箱庭より出立て



 離宮は、長年の住人の遷居ゆえに、復旧の歩みは止まっていた。父母を殺され、多くの民も失った女王エリンシアは、侵略者たちの統治権も、賠償権も放棄した。メリオルと主だった貴族の領土と資産は奪われたものの、破壊と侵略の手はなぜかクリミア中に伸びてはいなかった。しかし、それでも踏み荒された跡の補修には、人手も資金も不足していた。
 離宮が近々閉鎖されると聞いたのは、ひと月ほど前だった。館は完全に取り壊され、デイン兵の手からすり抜けたわずかな調度品や金品は優先度の高い復興地に充てられる。故郷でもある小さな館が完全に消滅してしまうのは惜しくはないと言えば嘘になる。だが、主人のいなくなった場所に、感情だけで止めておく余裕はないのだ。
 それでも、時間が空けば、ジョフレは自然と足を故郷に向けていた。本城の裏庭から、隠すように森が小道を覆っていた。去年の春になろうかという季節。あれ程までに、この道が長いと感じた時はなかった。



 デインの奇襲!
 物見台を中心に、緊張を不安が広がって行く様だった。鐘が打ち鳴らされ、ジョフレの胸もそれに呼応して高鳴る。「武器を手にしたものから集合せよ!」という怒号を背に、騎士たちは武器庫に向かう。将軍職であったジョフレは、その号令を放つ方であったが、黒い鎧を身につけながら向かってくるレニングを見つけると、馬から降りて敬礼した。レニングの手は、若い将軍を落ち着かせるように置かれる。
「離宮に向かえ」
 その言葉に、耳元に寄せられていた口ひげから身を引いた。離宮、と反芻を堪えるのが精一杯だった。そこに行くのは自分ではなく、皇太子である彼ではないのか。しかし、レニングはジョフレの胸中を見透かしたように、首を横に振る。
「私は宮廷騎士団長としての責がある。君が行くんだ。エリンシアを頼む」
「ですが……」
「この緊急時だ。他の者にもエリンシアの存在を教えても構わんだろうよ」
 ジョフレは息を飲んだ。なぜクリミアの姫が、自分と共にずっと離宮で暮らさなければならないのか。何も考えずに過ごしてきた幼い時代から、成長につれて、それが理解できるようになった。そして、レニングは、その意味がなくなるのかもしれないと告げているのだ。自分が皇太子の位を享けた後に生まれた姫が、名実ともに外に出る時なのだと。
 レニングは早鐘が鳴り響く中、余裕を見せるように口ひげに覆われた口を歪める。
「何、クリミアはそう簡単に陥とさせはせんさ。さ、君は離宮へ急ぎたまえ。そして、ガリアのカイネギス王を頼るのだ。気合を入れろ。特設騎士団『ウーマ・クー』の最初の任務だぞ」
 笑顔で颯爽と去るレニングを見送ると、ジョフレは愛馬に飛び乗った。
「我が隊で集まった者はいるか!」
 慌てふためく騎士たちに一通り視線を送ると、喧騒の最中に一際響く声がジョフレの耳に入った。
「五番小隊、揃っています!」
 馬上で振り向けば、赤い髪の若い騎士が十名ほどの兵を従えていた。ジョフレよりも少しだけ年上の騎士に、付いて来るように命じる。その方角に、予想通り小隊長は目を見開いた。
「将軍、その方向は……?」
「黙って付いてこい」
 静かな命令に、普段より威勢が良すぎる部下も押し黙り鐙で馬の腹を蹴った。ジョフレの後方で、複数の蹄の音がする。澄んだ水色の世界に、黒い影が飛び交う。その一団とは別の方角へジョフレ達は駆けていく。

 陛下、王妃殿下、エリンシア様―――
 
 守るべく、三人の王族を思い浮かべる。エリンシア様は元より、お二人もきっと離宮にいるに違いない。クリミア城のどこかの窓が割れ、一隊の頭上に降りかかるも、それを振り払いもせずに裏庭を駆け抜ける。
「構うな!おれに続け!」
 悲鳴が響くが、ジョフレは振り向いて部下たちに一喝した。
 茂みに馬の足が入る。背後でケビンの不安そうな呼びかけがするが、振り返りも、答えもせずに手綱を引く。
 ご無事で、どうかご無事で。
 心臓がそう悲鳴を上げる。子供の頃から数え切れないほど往復したこの道が、永遠に続くように思えた。悪魔が道を引き伸ばしているのかとさえ。
 焦燥がジョフレの中で爆発する寸前で、木々の間から光が差した。そのまま進むと、まぶしい程に澄んだ空に包まれた小さな城が眼前に現れた。悲鳴と破壊の音が鳴り響く本城とは逆に、離宮は水を打ったような静けさだった。
 ここはまだ、デインの手が伸びてはいないという事か。
 ジョフレは安堵というより拍子抜けた息を吐く。だが、すぐに部下たちに向き直った。
「お前たち、おれは宮廷騎士団長殿より、特命を預かっている。これから何があってもおれの命令に従うんだ」
 短い承諾の返事は背中で聞き、ジョフレは下馬すると離宮の中へと駆け出した。空で先刻の竜騎士よりも一回り大きな影が飛び立ったが、その間にジョフレは離宮の扉をくぐっていた。
 
