鬱蒼とした森は、日光はまばらで、地面にまで届くのはその中のほんのわずかだった。
 そのわずかな光を頼りに、アイクは息を潜めて森を移動していた。でこぼこした木の根は、周囲に巡らしていた意識を簡単に切れさせ、何度も足を掬われかけるも、均衡をすぐに保って派手な転倒は免れていた。
 しかし、薄暗い上に慣れぬ土地勘、不安定な足場にアイクは想像以上に疲れていた。森の状況を考えて軽装でやって来たものの、マントと胸当てすらも重く感じられる。

 「目標」を追って、どれだけ歩いただろうか。
 慣れぬ地理に戸惑いがあるものの、他の仲間が記してくれた地図、それに所どころに付けた印がわずかな光にさらされる。アイクは募る疲労を押し込め、剣の傷の付いた幹に手を置いた。剣は、愛用の物ではなく、刀身は彼の肘の半分もない短い物だ。鬱蒼とした森では、長剣など邪魔以外の何物でもない。

 「敵」の気配も音も静かで、鳥が梢を騒がせる音だけが森に響いていた。この状況すらも不気味で、気配を極力消してはいるが、見張られている気がしてならない。だが、向こうに動きがあれば、何らかの形で自分に知らせがくるだろう。アイクはそう確信して森を進む。
 がさり、と音がすると咄嗟に身を低くし、近くの茂みに隠れた。
 呼吸は深くゆっくりなものとなり、じっと前を見据える。見つかってはお終いだ。そう言い聞かせながら、茂みの一部を指で掻き、前方の視界を広げた。

「敵」の姿も味方の合図もないようだ。だが、油断はならない事も充分にわかっている。「敵」は傭兵であり、長い間転戦を重ねているアイクよりも格段に上だった。彼もそれは認めざるを得ない。だが、負けるつもりは毛頭なかった。
 抜き身の短刀を口に加え、身をかがめてじっと待つ。バンダナが吸い取れきれない汗が、こめかみを伝った。

 亡き父との訓練、そして、父の仇と始めて対峙した時に近い緊張が圧し掛かっていた。汗は冷たく、己の身体全体を冷やしてくれるようだ。
 それが滴となり彼の顎を離れたと同時に、前方の左側の茂みが音を立てた。ぴりぴりとアイクの全身に電流のようなものが流れる。
 敏捷すぎて影しか彼の眼には映らないが、間違いない。ゆっくりと短剣を口から右手に変え、乾いた唇を舐めた。しかし、アイクが飛び出す直前、目の前の影にさらに大きな影が被さった。

「何っ」
 思わず短剣を手からこぼれさせ、アイクは立ち上がった。今まで息を潜めていた事すべてを台無しにするような大きな音を立てて。
 目の前では、木の根が張り巡らされた不安定な地面をものともせず、「敵」が軽快な足取りで獲物を追っていた。鹿はすぐにしなやかな両腕に抱えられる。軽やかに跳ねていた鹿も、最初は脚をばたつかせていたが、見かけよりも強靭な腕力に抵抗する術もなく、次第に四本の脚を大人しくさせて行った。さすがは森に慣れ親しんでいる獣牙族と言ったところか。
 だが、アイクは感心している場合ではない。すぐに我に返って食ってかかろうとしていた。
「ライ……!」
 珍しくうらみがましい視線を送って来る敵、いや友に獣牙族の青年は尖った歯を見せるだけだった。
「そんなに睨むなって。こんなもん早い者勝ちだろう」
 満面の笑みで鹿を抱え、早く本陣に戻るのを促す。否、とアイクは首を振ろうとしたが、すぐに奥歯を噛みしめたまま、ライの後を追う。天を覆い尽くさんばかりに枝を広げる中、陽は確実に西に傾いているのがわかったからだ。

 
「ああ、お帰り。アイク、それにライ殿も」
 二人の姿を見ると、炊事係となっていた青年な穏やかに声をかけた。普段仲の良い二人だが、一方は仏頂面の中でも不機嫌さを出しているのを彼も悟っているが、それは敢えて問わずにいた。なぜなら、この(一方的な)不和の原因を作ったのが自分にあると自覚しているからだ。
「これは随分といい鹿ですね」
「ああ。この辺は人が寄りついていいないみたいだったからな」
 人、とはベオクはもちろんラグズも含めての事だろう。デインとクリミアの国境は、戦時中な状況も含め、人の気配をあまり感じないと、鷺の王子も言っていた。
「追いかけていたのはおれで、こいつが横取りしたんだ」
 ようやく口を開いたアイクは、渋面のまま猫の友を指さした。
「横取りってなあ。名前が書いてあった訳でもなし。生存競争は厳しいのだよ、アイク君」
 はは、と乾いた笑いを浮かべてオスカーは踵を返す。ちゃんとアイクの分もあるから。と付け加えて。
 
 この場所に野営を構えようとした時、ラグズたちの何気ない会話があった。
 先述したように、リュシオンが人の気配の少なさを指摘し、彼の傍にいたヤナフが近くの森に獣が多くいると、右手を額に当てて言った。彼の浮立った様子では、単独でも狩りをして酒の肴を作ろうとしているに違いない。その様子を見たオスカーが、なら何頭か狩って料理してみたいとラグズの戦友に言ったのだ。普段は神使の計らいでベグニオンから充分な兵糧が送られてくる。だが、たまには保存を考えた食糧ではなく、新鮮な肉が食べたいと思っても罰は当たらないだろう。
 それを偶然耳にした肉好きの若者たちが、血気立って森へ行こうとしたのだが。リュシオンがそんな彼らに捕りすぎるなと釘を刺したのだ。そこから、狩りの競争が始まった。


 肉を求めるのは、若さゆえだと誰もが思う。剣を振るう事を生業としているのなら、なおさら。
 だが、若き将軍は、ラグズに負けず劣らぬ食欲を披露していた。ライに負けた事への憂さ晴らしもあろうが。アイクに分けられた肉は脚や首周りの、腿や背に比べれば味も量も劣る部位ばかりではあったが、文句ひとつ言わず―――言葉を放つ暇があれば、咀嚼していると言わんばかりに―――良く煮込んだ鹿の肉に手を伸ばしていた。
 ライが苦笑いで己の皿に盛られた脂の乗った肉を分けようとしたが、アイクはそれを固辞した。リュシオンの言葉通り、森の獣の数に影響を与えない程度しか捕っていない。それをわずかだがクリミア兵たちにも振舞っているのだ。将軍であるが彼だけ余計に食べる訳にはいかない。それに、どんな手であれ、ライには「負けた」のだ。大好物とは言え、勝者から施しを受けるほど、アイクは卑屈ではなかった。いらぬ意地と言われようが。

 
 自分が余計な事を言わなければよかったのかな。
 オスカーは自己嫌悪にちくりと胸を刺されつつ、ベグニオンからの恩給である干した鳥肉を処理し始めた。きっと彼の弟と共に、若い食欲を満たすために、求めてくるだろう。
「大将、若いってのはいいが、早食い大食いは早死にの元だから気を付けるんだな」
「酒の飲みすぎもだがな」
 オスカーの背後で、鷹の民の明るい声と対照的な声が聞こえた。そして、彼の傭兵団の団長は、鳥翼族の戦友にとんでもない言葉を放つ。
「あんたらの、"そこ"。結構量がありそうだな」
 オスカーは額に手を当てる。背後で乱闘が始まったからだ。
10/11/29   おまけ(アイク×エリンシア調) Back