箱庭より出立て

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 主を失って久しい屋敷は、人災と天災の双方の手により、あちこちに大きな傷を生んでいた。何とか形を成している建造物を見て回っているうちに、荒廃している現実は、次第に淡く彩られた過去へと脳裏が求めていく。
 小さな子供だった頃。珍しく難しい顔をした父に呼ばれ、これからメリオルの離宮で母と弟とで暮らすのだと言われた。七歳のルキノは、生まれた地を離れるのを拒んだ。母や小間使い達は、自室に篭る伯爵令嬢を必死で宥める事になる。
 メリオルでの暮らしの素晴らしさ、そこにおわす小さな姫の愛らしさを説かれ、最終的には父から命令だと厳しく言われ、泣く泣く荷物を纏めた日。その時鞄に入れた手縫いの兎の人形は、クリミア奪還の後、離宮内を探したがどうしても見つからなかった。
 暗い顔でメリオル行きの馬車に乗った。涙で濡れた目で見たクリミア城の白い城壁は、晴れ渡った空に栄え、その美しさが却って牢獄に見えてならなかった。しかし、本城を過ぎ、小道を車輪が駆け、森を抜けた時、小さくも美しい離宮にルキノの心は揺れ動いた。そして、小さな城の一室に通された時に、ルキノの胸中を支配していた暗雲は綺麗に去って行ったのだ。紗の天蓋の中で眠る小さな姫と出会った瞬間、ルキノはデルブレー伯爵令嬢から、クリミア王女エリンシアの忠臣となった。


 食卓に無造作に転がっている皿と椀を見つけ、ルキノは思わず駆け寄った。ほこりだらけの机と染みなのか模様なのか判別がつかなくなっているテーブル掛け。その上に、文字通り転がっていた。うっすらと差す陽の光を、ほこりに覆われた鈍い銀が受ける。誰の物かは、考えずともわかっていた。

「若輩者の私が、聖騎士など」
「まあ、そう言うな」
「ですが……騎士叙勲の際も尚早と非難を受けました。それから十年も経ておりません」
「私が、クリミア宮廷騎士団長のこの私が、ふさわしいと思った者を推薦して何か問題でもあるのかね。若くして実力も部下からの人望もある君こそ、聖騎士になるべくと思ったのだがね」
「そうよジョフレ、叔父様がここまで言うのだから」
「身に余るお言葉ですが、私には高嶺の地位ならば」
「そう畏縮するでない。私は君が子供の頃から期待しておったのだ。何せ、特設騎士団『ウーマ・クー』の一員だったのだからな」

 その魔法の言葉で、ルキノの弟は聖騎士叙勲への決意を固め、冬が通り過ぎると、老兵たちに混ざり国王から誓いの剣を受けた。華やかさとは無縁の式典を終えた夕刻、国王夫妻がジョフレを訪ねて離宮へやって来た。一つの箱を持って。
 ジョフレはそれを低身低位で受け取り、中身をひと目確認すると、すぐに箱ごと故郷へ送った。我がデルブレーの家宝にすると誇らしげに誓言して。二年ほど前に鋳造されたその家宝が、この待遇だ。銀の表面には傷はほとんどなく、使われた様子もない。どのようにして食卓に転がってしまったのか、この状態でなぜデイン兵に見過ごされたのかはわからない。だが、何か妙な力を感じた。まるで、屋敷の留守を預かっていたとでも言いたげに光っているようにも。
 
 屋敷の壁の向こうから物音が響く。この三年間、住人と言えば鼠か蜘蛛か、またはこの銀の食器だった。壁紙の剥がれかけた壁に背を預け、中庭へ続く窓をそっと覗く。南の頂点を過ぎてもなお明るい光が、物音の犯人を透かしている。
 男が二人。寒さを充分防いでくれそうな厚手の上着が大木の陰で見え隠れする。当然ながら、見覚えはなかった。危なげな物を持っている様子もなく、ルキノと同じ窓から、しきりに屋敷の中を覗いている。その意図を汲み取れず、ルキノも二人の男の挙動を見ているしかなかった。
 二人の足が茂みから出た途端、ルキノの心臓は一瞬固まり、壁に身体をもたれさせる。殺気は感じられないが、友好的な感情も見えない。
 芝を踏む音が次第に近付き、白い手袋に包まれた指は、腰の剣へと自然に動いた。右手は柄を握りはせず、鞘を握る左手の上に。


