拝啓、姉上様 5

 我が愛しき人よ。
 
 
 ぱちぱちと顔の回りを光が浮遊し、サナキは目を細めた。光は無数にあり、セフェランの周囲を護るようにしていたかと思うと、次々にその数は増えて行った。瞬時にそれが何かを感じ取る。サナキだけではない。魔道を知る者なら誰でもすぐに察したはずだ。だが、普段は不可視の精霊たちの姿を目の当たりにした者はいないだろう。
 武器を振るう者たちはもっと苦戦していた。手ごたえのない、雲をつかむような戦いに、ただ防戦の為に得物を振るしかなかった。
 
 宰相セフェラン。
 魔道に長け、サナキに魔道を教えたのは紛れもない。だが、こうして本当に人を傷つける為に、精霊を使役している姿を見たのは初めてだった。
 どんなに悪辣な言葉を発しようとも、どこかに優しさがあった。普段は穏やかで、民を愛し、腐敗する上層部に憂いていたセフェランと、目の前にいる冷徹な男は、別人のようだった。
 精霊たちの間から、セフェランの青白い面立ちが覗き、黒い瞳はちらとサナキを見たような気がした。いや、サナキは別人であって欲しいとつとに願っていた。あれは宰相ではない。あんな冷たい表情をするような男は、わたしの傍にはいなかった―――

 精霊とは別に、セフェランの頭上で強い光が弾け飛んだ。思わず腕で頭を庇うと、むき出しの肌がびりびりと焼けて痛みが走る。光に目が慣れると、肩や袖から覗いた腕は真っ赤になっていた。周囲で呻きが上がり、サナキははっと首を巡らす。精霊の力に慣れていないラグズや幾人かの勇士が、まともに光を受けてうずくまっていた。セフェランの残酷な行為と仲間の状況に、サナキはうろたえるだけだった。
「サナキ様」
 堅い少女の声が、サナキの耳を打った。
「お辛いのはよくわかります。わたしも、あの場に弟が立っていたなら、あなたと同じ思いをしていたでしょう―――」

 ―――ねえ、サナキ。あなたを本当は連れて来なかった方が良かったのかもしれない―――

 ユンヌがサナキに言った言葉を思い出す。
 彼女は知っていたのか。正の女神の門番が誰なのかを。
 まっすぐな金の瞳に見据えられても、震えは止まらなかった。胃が握り潰されるようで、呼吸もままならない。
「す、すまぬ」
 声を絞り出し、弱々しくしわがれた謝罪がサナキの口から出る。叱責はないものの、強い口調でミカヤは言い放つ。
「無理に戦えとは言いません。ここを離れていてください」
「そ、それはできぬ!」
 サナキは頭(かぶり)を振った。相手がどうであれ、ここは戦場だ。セフェランとは戦いたくない。だが、仲間を見捨てることなど考えられない。
「ならば」
 ミカヤは一冊の魔道書を差し出した。彼女がいつも胸に抱いて戦っていた本だと、表紙の紋で気付く。
「わたしは仲間の回復を手伝わなければなりません。幸い、光と闇の精霊はここにはいません」
 魔道書と、彼女の言葉でサナキは全てを悟った。強く頷くと、ミカヤの手の魔道書を取る。慣れぬ精霊の感覚が、ぴりぴりと指先から走った。手荒いだと、サナキは直感して魔道書を抱く。前方を見据えれば、未だ満天の空を思わせる光景だった。
 
 
 精霊がなぜ容(かたち)を顕わしたのか。
 それは誰にもわからなかった。普通ならば精霊たちは、魔道士の言葉に従い、それぞれの物質に姿を変化させる。だが、今の"彼ら"は自らそのものをぶつけに来ているのだ。どれが炎の精か、風の精なのかは、ぶつかってみないとわからない。魔道士でない者は、ぶつかってもわからないだろう。
 

 ―――サナキ様。
 光魔法は、僧侶たちもよく使っておりますが、実は闇魔法と同等に難しい魔法なのです。
 ただ気難しい反面、優しさもありますから、正の気の強い回復魔法を使う僧侶には比較的懐き易いのですよ。ただ、それは簡単な光魔法に対してだけでして、もっと強い魔法となると、手のひらを返したように……時には人の体、或いは大切なものと引き替えでないと、契約に応じてくれない時があるのです。

