箱庭より出立て

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 バルコニーにて揺り椅子と母の膝の舟に揺られ、まどろみの世界へと入ろうとしている時だった。なだらかな丘を滑るように走る馬車の音で、三歳のジョフレはその世界から引き戻された。
 ぱちりと大きな目を開き、心地よい膝から飛び降りて、石の壁に組まれた鉄格子にかじりつく。「危ないわよ」という声は、徐々に大きくなる車輪の音がジョフレの耳に届く前に払ってしまった。
 幼いジョフレの頭に影と、「あら」という母の驚きが混ざった声が降りた。
「ちちうえにしらせてきます」
 たどたどしい声は、母の耳には届いたが、その意味を理解するのには少し時間がかかった。そして、気付いた時には小さな息子の姿はすでに見えなくなっていた。

「ちちうえ」
 館の階下にて父の姿を見つけた時には、父デルブレー伯は見た事もないような豪奢な服を纏っていた。正確には、社交用の上着を羽織っただけではあったが、それでもジョフレの瞳には、ぴんと伸ばされた背筋も手伝って父親がまるで別人のように映った。ジョフレの幼い声にデルブレー伯爵は柔らかに笑う。
「ジョフレか。丁度いい。降りてきなさい」
 手招きに、ジョフレは弾かれたように階段を下りる。膝下まである父親の上着にしがみつくと、大きな手が空色の髪に置かれた。
「これは長男のジョフレです」
「それはそれは」
 父の目の前にいた男は、難しそうな顔を一変して微笑んだ。以前遊びに行った村の村長に似ている。そう思うも、ジョフレは父の上着にしがみついたまま、口を貝のように閉じた。
「これ。挨拶しなさない」
 父は咎めるが、王都の使者は笑みをそのままにうなずいていた。男は向き直ると、手にしていた書簡をデルブレー伯爵に渡す。
「先日、王妃殿下が姫君をご出産なされた」
 その言葉に、デルブレー伯は書簡の封蝋を開けようとする手を止めて使者を見る。
「何ですと」
 デルブレー伯は、生まれてより三度、クリミア本城の門をくぐった。一度目は少年の時に、若き王太子の婚礼の儀にて。二度目は成人したばかりの頃に先王の葬儀で。三度目はそれからすぐに新王の戴冠式。メリオルの土を踏むたびに伯爵自身、そして王太子夫妻もたくさんの年を重ねていた。次は御子の誕生祝いかと考えてはいたものの、それから十年以上経っても実現されなかった。
「王妃さまのお体は無事であろうか……」
 伯爵の記憶ならば、王は五十近く、王妃はその一回り下だったはずである。初子の出産に耐えうる体ではないはずだ。その不安を打ち消すように、使者は強くうなずいた。
「ご心配には及びませぬ。安静にされてはいるが、順調に回復されているとの話です」
 その言葉に安堵に息をつき、手中の書簡に意識を移す。恐らく姫君誕生の祝賀の宴への招待状だろうと封蝋を割る。ちらりと足元の息子に顔を向け、「お前も行こうな」と微笑んだ。しかし、視線を書簡に戻すと、祝いに染まっていた身体が氷の矢に射抜かれたようになる。
「ちちうえ?」
 息子の声で、ようやく我に返るも、開いた口から出た声は震えていた。
「ジョフレ、母上、それと姉上も呼んできなさい」


「ジョフレよ」
 仮の補修が目立つ武器庫に、友人の声が響く。目線を動かす事なく、会議は済んだのかと、胸中でつぶやいた。
 兵士と集まった武具の確認のために書類を挟んで向かい合っていたのだが、その腕を文官の男に掬い取られ、積み上げられた木箱の影に引かれて行く。
「いいのか。あのままで」
「いいも何も」
 もう宣言した事だ。と淡々と告げる。
 罪人扱いは腑に落ちないが、それで周りが満足ならば波風は立たない。そのためなら、生まれ故郷もくれてやろう。宮廷騎士団長の職を選ぶと告げた時も、罪悪感も惜しむ心もなかった。だた、ひとつだけ申し訳ないと思ったが。
「姉さんには悪い事したかもしれん。おれとは違ってあの地は姉さんには思い出もたくさんあっただろうから」
「ルキノ殿か」
 そう言うも、もし姉も自分と同じ立場なら、同様の答えを返しただろうとジョフレは予想していた。彼女も、思い出と領地とその税収よりも、エリンシアの傍を選ぼう。己の選択に諸手を挙げて賛成してくれるに違いない。
「だがね、我輩の危惧は君たちの美学のためだけではないのだよ。おそらく諸侯の誰かがデルブレーの土地と伯爵位を狙っての一計であろう」
「だろうな」
 祖国奪還後、宮廷へ集まった者はほとんどが領地も爵位もない下級文官たちであった。戦前より栄華も重職も持つ者は、そのほとんどがデイン軍の刃にて切り伏せられてしまった。それにより空いた席と家名を奪わんと、生き残った者たちが目を光らせている。そんな現状にジョフレは目を背けたくなる時があった。
「楽しみではないか。誰がデルブレーを継いでくれるか」
 珍しく皮肉気に頬を上げるジョフレをユリシーズは一瞥した。
「そうだ。時間があるなら離宮へ行ってはくれまいか。姉さんが離宮から王家の居城へ色々運び出しているんだ」
「おおそうか!ルキノ殿の事。我輩からの贈り物を抱いて会えぬ日々に涙しているに違いない」
「姉さんの私物はほとんど焼け落ちたか持ち去られたらしい。引越しが楽だと言っていたぞ」
 大仰に腕を広げるユリシーズに、ジョフレは淡々と事実を告げ、己を待つ部下の下へと体を向けた。