 


 母が差し出したのは指輪だった。
「何ですか……?」
「指輪です」
 突然指輪を差し出され、ルキノは怪訝な顔を表に出さずにはいられなかった。よく見れば古い物らしく、銀の環は、光を受けて幾つもの小さな傷が浮き出ていた。
「見ればわかります。ですから、何で」
 その問いに、ルキノの母は考え込むように顎に手を当て、少しうつむいた。しかし、その頭はすぐに勢いよく上げられる。それにより生まれた風が、母の肩を覆っていたレースのショールをふわりと浮かせた。
「その年になっても指輪一つ付けていないから、とでも言おうかしら」
「わたしには必要ないのです」
 指輪は剣を握るのに邪魔だから、というのが本音だった。しかし、いま母に剣という言葉を出そうものなら、どれほどの説教が積まれるかわかったものではない。 
「殿方からの贈り物も全て断っているという噂じゃないの。まったく、あなたという娘は」
 結局は、小言が綿織物のように編み出されて行く。娘が貴族の令嬢らしい行動を取っていない事自体が、母の不満の原因らしかった。
「だから、母のお下がりでも付けていなさいという事です!いいですね! 」
 乱暴に言い放ち、母は娘の手中に指輪を押し付ける。返す間もなく、母は踵を返して部屋を去って行った。その背中をルキノは呆然と見るだけだった。

 扉が閉まる音は、轟音にかき消された。
 状況が理解できずに体を強張らせていたが、けたたましい音と悲鳴が外から聞こえ、窓に駆け寄った。空に幾つもの巨大な黒い影が横切る。竜だ。はっきりと目に捉える事はできなかったが、直感でそう答えを出した。
「―――ルキノ!? 」
 隣の部屋が勢いよく開かれ、エリンシアが駆け寄ってきた。顔色は青く、不安そうにルキノの顔を外を交互に見ている。
「ご安心ください。エリンシア様の御身はこのわたしがお守りいたします」
 姫もだが、己を落ち着かせるためにルキノはそう言った。未知の境遇への対処は不透明だが、何としてでもエリンシアの身は守らなければならない。それが、ルキノの使命だからだ。
「デインがっ!デインの軍隊が!! 」
 離宮付きの使用人の半狂乱の叫びは、悲鳴へと変わり扉越しに響いた。隣国の軍の名に凍りつく体に鞭を打つ。これからどこへ逃げて行けばいいのかすら見えてこなかった。
「お父様とお母様は……」
「レニング様がきっと安全な場所へ」
 両親の安否を呟くエリンシアの背中に右手を置こうとすると、手中が銀色に光った。考える暇を惜しんで、ルキノはそれを左の薬指に通す。部屋を通り過ぎた母が思い浮かんだが、もう会う事は叶わないのだと、心のどこかで告げていた。
 