 ―――神使様。
 光の精霊が好むのは魂です。人の身体は好みません―――きっと、お師匠様は神使様をからかったのでしょうね。

 どちらが本当なのか、サナキは見当もつかない。
 実際に、光の精霊はサナキの使役により動いてはいた。精霊たちの具現化は本来の姿を歪められているようで、光の精霊は悲しみと怒りを歪められた眷族にぶつけていた。サナキの命、というよりも己の感情が先立っているゆえに動いているようにも思える。
 そのせいか指先の皮膚に、先刻のセフェランの攻撃のような痛みを感じる。同時に、脳裏に記憶の断片が浮かんでは消え、その中に育ての親を見つけては、指先から放たれる光は大きくぶれる。サナキは唇を噛み、光の魔法を保つことに集中しようとした。
 愛する者は記憶とは対照的に、無表情でこちらを見据え、次々と精霊を浮かび上がらせたかと思うと、光の衝撃波を容赦なく放つ。
 あれは誰か。
 確かに、今までのサナキの人生の中で、最も大切だった人物だ。頭の奥底で、そう答えが返って来た。
 お前は、騙されていたんだよ。
 元老院どころか、あの男にさえ。あの男は"何者でもない"。"我々"と無理矢理契約を交わす前から、"何者でもなかった"。あの男から得るものなど、粗方喰らい尽くされていた。だから、命を徐々に喰らうつもりではあった。なぜなら、最初は―――

 
 どこからかする声ではなく、目の前の光景とおぞましい呻き声に、サナキは意識の全てを奪われた。
 皆の胆力の賜物か、精霊たちの数は次第に減り、セフェランの周囲が手薄になりつつあった。その隙を狙って勇士の剣が細身を薙いだ。だが、強靭な肉体を持つも、無数の目に見えぬ攻撃に疲労が来ていたようで、剣先は鈍り、更に剣めがけて主をかばうように残りの光の塊が集まる。負の女神の加護を纏った剣は、光の盾と肩口を浅く斬ったのみに至った。だが、畳みかけるようにして、獣の戦士が、護るものの何もなくなった黒髪の背中に飛びかかる。白い僧服と皮膚が一度に抉られ、血飛沫が背中から噴き出した。男は激痛に身を屈めると、大量の血が天上に向かってまっすぐに噴き上げる。その様子は、赤黒い羽根のようだった。

「うっ、っああああああああっ」
 サナキは悲鳴を上げ、セフェランの許へ駆け寄った。だが、近くまで達すると、足が錆び付いたようにぴたりと止まる。
 うずくまる背中は血に染まりながら破れ、その間からは、明らかに噴出する血ではないモノが背中から突き出ていた。
「セフェっ、セフェラン……!」
 サナキはそれを目に入れぬよう、深手の男の傍に屈んだ。滝のように流れる黒い髪の間から、混濁した瞳が覗き、再び体を硬直させる。
「だ、誰か、回復の杖を……!もう勝負は決したではないか!」
 がたがたと顎を震わせながらも、サナキは後ろを見上げて叫んだ。だが、誰も堅い顔のまま、女神の門番を見下ろすだけだった。
 頭ではわかっている。セフェランの所業の重さを。しかし、それでもサナキにとっては大切な家臣で、家族だった。助けてくれるなら、共にに罪を被る。そのつもりで、サナキは懇願していた。

