拝啓、姉上様 3

 使徒来襲の報はすぐに仲間たちに広がった。
 皆開けた砂漠に集結した後、慎重に歩みを進める。人々が石になった集落で戦闘が始まれば、傷は決して浅くはない。
 だが、砂漠に慣れている者はいなかった。
 皆容赦のない陽光に肌を焼き、砂に足を取られ、体中の水分を流してしまいそうに汗を流している。飛べる者も翼の疲労は極力避けたいが為に地に足を付けて移動していた。
 シグルーンとタニスは己の天馬に主君を交代で乗せようとしたが、サナキは従おうとはしなかった。天馬も過酷な環境でいつやられるかわからない。斥候の任としても貴重な役目があるのだ。
 
 一刻ほど進んだ場所に岩場を見つけ、安堵したように息をつく。誰が言うまでもなく、そこで休息の場となった。
「あの……」
 サナキも空いている陰にいそいそと身を寄せると、控え目な声がかけられた。
「ここ、いいですか?」
「う、うむ……」
 先刻の、戦闘前の穏やかな空気とは打って変わって、ぎこちなくサナキは答える。ミカヤも遠慮がちに微笑むと、その隣に座った。
「さっきはごめんなさい、とユンヌが」
「ん、まあ、仕方がない。敵の気配がわかる負の女神の力は頼もしい」
「そう言ってもらえてあの子も喜んでいます。それから……」
 そう言って、ミカヤは口をつぐんだ。その横顔をサナキはちらりと見る。今まで気付かなかったのがおかしい。彼女の瞳は自分と同じ色をしていた。
「あなたと、同じ色ですね」
 急に言われ、サナキはびくりと肩をすくめた。つい忘れてしまう。彼女は人の心を読めることを。
「その……便利じゃのう。その力。わたしも使えたら、今まで苦労はせずに済んだだろうて」
「辛いことも多々あります。知らなくていいことまで知ってしまうのですから」
「我が周囲には、肚に一物を抱えている者の多いことよ。面の皮と舌の多さは天にも勝る。わが宰相も人の嘘を見抜くのは長けておったが、すべて見抜ける訳にはいかぬようだった」
 ため息をつきながら岩から覗く空を仰ぎ見る。
 貴族の専横は何とか抑えている状況で、年々彼らの力は増しているのはひしひしと身に染みている。それを感じる度、民にも貴族たちにも絶大な支持を得ていた祖母ミサハの影がちらつくのだ。彼女は慈愛深く国を導き、女神の御声を民に告げる姿は、まさしく女神そのものだと伝えられていた。その祖母に比べて、己は何と非力なことか。
「女神の御声。子供であるがゆえに、わたしにはまだ降りて来ぬ。そして、オルティナの子孫に伝えられし歌……そなたに歌えて、なぜその資格を持つたるわたしが歌えなかったのだろう」
 隣でじっと聞いていたミカヤは、サナキの横顔を難しそうに見ていた。やがて固く目を閉じ、深呼吸した。
「……わからないのです」
 吐き出すように、ミカヤは言った。
「あの歌は、物心つく前からぼんやりと覚えていたもの。あの時、メダリオンに引き寄せられたように歌いました。つい夢中で」
「そうか……」
 サナキは力なく笑った。理由がどうあれ、負の女神が選んだのは女神の使いの自分ではなく、デインの巫女なのだ。
「そうだ。そなたに負の女神がついているなら、正の女神アスタルテはどんなお方はわかるだろうか?ユンヌに訊いてもらえないだろうか。わたしはあのお方の声はまだ聞けぬから、どんなお方なのか知らないのだ」
 ぱっと顔を明るくさせ、サナキは詰め寄ろうとするも、ミカヤは答えに窮したようにサナキの瞳を覗き込んだ。
 ミカヤが口を開こうとしたが、言葉は叶わなかった。彼女の弟が二人の傍に軽い砂音を立ててやって来たからだ。
  

  空から物見をしていたキルヴァス王より、再び敵影の報がもたらされた。
  知らせ通りの方角には、砂漠の中、既に陣を敷いて一行を迎える影が砂の熱波に揺れている。いつものように不意を突けばいつでも突くことはできよう。だのにこの灼熱の中を待っているとは、舐められている、と幾人かは奥歯を噛んだ。

