拝啓、姉上様 2

 気配も、物音も静かになり、サナキは光にやられた目を戻そうと瞬かせた。慣れて来た視界の先には、ミカヤがいた。
「あ、ありがとう……」
「怪我はないですか?」
 ミカヤが駆け寄り、サナキの肩を抱いた。どうやら、今はミカヤ本人らしい。
「大丈夫。わたしは……」
 そう言うも、吐き気は治まる傾向になかった。苦しそうに顔をゆがめるサナキを、ミカヤは心配そうに覗きこむ。
「ひとまず寝台へ。シスターに診てもらいましょう」
 青ざめた顔で頷くと、慌てた足音で天馬騎士たちが駆け付けた。
「サナキ様!」
 サナキを支える役目は自然と家臣に移る。タニスの腕に身を預けながら、シグルーンがミカヤに向けて頭を下げているのをぼんやりと見てた。
 横になると、幾分か気分は楽になった。敵がいなくなり安心したかもしれない。
「敵は他にいないのか……」
「もう収束しました。数は少なかったのですが、点在していたので殲滅に時間がかかりました。今はスクリミル殿と数名が見回りを続けています……申し訳ありません。お一人にさせるのは甘かったようです」 
 良い、とサナキは枕に置いた首を振る。白湯を求めようと口を開きかけると、タニスの背後でふらりと銀の髪が見えた。
「神使様大丈夫ですか」
 タニスはすっと立ち上がり、ミカヤにサナキを対面させる。
「巫女殿。この度は我が君を助けてくださりありがとうございます」
「いいえ」
 ミカヤとタニスの間には、感謝の意はあるが、複雑な心境が渦巻いていた。タニスもあからさまな敵意はないにしろ、部下と同胞の命を奪う策を指揮した少女に簡単に心を開けはしなかった。ミカヤも同様な思いを抱えている上、タニスの心情を痛いほどに受け止めている。
「ミカヤ殿。わたしはもう大丈夫じゃ……のう、タニス。しばらく外してはくれぬか」
 タニスは一瞬眉をしかめるも、すぐに頭を下げて民家を出た。敵同士ではあったが、今はサナキの命を奪う理由がミカヤ、いやデイン側にはないと悟ったからだ。
濃茶のマントが雪の残る外へひらめくのを見届けると、サナキは身を起こした。それを止めようとするミカヤを逆に制する。
「大丈夫だ。もう楽になった」
「なら、良いのですが……見た所によると魔道の反動ではないかと」
 サナキは乾いた笑いを浮かべた。本当の的は別にあるのだが、サナキは直感的に彼女はわざと外してくれているのだと知った。今まで敵対していたのだ。元自軍(と言っても元老院の息のかかった兵だが)に刃を向けられたからと言って、下手な慰めはいらない。
「そなた何でもお見通しだの。筋があると褒められ少々思い上がっていたようだ」
「神使様はとても強い魔力をお持ちです。これは世辞ではありません。ですが、精霊は気まぐれなもの。 常に信を置く必要があります。突然高位の魔道を使えば、精霊の機嫌を損ねるのは当然かと」 
 タニスやシグルーンが同席すれば、不敬なと眉をひそめるだろうが、サナキは全く気にせず、むしろそれを受け入れる証に強く頷いた。
「そなたの光魔法は常に強い力を保っているのはわかる。光の精霊は他の精霊よりも気難しい。わたしも師に習い少しだけ光の精霊を呼び出したが、もう少しで目玉を抜かれる所だった」
 サナキの言葉に、ミカヤは目を丸くしていた。何か可笑しなことを言ったか、とサナキも首をかしげる。 
「神使様、本当に目を取られそうになったのですか?」
「う、うむ。視界がぼやけて、頭までぼうっとして……それから、どこから囁く声がした。古代語でよくわからなかったが」
「断片でも、その古代語を覚えてはいませんか」
 サナキはうーん、と唸り、おずおずとうろ覚えの古代語を呟いた。すると、ミカヤが急に口に手を当て、噴き出した。今度はサナキが目を丸くする番だった。
「神使様のお師匠様は大変面白いお方なのですね」
「宰相ペルシス公であるぞ」
 まるで自身が宰相の家来であるかの如くふんぞり返る。彼女の言では、サナキの師がサナキをからかったらしい。彼の性格を考えれば、それも充分にあり得ることだった。
「光の精霊が好むのは魂です。人の身体は好みません」
「どちらにしても嫌だな……して、古代語であやつは何を吹き込んだのだ?」
 ミカヤは口の端を上げたまま首を振った。言葉にするのもはばかられる程の酷い言葉と察し、遠くシエネにいるであろうセフェランを恨んだ。
「……ですが、神使様が魔道の才があるのはお師匠様のお墨付きみたいですね。光魔法は回復魔法なら比較的習得が簡単ですが、人を攻撃するものとなると、途端に気難しくなるので習得しようとする人も、教えようとする人も余りいないのです」
「だが、そなたは」
「わたしは育ての親が魔道の研究をしていたもので」
 途端にミカヤの顔が暗くなった。彼女の育ちがどういうものかは知らない。だが、成長が突然止まる"印付き"が人の目を避ける為に各地を転々としなければならないとは聞いていた。ラグズもベオクも忌み嫌う存在がどういう風に育って来たかなど、生まれた頃から大勢の者にかしずかれ、生きる心配など一度もしたことのない身が尋ねるなど、傲慢にも程がある。
「あ、申し訳ありません……神使様」
 自分の心を覆った陰に気付いたのか、ミカヤは我に返ると慌てて頭を下げた。
「いいのだ。わたしこそ済まぬ……それから……」
 言葉を続けようと口を開いたが、それはすぐに妨げられた。家臣が民家の扉を叩いた。
「神使様、失礼します」
「よい、入れ」
 サナキもミカヤも、瞬時に神使と一軍の将の顔に戻っていた。タニスを従えたシグルーンとミカヤは入れ違う。

