箱庭より出立で

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 メリオルより三日ほど馬車で揺られれば、クリミアの最東のデルブレーに着く。ユリシーズに強く勧められて故郷へ向かっていた。クリミア本城での仕事へ尾を引きながら。
 最後にこの街道を通ったのはいつの日かと思いを馳せるも、記憶の中の道とは打って変わって穴やへこみの激しい悪路と化していた。デイン軍が残したらしき焦げ跡や朽ちた槍らしき柄が突き刺さっている。思い出に浸るには、その水かさでは、クリミア襲撃のあの日までだった。あの日と同じ澄んだ空の下、大きくなって行くデルブレーの屋敷を眺めながら、無意識に左手を強く握った。
 
 あの時も、ルキノは変わらず離宮にいた。守るべきたる王女エリンシアは、刺繍の手習いの最中で、ルキノは隣室にてそれが終わるのを待っていた。エリンシアが手にしていた、白い木綿の中央に咲くネメシアの青は、今でもはっきりと脳裏に残っている。
 
「ここにいたのね」
 明るい茶色の樫の扉から、ルキノの母が顔を覗かせる。当の娘は本から顔を上げて、扉へと歩み寄った。
「姫様の所へ行ってもあなたはいないから」
「エリンシア様は手習い中です……! 」
 母は娘の非難の声にも構わず、平然としていた。一国の王女の居する館ではあるが、乳母とその子どもたちも同様に寝食の場でもあった。しかし、エリンシアの傍に仕えている身だというにもかかわらず、乳母は自分が屋敷の主とばかりに物顔で離宮を歩く。しかも、ルキノ一人を除いて、それを咎める声は聞こえない。母自身も、それを反省するどころか、逆に娘を見上げて不満そうに口を開いた。
「なぜあなたも一緒に刺繍を習わないの? 」
 そう問われ、ルキノは口を噤んだ。
「わたしの趣味では」
「姫様も初めはそう言っていました。指に針を刺して何度わたしに泣きついた事か」
 始まった。ルキノは内心で頭を抱える。逃げ出そうにも、普段より理由にしている主君は別室だ。
「ですが今では複雑な紋様もお手の物。クリミアの高貴な方であるにもかかわらず」
「ええ、そうですね」
 従順そうに相槌を打つ娘を母はちらりと視線を送る。そして、再び大仰な素振りと共に口を開いた。
「クリミアの女として、あれ程までとはいかなくても、嗜む程度の腕は必要だとは思わない?」
 実のところ、思ってはいない。針仕事を軽んじている訳ではないが、食指が向かないもの確かだ。それに気と腕が向く者がやればいいと思っているのがルキノの主張だった。だが、
「針は持てなくても剣は持てるというのも、いかがなものかしら」
 窓の外へ向けられていた視線が、急にルキノを捕らえる。ルキノは溜息をつき、腰に下げている剣の鍔に手をやった。
「剣はわたしが必要だと感じたから手にしただけです」
「武は男どもに任せておきなさい。あなたには、あなたの役目があるはず」
 このやり取りを何度交わした事だろう。ルキノが剣を習い始めた時、母は露骨に怪訝な顔をし、事あるごとにこうして小言が繰り返される。それでも、ルキノは自分の意志を曲げるつもりはなかった。
 主張のぶつけ合いに母も飽きたのか、はあ、と盛大に息をつく。そんな事を言いに来た訳じゃなかったのよと呟きとは決して言えない声量で呟いた。
 ならば見つけた時に用件を言ってくれ、と娘の方は胸中で呟く。しかし、こうして貴族の令嬢の教養を拒否する娘を見て、口を出さずにはいられないのだろう。それは、ルキノにもわかっていた。
「これを渡したくて探していたのよ」
 大きく開いた袖から手提げから覗き、そこから小さな物が摘み出された。窓から差し込む陽にきらりと光るそれに、ルキノは意識を向けた。



 
「クリミア騎士になりたいのです」
 弟ジョフレがそうレニングに告げた時、ルキノは十になるかならないかの年頃だった。まだ子供ではあるが、自分の意思をはっきりと持ち、貴族の子女と同様の教養をしっかりと受けていた。
 そんなルキノが、弟のその言葉にえも言えぬ感情を抱いた。その感情が胸に居座る気持ち悪さも同じく感じながら。
 レニングの言付け通り、父デルブレー伯爵より騎士の道への承諾を受けた弟は、「帰還」の翌日よりレニング付の主従となった。それから数年経ったある日、幼い弟は姉にこう言ったのだ。

「外側からの守りと内側からの守りが十二分であって、防御はより完全に近づくのだとレニング様はおっしゃっていた」
 最初は、軍事の師より教わった事を披露しただけだと受け取っていた。しかし、十を少し過ぎた頃の弟は少し大人びた顔で、姉に向き直った。
「姉さん、おれは外からエリンシア様を守る。だから姉さんは内側からエリンシア様をお守りしてくれ」
 あの時に生まれた感情は、苛立ちと嫉妬の類である事に、この瞬間に気が付いた。姫に一生を捧げたはずの身が、自ら将来を望んだ事。もう一つは、それを強く思い描き、自らの手で実現せんと行動した事。
 ルキノは、弟を妬む芽を意識しながらも、弟の言葉に心を打たれずにはいられなかった。結局は、弟もエリンシアに身を捧げるべく騎士になろうとしていたのだ。

「わかったわ」
 ルキノは本心よりそう答え、弟の手を取った。それ以来ルキノも剣を手にし、エリンシアの盾とならんと腕を磨いた。それだけではない。離宮付きの家庭教師、それに当時レニングの秘書官の末席に属していたフェール伯爵家の嫡男より、宮廷内の政の話に熱心に耳を傾けるようになった。「姫様の事は絶対に言わないから」と堅く約束し、社交も盛んな貴族の世話係も申し付かった。上辺だけが交わされるサロンに招待客として出向くよりも、はるかに貴族たちの本音が聞けたからだ。

 それがルキノなりのエリンシアの護り方だと信じていた。帯剣している事を、母だけでなく、周囲からも好奇の目で見られようが弟と交わした誓いは絶対だった。ただの貴族の姫だけでは、密かに生まれたエリンシアを護れるはずはないと考えていたからだ。


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