「……め……い……」
 背後で掠れた声がし、サナキは振り向いた。
 そこには変わらず目をそむけたくなるような形相の男がいた。血飛沫が舞うのと同じ早さで命が消えて行くのは誰の目にもわかった。回復の杖でも、その速さを遅くすることすらできないだろう。サナキにもそれは分かっていた。背中の塊は、ところどころに羽毛のようなものが生え、それが黒いのだと気付いた。不格好に骨が付き出し、翼とは言い難い。
 首を振るサナキの真似をするように、男の黒い髪も震えた。
「だが、だが、お主は何も言ってはおらん。何者なのか。なぜこのようなことをしたのかっ!そなたの口で説明せよ、それを説明してから罰を受けよ!宰相セフェラン!」
 精気の薄れ行く瞳が、ふと細くなったような気がした。小刻みに体を振るわす度に血が溢れ出、それでも彼は腕を動かし続けた。誰が見ても血の気のない手は、宝玉を掴み、サナキの目前にだらりと落ちる。
「形見とでも言うのか?受け取る訳がなかろう」
「サナキ様」
 サナキの肩に、ふわりと手が置かれた。自分と同じ金の瞳が、憐れみを含んでいるのを知り、涙をためて睨みつける。
「もう、おわかりでしょう。彼はそう望んでいるのです。それに、扉の鍵は彼の命」
「だが、だが……」
「…………」
 肩でひゅうひゅうと息する中、声らしきものが男から出る。ミカヤは男の心を読み取ったのか、ゆっくりと瞬きすると、何かを呟く。
「あなたのことを許せるはずもない。わたしは、"既にデイン人なのだから"」 
「……っ……っ…っ……」
 笑っているのだと、しばらくして気付く。
「こ、の……いたみ……セ、リ、ス……で、ベッ、ク……にむし、りと、ら……れ、た」
「何?何だと?」
 サナキは流れ続けるセフェランの血に衣が染まるのも構わず、彼に耳を傍立てた。だが、その後はぜいぜいと肩で息をするだけで、その呼吸も次第に弱くなっている気がした。
 傍で立ちつくしているミカヤもまた、青白い顔で見下ろしていた。ミカヤの中に、濁流のように記憶が痛いほど流れて伝わって来ていた。彼が何者で、何を見て、なぜ人に絶望したのか。心を閉ざす力も残っていないのだろうか。それとも、わざとそうしているのか。
「い、き……な、さい……わ、が……よ……」
「駄目だ。セフェラン。お主はまだ生きるのだ。生きて、皆に謝罪せよ。謝れ!生きて償うのだ!」
 駄目だ。
 嘘だ。
 サナキはどくどくと心臓を波打たせながら叫んだ。
 ペルシス公爵がどんな出自であろうと、サナキには関係なかった。細身の長身で、でも、手は大きくて、何か良からぬことを考えてそうな笑みが好きだった。大好きだった。彼が、自分の前からいなくなる、ましてや敵対するなど思いもよらなかった。目の前で、永遠に別れることになるなんて―――
 あんなに大きかった手のひらは、血が流れ尽くした為か、一回りも小さくなっているように見えた。骸骨のような指が最期の力で宝玉をサナキに押しやる。無理矢理サナキの手中に収めたのと同時に、男の細い身体は完全に崩れ落ちた。
「セフェラン……?嫌じゃ。死ぬな。死んではならぬぞ!セフェラン!」
 何度揺すろうも、男の体はぴくりとも動かなかった。男の血液同様、サナキの涙も滂沱に出ているはずなのに、止まることはなかった。

 背後の蠢く音で、サナキは己の立場をようやく思い返すことができた。涙をすすりながらも、立ち上がる。
 仲間たちは、男に様々な思いを抱きながらも、最後まで男を庇い続けたサナキを責める様子はなかった。意識はすでに扉の向こうの正の女神に向かっていたからかもしれない。
 サナキもよろめきながらも立ち上がり、後に続こうとする。もう泣いてはいられない。彼は行け、と言った。今となってはその言葉に従う他にない。大切な家臣の命と引き換えに開かれた扉の向こうで、ベオクとラグズが生き延びる道を拓くのだ。
 一歩足を踏み出した途端、手に痛みが走る。銀の装飾がなされた宝玉を、指の色が変わるまで強く握っていたのだ。望まずとも形見となってしまったそれにサナキは目を向ける。宝玉の奥で深い紫の光を放っていた。珠を飾る銀の縁には、古代文字が彫ってある。贈り主の名に、サナキは目を見張る。そして、宝玉を懐にしまい、扉へと向かった。

 その小さな背中を見送り、ミカヤは祈りを始めた。
 ユンヌはただ泣いている。無理もない。アスタルテから消滅せんとされる所を救った本人であり、メダリオンに封じられてからも、優しく歌で慰めてくれていたその人なのだ。
 そこまで、人を信じれなくなってしまったのか。
 ミカヤ本人も、ベオクに迫害されて生きて来た。頭の堅いラグズに逢えば、その場で殺されていただろう。だが、人を恨んだことはなかった。自分がそういう存在だからと、諦めていたものある。だが、時折触れる人の優しさが、ミカヤには暖炉の火よりも貴重だった。
「泣かないで、ユンヌ」
 胸の奥底で、こくりと小さな頷きを感じる。
 彼女と同じく、彼を大切な者と生きて来た少女は、すでに立ち上がっているのだ。とても強い子。ミカヤは揺らめく深い紫の髪が扉の向こうに消えて行くのをずっと見ていた。その色は、ミカヤにとっても懐かしい色と感じるのは、男から受け取った記憶によるものなのだろう。あんなにも似ていては、彼もさぞかし困っていたろうに。
「さようなら、エルラン」
 謡うような別れの声は、漆黒の髪に吸い込まれて行った。 



終話


11/04/06   Back