「お加減はよろしくなったようですが……」
 主の快復は明白だというのに、一の家臣は曇った顔を隠さずにいた。
「無闇に人払いはなさらないでください」
「ミカヤ殿はこの隊を率いておる。わたしはその一兵に過ぎん」
 言い終えると、シグルーンは一瞬だけ難しい顔をした。
「……今は一つの目的に向かって色々な立場の者が集結している。わたしの立場もベグニオンとデインの関係も今はどうこう言っている場合ではないのだ。それはお主もわかっておろう」
 シグルーンに取り繕うように、すぐさまサナキは言葉を続けた。シグルーンにだからこそ、自分の胸の内をわかってもらいたかった。だが、上手く言葉が見つからない。
「シグルーン隊長」
 それでもなお何か言いたげなシグルーンに、背後からタニスが口を開いた。
「恐れながら、神使様の仰る通りではございませんか。デインが我が軍に刃を向けたのは、他ならぬ元老院の差し金。その元老院も今ではアスタルテの手駒となりデインも我々も滅しようとしています。つまり、現在我々の敵はデインと共通しているのです。キルヴァスの裏切りで痛手を被ったラグズ連合も、今の状況を鑑みてキルヴァス王の首を預けているではありませんか」
 部下の進言で、シグルーンは理解した、というよりも諦めたと言った体でタニスとサナキを見遣った。取り敢えず、滅多なことがない限りわたくしかタニスがお傍にいますから。とだけ告げ、サナキを寝かせようと小柄な体に手を添えた。
 サナキもこれ以上反論することなく大人しく横たわり、瞼を閉じた。まだ陽は高いことだけはわかる。冷たい外の空気は鳥の気配すらも感じられなかった。