  遮るものの何もない、強烈な太陽の許、ゆらめく敵の姿の一人に、サナキは眉をひそめた。
「サナキ様、危険です。あまり前へ出られぬよう……」
  シグルーンの進言も、サナキはほとんど耳に入っていなかった。見間違いではない。あの姿。
  ざくり、ざくり、とゆっくりと砂を踏みしめ、サナキは隊の前に出た。そうすることで、後方にいる者に自分の存在がわかろう、と。
「これはこれは……」
 高みの砂丘で眺めていた男は、サナキの予想通り、鼻の下の髭を歪める。杖を振った途端、彼の足下が、使徒の奇襲時と同じ紋を描き、一瞬でサナキの目の前に現れる。
 サナキは見下ろされる形となるが、平然と男を見上げていた。彼も普段より、主に対して不遜を隠さぬ態度ではあったが、ここまで不敬な体勢にはなったことはなかった。
「ルカンよ。飼い主を変え、かつての主君を討つ算段か」
 その言葉にルカンは太い喉を鳴らし、卑しい者を見るような目つきでサナキを見た。マナイルでは多少見せていた忠義の欠片も、今は跡形もない。
「かつての主も何も、そなたは偽者の神使。偽者に忠義を尽くすなど愚かにも程がある。我もよく耐えたと褒めてやりたいくらいだ」
「偽物……」
 サナキの呟きと、砂を踏む音が重なった。シグルーンがサナキを庇うように前に出たのだ。
「サナキ様。これ以上この者の戯言など聞く必要などありません」
 剣の柄にやったシグルーンの手を、サナキは抑えた。ルカンは鼻を鳴らし、髭を動かし続ける。
「帝国に君臨されるお方は、始祖オルティナより続く女神の天啓を受けたお方。そのお方こそ、女神の御声を受け、国を正しき方向に導き、幾多の危機を救う力のあるお方。そなたに、その力はあると断言できるのか?」
「それは……わたしがまだ成人しておらぬからではないのか……」
 先刻までの凛とした態度も口調も、萎れて来ているのが誰の目にもわかった。それが面白いらしく、ルカンは大仰な振りで説明を始める。
「おお、まだ純粋な童であるな!我々の言葉を丸々と信じていようとは!」 「ルカン殿……戯言が過ぎます……!」  今にも斬らんとばかりに、シグルーンは身を屈めてルカンを睨みつけた。しかし、興に乗った男の口と手ぶりは止まることを知らない。彼にとって、目の上の瘤だった小娘は、今では追いつめられた鼠も同然だった。残虐な性格は、より美味に料理する為に、下ごしらえを望んでいた。
「そう、二十年ほど前。先代神使ミサハ様が鷺どもに暗殺された時。実はもう一人鷺の手にかかったお方がいたのですよ。女のお子が。そのお子は、まだ三つにならぬうちから女神の御声が聞こえていたと、側仕えの神官が言っておりましてな」
「サナキ様、お下がりください……!」
 シグルーンが悲鳴に近い声を上げるも、それは却ってサナキの顔に血色を失わせて行く援けとなるだけだった。ルカンはその様子を見、愉悦に入ったのか、さらに声をさらに高らめさせる。
「ミサハ様も亡くなり、更には時期神使たるお方が亡くなった為、国民の心は乱れに乱れた。そんな国を憂いて対策を案じていた時、そなたという童が生まれた。王家の血を引くおなごというだけの」
「う、嘘じゃ……」
「そなたは仮の神使として据えられただけ。荒れる民心を一時繋ぎ止めるだけの存在としてな。我々元老院の言葉を信じて、神使の資格があると思い込んでいた哀れな小娘よ!」
「うそじゃ、嘘だ!そなたは嘘を言っておる!」
 紫の髪を激しく振った姿に、ルカンは満足したようだ。鼻の下の金の髭を捻じ曲げ、四角い顎との間の歯まで見せている。
「嘘だと思うなら、まことの女神の使いである我らと戦ってみよ!邪神と女神アスタルテの僕、正しい方が勝つのだからな!」
 言い終えたと同時に、先刻の紋がルカンの足下で再び光り出す。それをサナキを始め、誰もが茫然と見ているだけだった。その背後には、ぎらつく光を孕んだ鎧を纏う幾百もの兵士が待ち構えていた。









