箱庭より出立て

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「ジョフレ将軍」
 ジョフレを追うようにして斜め後ろを走っていたケビンが、突然馬を並べてきた。
「つかぬ事をお訊きしますが、馬車の中にいますご婦人は……?」
 ケビンは後方の質素な馬車に揺れるエリンシアとジョフレを交互に見やる。ジョフレもつられてエリンシアに視線を向けた。馬車の中の姫は、不安と喪失感を色濃く染めた横顔で、流れ行く景色を眺めていた。
 クリミア王女の存在を明かしてから隊を抜け、敵に捕まりでもしたら後々が不利になると黙っていたが、この男になら告げてもよいのかもしれない。五番小隊長ケビンは貴族ではないが、彼の家系は代々騎士としてクリミア王家に仕えて来た功績により、数代前より姓を賜っていた。先祖に劣らない忠誠心は多少行き過ぎているように見えるが、今となってはそれは代えがたい資質だった。裏切りや密告と言った類とは無縁だからだ。
「あの方は、エリンシア=リデル=クリミアと申される。国王ラモン陛下と、王妃殿下とのれっきとしたお子だ」
 行く先に顔を戻し、ジョフレはそう言った。気配だけで、隣の男が驚愕に息を飲んでいるのがわかる。
「長年お子に恵まれなかったゆえに、レニング殿下を皇太子に置かれたのはわかるな。その後にお生まれになったのだ。だから今まで一部の者にしか存在を明かされていなかったのだ」
 敵の奇襲にも動じなかった五番小隊長は、青ざめた顔でジョフレの言葉を聞いている。激しい駆け足に揺られているも、その言は彼に着実に浸透しているようだった。
「わかりまし……」
 返事の声は大量の息とともに飲み込まれた。ジョフレも手中の手綱を握り直し、周囲を見渡した。木々に影よりも黒い影は広範囲に渡っている。二個小隊ほどいる。
「そこの馬車、止まれ!」
 影の中の一人が、そう叫んだ。先刻からいやというほど見てきた黒い鎧。無論、馬の足を止めるつもりはない。
「止まらなければ攻撃する!」
 デイン兵はさらに叫ぶが、後ろに控えていた他の兵士らが、叫んだ男と同列に進み出ていた。向こうも、穏便に済ます気はないではないか。ジョフレは内心で呟きながら、馬車が無事に逃げ切れる進路へと思考を巡らせた。
 デインの一隊は馬車を取り囲もうと半月のように弧を描いた隊列で進んでくる。森を突っ切ってきたせいか、相手は歩兵隊。こちらは全て騎馬。逃げ切れる可能性は充分にあった。
「将軍、突き抜けましょう」
 ジョフレと同じ意見―――すでにこの策しか残されてはいなかった―――をケビンが告げると、彼は馬首を隊列の後方へ向けた。その背中に無言でうなずく。馬車は止まってはいないとは言え、突然現れたデイン軍に、馬の足を鈍らせていた。
「全速で進め!怯むな!」
 ジョフレが叫ぶと同時に、背後で鞭のしなる音がした。最後尾を守るケビンの代わりに、二人の騎士がジョフレを挟むように進み出た。
 デイン兵も咆哮を挙げて槍を突き出してくる。半月体勢の中央をめがけて、ジョフレは馬の腹を蹴った。デインの槍が届く前に、一角を蹴散らして活路を見出さなくてはならない。

 突進するデイン兵の喉元に、次々と矢を突き立てる。相手の最前列の兵が幾人か倒れるのを確認すると、槍に持ち替えた。ジョフレと部下たちの槍が兵を突き刺すたびに、黒い鎧は地に伏し、森はうっすらと口を空けて彼らを歓迎し始めていた。
 大丈夫。何とか抜けられる。
 希望が確信に変わった瞬間、背後で高い悲鳴が聞こえた。
「エリンシア様っ!」
 首だけを後ろに向ければ、暴れ狂う馬と、激しく上下に揺れる馬車があった。御者を務めていた騎士の姿はすでになく、二頭の馬も、長い首に幾本もの矢と槍を受けていた。
「おのれ……!」
 ジョフレは熱くなった頭でエリンシアの許へ向かおうとしたが、制御不能となった馬車から王女を救わんとしたのは、後方にいたケビン達だった。そこで、ジョフレは己のやるべき事を思い出し、己を叱咤する。先頭の自分は、道を切り拓かなければならないのだ。
 痛みと恐怖で荒れ狂った馬たちは、無我夢中で暴れ、クリミア騎士どころか、襲いかかるデイン兵すらも怯ませていた。もはや馬車馬ではなく、制御の効かぬ凶器と化し、幾人かの兵を蹴り倒す。それでもなお矢を受けながらも、予定の進路とは違う方向へ走り出した。
「しまった……!姫をっ!馬車を追うんだ!」
 それは、デイン側も同じ思考だった。敵の指揮官も馬車を追うように命令すると、隊のほとんどはデイン兵の死体で舗装された道を辿る。だが、残った一部の槍の先は、標的を変えなかった。
 ケビンを初めとする、残った部下たちは一人を除いて全て馬車を追って行った。森は深く、もうすぐ夜がやってくる。まだ女神アスタルテは姫を見捨ててはいないだろう。願わくば、無事に逃げ仰せらせる事を。
 槍を握り直す。
「行くぞ。ここを片付け、姫をお救いする」
 隣で固唾を飲んで槍を構える部下に呟いた。
 できるならば、再会の喜びを与えられん事を。
 ジョフレの安寧の場所は、もう壊れてしまった。だが、姫の傍にいれば、それから姉と自分がいればそこがジョフレにとって、安らかなる場所なのだ。


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