「これは……!」 
 ジョフレの身体が凍りつくのと、部下が驚嘆に呟くのは同時だった。
 侵略者の手は、伸びていない所か、すでに荒らしつくされた後だった。衛兵は無論、無抵抗だったはずの使用人たちも凶暴な刃の餌食となり、慎ましやかな蜜蝋色の壁は、真紅の模様が描かれていた。
 身体が震えを起こす。現状にではなく、己の命よりも捨てがたい者たちも、同じくデインの剣に貫かれた状況を思い起こしたからだ。
「生存者を、生存者を探し出せ」
 頭を乱暴に振り、部下たちにそう命を下す。残存のデイン兵がいる可能性にもかかわらず、ジョフレはエリンシアの居室のある三階へと駆け出した。長年育った館は、死屍の装飾で別の建物と見紛うばかりだった。
 一気に三階まで駆け上がり、広めの踊り場から樫の扉が見える。考える間もなく、その分厚い扉を開け放った。
「…………!」
 言葉が出なかった。
 見知った顔ぶれが倒れ込んでいる。恐怖が張り付いた顔で。エリンシアの身を守るはずの姉までもが崩れ落ちるように伏していた。
「姉さん!」
 一番近い場所に倒れていた姉に飛びついたのは、現実を見たくなかったかもしれない。姉は左こめかみ辺りを血で染めてはいるが、規則的な呼吸をしていた。幾度か呼んでみたが、返事はなかった。深く息を吸い込み、倒れている三人の現実を受け止めようとした時、頭上から声がした。
「ジョフレ」
 その落ち着き様は、かえって不誠実にも見え、苛立ちを生む。その反面うらやましくもあった。姉を抱える友人に一言だけ声をかけると、ユリシーズは平常な足取りで赤い絨毯の上に倒れ込む王族一家の許へ歩み寄る。ユリシーズは沈痛な面持ちで首を横に振ると、死者を慰める聖句を呟いた。
 国王と王妃の瞼を覆う仕草をじっと見つめていたが、そこで止まり、ジョフレは飛び起きるようにして叫んだ。
「ユリシーズ!エリンシア様は……!」
 希望をわずかに含んだ声に、ユリシーズは応える。
「我が姫君は君の姉上と同じく意識は深淵にあり。さあ、ガリアへ急げ」
 ジョフレはうなずき、エリンシアを抱えあげた。確かに顔は青ざめてはいるが、胸は緩やかに上下しており、暖かな肌も感じる。
「ルキノ殿は我輩に任せたまえ」
「ああ。ガリアで落ち合おう」
 その言葉には、ユリシーズは答えなかった。疑問が残るも、意識はすぐに抱えている姫の安全へと戻る。

「ジョフレ将軍!デインの残兵は捕らえましたが、生存者は見つかりませんでした」
 捕虜は捨て置かせ、代わりに馬車を用意させる。ユリシーズが離宮の馬車が残っていたと告げていた。それは、ジョフレやルキノもデルブレーへ帰る際に使用していた馬車であり、この窓から、寂しげなエリンシアが覗いていた。
 あれほど乗りたがっていた遠出の馬車に、このような形で乗ろうとは。
 決して喜ばしくはない初の外出に、ジョフレは運命の皮肉さを感じずにはいられない。
 柔かな背もたれにエリンシアの身体を預けた時、青白いエリンシアの顔が揺らめいた。小さな呻きが形の良い唇から漏れ、瞼も開かれる。
「……ああ……」
 エリンシアの大きな瞳に乳兄弟が映った時、涙が滲み出た。
「よくぞ、ご無事で」
 だが、その言葉は慰めにもならなかった。その証拠に涙のかさは増し、白い頬に流れ落ちる。ジョフレは夢中でエリンシアを胸に掻き抱いた。
「ごめんなさい、ルキノが、ルキノが……!」
「姉は生きています。お気を確かになさって下さい。どうか」
 主の父母の事はあえて触れなかった。恐らく、その涙に悲しみが充分に含まれているだろう。慰め合う抱擁はすぐに解き放たれ、ジョフレはエリンシアを残して馬車を降りた。不安そうにジョフレを覗き込む王女に、向き直る。
「今からレニング様の命により、ガリアへ向かいます」
「叔父様が?叔父様はご無事なの……?」
「レニング様は現在クリミアを守るためデインと戦っています。デインを追い払ったあかつきには、きっとエリンシア様をお迎えに上がられるでしょう」
 開け放たれた馬車の窓の縁を、エリンシアの白い指が食い込む。不安と無力さ。それが、指先を赤くさせていた。
「ガリアへの道中は、私がご案内いたします。だから、どうかお気を確かに」
 わかりました。
 小さな言葉は風に乗ってしまい、ジョフレには届かなかった。エリンシアに背を向け、ジョフレは馬に跨ると、部下達に馬の首ごと向き直った。
「我らはこれからガリアへとこのお方をご案内する!これに不満の者は遠慮なく離脱して良い!」
 異論、不満といった空気は流れなかった。この状況で、デインに立ち向かえるとは思えない。ならば、身を隠す意味でも半獣の国にいた方が幾分か「まし」かもしれない。一部の兵士はそう考えていた。
 全ての者がガリアへの護衛を応とすると、ジョフレはうなずいて隊の一人を御者に命じた。
「行くぞ!行く手を阻む者は倒せ!」
 ジョフレを先頭に、エリンシアを乗せた馬車は走り出した。


08/12/15 戻る 6へ

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