 昼間とは打って変わって、冷え込む砂漠の夜がやって来た。
 迫る軍勢は―――突如現れた漆黒の騎士の援けもあり―――何とか退けることが叶った。ルカンの口を借りれば、"正しい"のは、負の女神側だということになる。だが、当のルカンは不利と知るや早々と杖を振り、逃げ去ってしまった。

 戦闘と暑さで疲弊した一行は、日没までに砂漠を抜けることは出来ず、マンナズが遺したと言われる建物の残骸に、身を潜めて朝を待つことにした。
 行く行くで拾った木片と布が燃える焚き火が、点々と夜の砂漠を照らしていた。その一つから当てられたサナキの影が、遺跡の白い壁にまで伸びていた。
「……サナキ様、申し訳ありませんでした……」
 シグルーンは突然ひれ伏した。ルカンと対峙した時のことを言っているのだろう。サナキは家臣の薄い翠の髪が焚き火に照らされ、橙に染まっている様子をじっと見ていた。しばらくして、重々しく口を開く。
「謝られる筋はない。隠し立てしたい気持ちは、ようわかる」
 サナキは壁に残る先人が彫った紋様に視線を移した。古代文字に似ているが、それよりも複雑に見える。古代語よりも前の時代の文字なのだろう。これが読み解ければ、古代の人々が何を考え、どう生きてきたか、それを知り得ることが可能なのだろう。だが、サナキにはその力はない。祖先のもっと先の人も、女神も、それどころか元老院らの意図も、サナキは分からなかった。

 だが、ひとつだけ分かるのは、ルカンの言葉が真実だということ。
 サナキは、いずれ生まれ来る本当の神使の誕生まで、国を安定させておくための存在だったのだ。
「シグルーン、それに、タニス」
 いついかなる時でも、彼女は臆せず、堂々と振舞っていた。それは、自分はベグニオン帝国という大国の頂点に在るという、揺るぎない自信の元にあった。
 だが、今は違う。真実をこれ以上訊くことを恐れ、だが、訊かずにはいられない。その葛藤が底冷えさせる砂漠の気温も手伝い、震えさせていた。
 
 名を呼ばれ、二人の家臣はサナキの前に姿勢を正す。理由はわかってはいるが、彼女らの想像以上のサナキの様子に、戸惑いの色を隠せないでいた。
「……忌憚なく聞かせて欲しい。お主らの忠誠は、今どこにある?」
 ひと息で吐き出すように告げたためか、言い終えた後は、大きく息を吸い込んだ。
 意外にも彼女らの表情からは困惑が消え失せていた。背を再び伸ばし、シグルーンが今度は主に問いかける。
「そのようなことをお悩みになられていらっしゃったのですか?」
 困惑は消え失せていたが、白磁の肌の下に、怒りが静かに燃えているのを感じ取る。家臣の顔は、悪戯を問い質す教師か母親のそれだった。サナキは黙った。それで充分家臣の心が理解できたからだ。
「あなた様が神使だという理由だけで、わたくし共が従っているとお思いならば、それは間違いです」
 後ろを向き、部下にも促すと、タニスも無表情で頷くと、口を開いた。
「わたしが生涯を捧げようと決めたのは、あなた様おひとりでございます。どうか、普段通りに堂々となさり、我々にお命じ下さい。萎れていらしては、却っていぶかんでしまうではありませんか。何か悪いことをお考えなのだと」
 サナキは張りつめた気が抜け、口から噴き出した。
 タニス、とシグルーンの諌める声が小さくあったが、彼女の言葉で、その光景も含めてサナキには、マナイルでの日常を思い出したのだ。
 天馬騎士たちが常に側にいて、気に入りの侍女がいて、セフェランがいて。公の場では決して見せられない、神使だの皇帝だの地位に囚われずに笑い合った日々。また、そんな日常に心を安心させられたからこそ、女神の御声が聞こえずとも、国を治めて来たではないか。
 顔を見合わせる二人を尻目に、サナキは肩の震えを懸命に堪えていた。
「っ、くっ、はははははは……っ」
 だが、ついに収まり切れず、高らかな笑い声を夜空に吸い込ませた。メダリオンを鎮めるのに失敗した時から、散々思い悩んでいたことを全て吹き飛ばしてしまうかのように。
「そうじゃ、そうじゃのう。女神の御声、降りて来ぬなら直接お目にかかって聞こうではないか。なあ、シグルーン、タニスよ」
 目を丸くしてしたシグルーンとタニスだが、サナキの言葉に、彼女らにも笑みが戻った。 
「さあ、今日はもう休むとしよう。シエネはもうすぐだからの。セフェランがゼルギウスを連れて待っていてくれているだろうて」
「はい。サナキ様」
 突然の陽気な声に、他の仲間が不審がって様子を見に来ていたが、その頃には、すでにサナキは常の彼女に戻っていた。 


