箱庭より出立て

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 デイン王国とクリミア王国は、テリウス大陸の北にあり、二つの国はオルベリス海峡により隔たれていた。両国が産声を上げたばかりの頃は、その海峡が文字通り溝となり、互いの領地へ行き来するには南のベグニオンを通らなければならなかった。しかし、その後に宗主国を介し正式な国交が結ばれた証として、海峡をまたぐ橋が建設された。海峡の名そのままの橋はその後、両国の流通の一端を握るようになり、ベグニオン帝国に劣らぬ財政の支えとなった。
 
 オルリベス大橋が架けられて五十年余り。二国の商人と旅人が絶え間なく往来する橋は、鉄の鎧と武装した馬、滑空する竜の影で黒く覆われた。普段どおりに塗り固められた石を踏んでいた商隊は、けたたましく響く馬の蹄に恐れおののき、それぞれが慌てて引き返す。間に合わぬ者は馬車ごと軍馬に跳ね飛ばされ、深い海に吸い込まれて行った。デイン、クリミア両国の者「平等」に。

 オルリベス大橋を渡り、クリミア国最初の土地にはデルブレーという名がついていた。当時の領主は、国王から一つだけ重大な密命を受けていた。彼自身は王都メリオルから離れていたのだが、秘された使命を果たしたあかつきに、王城へ上がる事ができると信じながら領土に座していた。
 オルリベス大橋よりデインらしき軍勢が押し寄せているとの報を聞き、デルブレー伯爵は最初で最後の軍隊の指揮を執った。地方領の私兵らは奮闘虚しく、軍事国家の軍勢の前には脆く崩れ去った。滅びる前にと、デルブレー伯爵自らも致命傷を受けながら、王都へ伝令を走らせた。しかし、その兵もあえなく矢を受けて倒れ、王都メリオルではいつもと変わらない日常が送られたままであった。危機が目前に迫るまで。
 
 デインが国境を侵したとの報を聞いた時、真っ先にメリオル、もしくは近隣の諸侯へ兵を走らせていれば。それがジョフレの父デルブレー伯爵の失態だと、宮廷の内務官たちは異口同音に告げた。
 会議室に二列に並べられた長机。ジョフレにはその席はなく、入り口に最も近い距離にて跪いている。十五脚の椅子は、それぞれ名と職の華やかな男たちで埋まっていた。そして、ジョフレの真向かいには新たに冠を抱いた女王が。今、彼にとっては女王座する場所が千里の距離に思えた。
 その女王は、乳兄弟を救おうと口を開くも、諸侯に体よくその機を奪われていた。
「女王陛下は、過ぎた事を問わぬと仰ってはいるが、この責は看過できまい」
 一人の言葉に、他の者たちも強くうなずく。ただ二人を除いて。
「本来ならば裁判をかけられても文句は言えぬ。しかし張本人は既に女神の御許。ならば、その親族が代わりを勤めても道理から外れまい。これから重要な職に就こうものなら、なおさら」
 勿体ぶるようにゆっくりと告げられ、ジョフレはそこから紡ぎ出される言葉を推測する事ができた。垂れた頭の影で、眉間を寄せた。
「ジョフレ将軍」
 名を呼ばれ、ジョフレは顔を上げた。表を上げても、罪人を見るような視線と、女王への距離はなんら変わりはなかった。
「宮廷騎士団長の職か、デルブレー領及び伯爵号。どちらかを選びたまえ」
 予想とはいささか違うが、それでも驚くべきものではなかった。選ぶ権利を与えられたのは、せめてもの慈悲なのだろう。平穏な心の波の中、ぼんやりとした記憶の中の父とデルブレー領が脳裏に浮かび上がる。
 本来ならば、宮廷騎士団長の地位など、ジョフレにとって過重な責だった。だが、生存している将軍のうち、実際に馬にまたがり軍の指揮執れる者はジョフレただ一人だった。この現状にて、己が何を手にするべきかは充分に理解していた。薄れた記憶、そしてこれからもそれは濃く色付く事はないであろう風景にしがみついている場合ではない。

「クリミアを建て直す事が最も優先されるべき事。その為ならば、デルブレーの名と領地は喜んで陛下へお返しいたしましょう」
 満足気にうなずく貴族たちを余所に、ジョフレはまっすぐにエリンシアだけを見ていた。不安げに見つめ返す主君に、ジョフレは軽くうなずく。かの言葉に偽りなどはなかった。
  


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