 離宮。
 ジョフレにとっての故郷はクリミア城を遠くに臨む小さな館だった。物心ついた時からそこにいて、母と姉、そして王女エリンシアがいた。大きくなるにつれ、ジョフレの胸にはエリンシアへの忠義も育つが、自分がメリオルより遠く離れた領地デルブレーの嫡男だという事は、ぼんやりと心の片隅に落ちていた。
 順調に背が伸びていく中、ある思いが大きく芽生えていた。離宮へと足繁く訪れる者はわずかであるが、その数少ない人物の一人は、一国の君主夫妻よりもジョフレにとって天の頂のような存在だった。大人になれば、彼に手が届くようになりたい。名実ともに、姫を守る騎士になるのだ。その胸の内を、ある日ジョフレは彼の人物に告げた。六歳か、七歳の時だった。
 その言葉を聞いた時、彼は整ったばかりの髭を満足そうに動かした。
「それは嬉しい言葉だね。有望で若き人材が集うとは」
 肩に大きな手が置かれると、ジョフレはぴんと背筋を伸ばした。まだ幼い少年には、今すぐにでも、遠目に見た騎士の宣誓がなされると、疑う隙間もなくその思いで満たされていた。
 だが、クリミア宮廷騎士団長を務めるこの紳士は、片頬と髭を上げて思わぬ事を口にした。即座に落胆と驚きが混ざった顔を見た彼は、なだめるようにジョフレの青い髪を撫でる。
「デルブレー伯爵の大切なご子息を騎士などと泥臭いものにしようというのだ。当然お父上の承諾が必要だろう。なに、無事ご認可を得たあかつきには、私の特設騎士団『ウーマ・クー』の一員に命じよう」
 その言葉で、暗い影を落としていた顔が再び紅潮する。言っている事はほとんど理解できなかったが、つまりは、デルブレーにいる父より騎士になる道への承諾を受ければいいのだ。そうすれば、クリミア騎士。その中でもレニングの特別な存在になれる。ジョフレの心が弾まないはずはなかった。

 毎年夏になれば、姉弟と母はデルブレーへ帰っていた。しかし、その年はジョフレ一人で帰郷すると自ら肉親に告げた。夏になる、ほんの少し前。
「わたしもいっしょに」
 そう言ったのは、毎年夏の離宮に一人という酷な仕打ちを受けている姫君だった。ジョフレ一人の旅という、普段とは違う様子に、今回は着いていけると感じ取ったらしい。
 見上げている可憐な瞳を推して、ジョフレは守るべき主の手を握った。
「今回はぼく一人で行かなければならないのです。この旅を終え、無事に離宮に帰ればぼくは騎士になります。エリンシアさまをお守りできる騎士に」
「ジョフレは、もうわたしのきしよ」
 不思議そうに首をかしげる姫に、ジョフレは小さな膝を折った。
「そのお言葉が何よりの宝」
 そう言うと、小さなジョフレの手よりももっと小さな手を取って、軽く唇を押し当てた。小さな騎士が誰よりも尊敬するクリミア王宮騎士団長により教わった騎士としての所作だ。この頃のジョフレは、社交慣れした貴族の子弟を思わせるような事も平気でやってのけた。成人してからは、思い返す度に赤面するほどに。
 母がまとめてくれた鞄を抱え、身を乗り出すようにして馬車に乗る。閉まった扉の小窓には、見送る三人が納まっていた。ジョフレ一人が早く行くだけで、後から母と姉がやってくる。しかし、それでも小さくなって行く三人は、心細さを育てるのには充分な肥料だった。


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