 極度の熱と足場の悪さが行軍を妨げていたようで、砂漠を抜ければ一行の足取りは軽いものだった。
 シエネ入りまで幾度か使徒の襲撃はあったものの、数の少なさもあったせいか、あっけなく撃破していた。傀儡としているのは元々ベグニオン騎士。女神の力をもってしても、眠りから醒めた現状では、新たな命を創り出すのは不可能らしい。元老院に与していた騎士らも尽きて来ている証拠ではないかとの声が上がった。
 
 だが、その予想は外れていた。
 念願のシエネに入り、アスタルテのいる導きの塔内には、無尽蔵に金の鎧の兵士が現れた。

  
 冷たい音を響かせて、一行は塔の階段を昇る。
 先鋒を務めたガドゥス公を斃し、彼を宿敵とするサナキはもちろん、元老院に少なからずの遺恨のある者は、ひとまず胸を撫で下ろしている。
 
 長い階段を上がるたび、ユンヌはミカヤの身体を借りて、昔の話をし始めた。
 彼女"たち"が水だけの場所に降り立ち、そこから大地が生まれたことで始まった世界。ここまで彼女が創世記の話を長く語ったのは初めてで、誰もが静かに耳を傾けた。その話は、サナキも、長く生きたラグズたちも知らなかったのだ。

 しかし、詳しく聞こうにも、その前に次の階の扉が現れ、女神は口ではなく、手を動かした。華奢な手により、重厚な扉はあっさりと開かれる。
 同時に、ぶん、と黒い影が風と共に素早く流れた。瞬く間に甲高い金属の音がし、火花が散った。残された仲間たちは、影が離れた後に、剣がぶつかり合ったのだと知った。
 
 誰もが息を飲む中、サナキは一段と目を見開く。一行からいち早く進み出たのはアイクではあったのはすぐに分かったが、問題は彼が剣を向けた相手。その男は、サナキの家臣のひとりだった。
「ゼル、ギウス……」
 慄くサナキを意にも介さず、ゼルギウスは兜を脇に、淡々とアイクと言葉を交わしていた。
 父の仇やら、要塞での戦い、やら。サナキに対して深く膝を折った中央司令官とは別人のようだった。彼は普段は帝国軍の赤い鎧を身に纏う。だが、今のゼルギウスは闇のような鎧を身に着けている。
 その鎧が何を示すか、サナキは知っていた。鎧の見た目通りに付けられた名、ベグニオンにまで名を馳せたデインの将、漆黒の騎士。謎に包まれたデインの将と、帝国の重臣がサナキの頭で上手く重ならない。

 サナキが家臣に問い質そうと漆黒の鎧へと踏み出したが、それは叶わなかった。サナキを始め、仲間たちとアイクとの間に光の壁が現れたからだ。
 彼らの言葉では、互いの責務とは別に、力を決すると言うのだ。それを邪魔されたくはないと。
「ゼルギウス!ゼルギウス!」
 サナキはそれにも負けじと蒼い光の向こうの家臣に向かって叫ぶ。聞きたいことは沢山あった。なぜデインにいたのか、なぜ、自分たちに立ちはだかっているのか、セフェランは―――
「無駄よ。彼らは今はただの剣士。わたし達の声なんて聞こえない」
 ミカヤ、いや、ユンヌがサナキの腕をつかんだ。
「だが」
「ほら、後ろを見て。あなたには、やらなくてはならないことがある。うろたえている場合じゃないわ」
 振り返ると、広々とした部屋が狭く感じるほどに使徒たちがいた。敵の隊の向こうには、将らしき赤い鎧を着た青年が槍を構えている。若いが、あのルカンの軍を率いていた将のひとりだと記憶にある。
「うろたえるなど……」
 ここを片付けて、ゼルギウスから全てを聞き出すのだ。
 サナキの脳裏には、すでに炎の精霊を使役する古代語が浮かんでいた。  
 
四話


11/04/06   Back