 小さくとも頑丈な造りのはずの離宮が揺れていた。階下で騒ぎ声と断末魔が混じり合う叫びに耳を塞ぎたくなった。複数の荒々しい足音が完全に聞こえなくなり、ルキノはゆっくりと扉を開ける。しかし、ゆらりと被さる大きな影に声を失った。
「穴ぐらの小栗鼠が出てきおったか」
 ゆっくりとその影は口を開いた。まるで、この状況を愉しんでいるかのように大きな身体を揺らしている。小馬鹿にされているようで、ルキノは眉根を寄せた。纏う空気にすら気圧されそうになるも、それを払い除けるように男を睨み付ける。
しかし、男は長身に見合った長剣の柄で肩を軽く叩く。鍛え抜かれているであろう身体は、黒々とした鎧に包まれ、肩には真っ赤な外套を羽織っている。
「貴様、まさか、デイン王……」
 返答の代わりにデイン王アシュナードは口の端を上げた。棘に覆われた黒金の鎧が、塞いでいた廊下を開く。ルキノは息を飲み、背後の主君の悲鳴を聞いた。
「お、お父様と、お母様に何をしたのですか……」
 国王夫妻は、絨毯に伏して、いや転がされていた。二人の周りには、朱色の絨毯が所々でしみを作っている。命の灯火の所在はわからなかった。護衛の壁を押しのけ、エリンシアが両親の下へ駆け寄る。
「お父様、お母様……!」
 エリンシアの頬に涙が落ちる。姫の父と母は、ぼんやりとした瞳に娘を映していたが、口からは空気の流れとうめきしか発せなかった。
その親子のさまを、デイン王は悠然と見下ろしていた。
「そうか、お前がクリミア王女か」
 どうやら、ルキノとエリンシアのどちらがクリミアの姫が認識しかねていたらしい。エリンシアの存在は、出生の際各国の王族にのみ知らされていたのだが、姿までは晒してはいなかった。
 ルキノは震える体を抑え、剣を抜いた。鞘と刃のこすれる鋭い音に、デイン王は興味深そうに目をやる。
「ほう、我に向かうか」
 上げていた口角の角度をさらに上げる。離宮の衛兵を切り倒してからは、後は逃げ惑う人間ばかりだった。それらは全て兵に任せ、デイン王は目的の「獲物」を単身探し求めていたのだ。震える切っ先は、実践の経験の浅さか、それとも禍々しい鎧を纏う王に恐れをなしているのか。
 しかし、デイン王は剣を向けている相手に背を向けた。ルキノは構えを解きはしないが、驚きに目を見開く。分厚い鎧と毛皮で縁取られたマントで守られた背中に怒りを生むが、ただ睨むしかできない。
 殺気だった気配を背に受けながらも、デイン王は構わずに両親の傍で力なく座るエリンシアを見下ろす。
「王女よ、とくと見ておれ。国が滅ぶ瞬間を……!」
 その声が廊下に響くと同時に、デイン王は人の背ほどもあろう大振りの剣の鞘を投げ捨て、伏している老年の男女に刃を下ろす。三重の断末魔と一つの高笑いが廊下を支配した。
「きっ、貴様……っ!」
 顎を高らかに上げて笑う様子は、背中を向けていても狂人のそれだった。ルキノの中で足踏みをしていた熱がはじけ飛び、その狂った背中に刃を下ろそうと大きく踏み込む。しかし、分厚い布がひらめく音が鼓膜を打ち、血のように赤い布で視界が覆われた。それが、狂王の脇腹と手中の大剣を視界に捉えた時には、ルキノの身体は後方に吹き飛んでいた。壁に背中をしたたかに打ちつけ、ずるりと滑り落ちる。背中の痛みが全身を駆け巡り、次に額から鋭い痛みと熱に襲われる。デイン王の笑い声とエリンシアの泣き叫ぶ声がルキノの意識を引っ張りあげようとするも、屈辱だけを残し、身体を動かす力も床に溶け出して行く。