 一隊はやがてベグニオンに入ったことを、南から吹く風に混ざる砂で知った。翳る物も少なくなり、太陽の光は容赦なく降り注ぎ、汗が滲んで来る。その一帯だけは季節の巡りを停滞させていた。

 砂漠に入る前に、ここで体を休めましょう。
小さな集落に着いた時、軍を率いる負の女神はそう切り出した。それに反対する者は誰もいなかった。砂漠の恐ろしさは、砂漠を知らぬ者でも脳髄に染み込んでいる。

 吹きつける砂と風を防ぐため、家は皆石で組まれ、隙間を粘土で固めていた。お陰で皆入り口の時点で既に手こずっていた砂粒から逃れることができ、サナキはほっとひと息つく。思えば、この土地も自身の国なのだ。なのに、サナキは一度もグラーヌの砂漠には足を踏み入れたことがない。書物や人伝に砂漠の話を聞くだけで、それで全てを知ったつもりになっていた自分を恥じた。

「そう言えば……」
 サナキはかつてセフェランから聞いた砂漠の話を思い出した。
横たわっていた寝台を勢いよく飛び降り、傍にしたシグルーンに咎められる。
「外へ出る。付いて参れ!」
 家臣の言葉を聞き入れもせず、サナキは家を飛び出した。出た先には今まさに家に入ろうとしている家主の石像があるが、それをひらりと除ける。

「サナキ様……!」
 シグルーンはサナキより背が高い分、石の住人を除けるのに難儀していた。今までどこか気を弱くしていたサナキが、まるでマナイル神殿を駆け巡るように元気に走って行く背中を、シグルーンは嬉しさ半分、呆れ半分抱えつつ追いかけて行く。

 だが、その心はすぐに落胆一色に変わる。ベグニオン帝国皇帝ならびに神使ともあろう者が、砂に膝を付き、背を丸めて穴を掘っている姿を見たからだ。
「サナキ様、何をさなっているのです!」
 悲鳴にも似た声で、シグルーンは主の背中を抱き起そうとした。だが、サナキはその格好で振り返り、いつもの悪戯好きの表情で笑いかけた。
「ほれ、主も手伝うのだ。古代の遺物が埋まっておろう」
 燦々と太陽が降り注ぐ中、ゆったりとした衣服を纏うサナキの顔は汗を浮かばせて、むき出しの肩には砂埃が張り付いているのも気にしてはいない様子だった。赤紫の上衣はすでに砂山に脱ぎ捨てられている。

「……サナキ様」
 苦い感情を押し籠め、シグルーンも主に倣った。もしこの姿をタニスにでも見られたら、自分よりももっと険しい感情を起こすだろうと思いながら。
 運が良かったのか、シグルーンが掘り起こした先にあっさりと先人の遺物が見つかった。表紙どころか中の紙にまで砂は入り込み、払っても払ってもぱらぱらと砂粒が落ちる。だが、サナキは目を輝かせて砂埃にまみれた頁を眺めやる。
「ボルガノンじゃ。でかしたぞシグルーン。生半可な道具商や魔道士ではまず扱えん」
 これで少しは役に立とうて、とサナキの指は埃で掠れた古代文字を愛おしそうになぞった。
その様子を、シグルーンは複雑な表情で眺めていた。家臣の視線に気付いたのか、サナキはまた勢いよく頭を上げた。
「シグルーンよ、この調子でもっと掘るぞ!」
 まだやるのか、という家臣の困惑した表情に、サナキは片頬を上げる。
「まだ高位の魔道書が眠っているやもしれぬ。他の魔道士たちも喜ぶと思うぞ」
「はあ……」
「さあ、日が暮れぬうちに掘り進めるのじゃ。お主の先刻の幸運をまた見せてたもう。どこか目ぼしい場所はわからぬか?」
「……あちらに」
 嬉々として指された方角へ顔を向けたが、嬉しさの余り、その指と声がシグルーンのものではないことに遅れて気が付いた。隣を向いた先にいたのは銀の髪の将だった。
 ミカヤは少し困ったように微笑み、砂の平原へと足を向けた。サナキは我に返り、ミカヤの後を走った。
「わ、わたしがやろう」
 指差した場所へ屈もうとするミカヤを、サナキは砂へ覆い被さらんばかりに制した。
「すまぬ。そなたの力をこのようなことに……」
「いいえ。先人の力を借りるのは悪くないことだと思います。ユンヌも言っていたのですから」
「ふむ、そうか」
 ユンヌの名を出され、サナキも妙に納得して砂を掘る。か細い少女二人の手では、乾いた砂粒とは言え掘り進めるには苦労がある。だが、シグルーンはその様子をじっと見ているだけで手伝おうとも援けを呼ぼうともしなかった。

