、胃の中で何かが捻じれるような感覚する。こらえようと、歯を食いしばり、前方を睨んだ。
 複数の使徒が剣を振り被った瞬間、サナキは一人に炎を向ける事だけが精一杯だった。その一人は斃れたが、まだ多くの剣が太陽の光を頭上で跳ね返していた。
次の炎の出す前に、痛烈な光に包まれた。サナキは思わず目を背ける。敵はその姿ごと影になった。  
 
二話


11/04/06   Back