「姉さん!」
 頭上で、弟の声が聞こえた。
 ああ、ごめんね。こんなに無様で。せめてエリンシア様、姫様だけはお守りして、お願い。
 
 だらりと絨毯の上に伸びた手に、銀色の指輪が見えた。その先で絨毯を踏む弟の軍靴がぼんやりした視界に映った。

 だが、ルキノは生き延びた。
 デイン王の気まぐれか、それともただ興味がないのか。国王と王妃の命を奪うと、アシュナードはエリンシアを一瞥しただけで、すぐに離宮を去った。
 ジョフレより遅れてやって来たユリシーズに保護され、ルキノはデインの手が未だ伸びていない、彼の別荘地にて身体の回復を待った。
 その間、ユリシーズはゆっくりと現状を伝える。デイン王は、兵士のある程度の物欲と破壊欲を満たさせると、クリミアの支配を作業のように整然と行っていた。破壊、虐殺といった類は行われなかったらしい。無論、抵抗的な姿勢の者には容赦がなかったが。
「デインの輩はメリオルを手中に収めて、次は貴族の資産を接収し始めている。ここも時間の問題だろう」
「そうね。まずはガリアへ。エリンシア様も今頃はカイネギス様の所へ……」
「それが、妙な事になっていてな」
 ユリシーズは髭をたくわえた顎に手をやる。その口調も、表情も決して暗くはない。エリンシアの身に不穏な影が差した訳ではないようだが、ルキノは反射的にかぶりつくように主君の安否を尋ねる。
「そう早合点するでないよ。姫はご無事にガリアにいらっしゃる。だが、獣牙の国へ導いたのは、君の弟ではなく傭兵らしい」
「傭兵?」
「うむ。我輩がガリアへ遣った者によれば、団長はかなり若く、我が君と同じくらいの年頃だとか」
 若者ばかりの小規模な一団であり、なぜかガリア王がいたく気に入っているらしい。そう一通り「妙な事」を説明すると、今度は本題とばかりにユリシーズは向き直った。
「我輩はクリミア内に留まろう。君の弟も何とか隠れていると聞いた。友を放ってはおけん」
「クリミアに、残る……?」
 普段より、突拍子もない策を講じる彼だが、その危険な予定にルキノは驚きを声に表す。メリオルを拠点に徐々に支配の手を拡げているデインをかいくぐろうというのか。だが、彼の目的をルキノはすぐに図りえた。当然、ジョフレの身を案じての事ではない。
「無論、君はガリアへ。姫と共に、再興の機を待つがいいさ」
「わたしも残るわ」
 その言葉は、ユリシーズも予想外だったらしく、片眉を上げてルキノを見る。髪と同じ色の髭も戸惑いに揺れた。
「だが、君は」
「エリンシア様は安全なガリアへ身を置いていらっしゃる。だとすれば、こちらの方が人手が足りないんじゃなくて?」
 同盟国とは言え、王同士で交わした友情は国民にまで浸透してはいなかった。隣国の奇襲から逃れた姫に、国王が親身になっても、獣牙の民、王の側近までもが意を同じにしているとは限らない。身柄は安全だが、エリンシアの孤立は容易に想像できる。それを傭兵が埋められるとは、到底思えない。ならばルキノがガリア王城へ赴いてエリンシアの精神的な安寧をもたらす役目を務めるのが良策だとユリシーズは言うのだ。しかし、大きな目で見ればそれは祖国奪還の足を鈍らせるのではないかとルキノは考える。生き残った忠臣や兵をまとめるには、ユリシーズやジョフレだけでは手が足りない。クリミアに残らずとも、ガリアとクリミアの橋渡しになると彼女は告げる。
「エリンシア様には、ご心労をおかけするけれど、いち早く合間見えるならば」
 意思の固まった語気に、ユリシーズは了承の意でうなずく。
「女性を危険な目に遭わせるのは我輩の信条に反するが、背に腹は変えられぬよ」
 とは言うものの、すでに彼女は命を危険にさらしたのだ。ユリシーズの手はルキノ左のこめかみの辺りを撫でる。青い髪にすっかり隠れてしまっているが、デイン王の振るう鉄の塊の恐ろしさが赤黒く残っていた。直接刃を受けた訳ではないが、剣が起した殺気だけでここまでの傷ができる事に、現場を見てないユリシーズでさえ、肌が粟立つ。
「これ位、危険なものですか」
 決して強がりではない響きが、ユリシーズの耳に届く。そうでなくては。頬を上げると、口ひげも同じ動きを見せる。国家の為ならば、わが身も一つの駒と自覚がなければ、再興の小さな芽は一生見つける事は叶わないのだ。


08/12/10戻る

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