 気まずい雰囲気は時間の経過とともに和らいで行った。
 会話はぽつりぽつりと、降り始めの雨粒のようで、長くは続かなかった。それでも気まずいとは感じず、サナキの手は軽快に乾いた砂をかき分ける。
「この砂漠は太古、マンナズが都市を築いていたようでな」
「そのようですね。デインの東にも、似たような遺跡があります」
「ほう、デインの東と言えば、誰も足を踏み入れられぬと聞いていたが」
「マンナズが存在していた頃は、緑豊かな土地だったそうです。次第に砂漠化が進み、マンナズも、女神も止められなかったと」
 軽やかだった指も口も止まってしまった。
この世界を創ったのは他ならぬ女神アスタルテとユンヌだ。だが、創った本人たちにも砂漠化は止められなかった。全知全能という信じて疑わなかったことを、ミカヤの口―――恐らくユンヌ本人から聞いたのだろう―――から告げられ、頭では理解できても心に染み入れるのに時間がかかってしまった。
「―――ユンヌは、女神は全能ではない。そう言ってました。確かに世界を創ったのは女神だけれど」
 サナキの心情を察したのか、ミカヤはすぐに付け加える。
「けれど、そこからしばらくも経たない内に、女神が手を出さなくとも新しい生物が次々と生まれ、地形や気候も変わるようになったのです。変化した環境を生きる為、生物たちも自らの意思で姿を変えて行ったと」
「そうなの。だって、手を出したのなら、厳しい寒さや暑さなんてなかったわ。そうしようとする前に、みんな自分で生きて行く為に知恵を使ったの。それが嬉しくて、楽しくて、幸せだった……これも、彼らの知恵の賜物なのね」
 声は同じだが、急に調子が変わり、サナキは顔を上げた。正面にはいつもの緩やかな笑みではなく、どこか幼さを感じさせるように頬を緩ませたミカヤがいる。手には、砂の中の先人の遺物であろう宝物が掴まれていた。ミカヤの瞳を通してユンヌは愛おしそうにその玉を眺めやっている。
「ごめんなさいね。いつもいい所を邪魔してしまって」
「何を……」
 サナキの不快さを隠さぬ表情を前にして、負の女神は今は悪戯っぽい笑みを見せ、宝玉をサナキの手に押し付ける。手中に収まった玉は真上の陽光を強く跳ね返し、サナキは目を細める。
「それはラグズに渡した方がいいわ。もうすぐアスタルテの使徒がやって来る。すぐにラグズの仲間に役に立つはずだから」
「もうすぐ、戦い……?」
「そう。だからミカヤの体を借りて出てきたの。突然だから彼女もちょっと困ってるけど」
 ふらつく体を抑えながら、サナキは立ち上がった。振り向きざま後方のシグルーンに目で合図する。家臣は頷き、集落へ駆けて行った。
また聞きそびれてしまった。
 悔しさは待ち構える戦闘を前に一塵と化し、再び胸にしまい込まれた。シエネに着く頃には、いや、全てが終わってからでもいい。サナキは軽くため息をついて集落へと足を運んだ。
 
 
三話


11/04/06   Back