たとえ砂上の城だとも

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「お気をつけて」
 湿り気を帯びた石段を、足が交互に踏む音が響いた。暗闇の中に、突然一点の光が灯り、黴と湿気で彩られた部屋の住人らは思わず眉目をしかめる。闇にも衰えぬ視力には、強い光がかえって仇となっていた。
 来た。
 その中のひとりであったムワリムは意識の外でそう感じた。気だるい気に緊張が走ったのは、「彼」が何ゆえにここへ来たのはではなく、「彼」にどんな酷い目に遭わされるのか。そんな懸念だった。恐怖とも呼べる感情は、錆び付いた格子を通して撫で回される視線が助長していた。
「おお、闇の中に目が光っておる。ほんに恐ろしいの」
 甲高い声が石壁を跳ね返り、矢のように奴隷たちに突き刺さる。恐ろしいと言われ、目線を下にした者もいた。そう言い放った中年の男は、彼らの首よりも背が小さく、砂袋をいくつも積み重ねたような重々しい体型をしている。無論、翼も牙もなく、牢の向こうの彼らが少し手を上げれば、簡単に傷付けられるだろう。だが、どんなに汚らわしいと唾棄されても、理不尽な暴力を受けようとも、誰もその思考に及ばない。それほどまでに、彼らのラグズとしての本能は、長年「飼われていた」事により消え行ってしまったのだ。

 中年の男に付いていた、これも中年の男が持っていたランタンを掲げる。その光を牢の中へより多く届けんとしていたのだ。それが思い通りにいかぬと悟ると、壁に掛けられていた棒きれの許へ歩み寄る。しばらくして、その男がもう一人の中年とは対照的な痩身が橙色の光に浮かび上がった。
「なるべく毛並みの良いものを二、三匹……」
「はい……これでカドゥス公の御心もも幾分か軽くなればよろしいのですが」
「そうじゃ。そうじゃ」
 痩身の中年男の主らしき男は、弛みきった顎を震わせた。それが頷いたのだと察せる者は、長らく傍に仕える者くらいだろう。
「端から見ても震えが来るほど口惜しいというのに。公のお心たるや、何と表そうか。議長の椅子もあと一歩という所で、あのようなどこの馬の骨ともも知れぬ若造に……」
「誠に、お察ししきれぬものがございますな」
 その言葉に、再び分厚い顎肉が揺れる。壁の松明とランタンの二つの明かりで、この部屋の手狭さをムワリムは初めて知った。穢らわしい、という感情とは裏腹に、舐められるように視線が彼の筋肉の表面を撫でた。
 今、ムワリムの胸を支配しているのは、他のラグスらと同じだろう。恐怖と、億劫さ。格子の向こうの「主人」らは、自分たちには労働の道具としてか見ていない。もしくは、逆立つ感情の捌け口としか。何かのために自分らを選別しているのだろうが、その先がどうであろうと、ここにいるラグズらには幸せとは無縁である事だけは明確なのだ。
 同胞らと同様、ムワリムの瞳も暗闇に光っていた。明かりがなくとも、忌みた存在に顔を歪めた丸い顔ははっきりとわかる。膨れた頬肉にうずもれた小さな目がムワリムに止まった。
 他の獣牙の同胞と、ムワリムはさほど違いなどないはずだった。身体つきも、顔立ちも取り分け整っているという訳ではない。
 どうか、どうか。
 動かすのも面倒だった思考が、一つの思いで突然稼働した。



「いよいよだな……」
「……ああ、明日……」

 面倒だ。何もかも。
 部屋の隅に、黴と絶望に満たされた空気に不似合いな精気が飛び始める。
 二、三人の男は会話を交わせば交わすほど、身体に流れる血が熱く巡ってきたのか、語気が次第に荒立って聞こえた。他の奴隷たちはそんな声を鬱陶しく感じるも、それを咎める気力は枯れ果てていた。身体を休め、日常を少しでも忘れる事だけに神経を使い、心と耳を塞ぐ。

「おい、お前」
 だが、ムワリムだけはそれが許されなかった。
 横たわる身体に男の手が置かれ、起き上がるよう促される。
 正直、ベオク以外にそんな事を指図されるのは億劫だが、そんな本音は脳裏の奥底に沈殿しただけで、ムワリムのよく締まった体躯はゆっくりと起き上がる。
「お前も選別されたのだろう?ならば、力を貸さないか?」
 力を貸さないか、とあくまで願い出てはいるが、その語気には否定などない。彼らには理解できないのだろう。長年の隷属の遺伝子が、これから起きる事に拒否反応を示している事など。
 この若い男達は、デインの野山でひっそりと暮らしていた身を、デイン士官学校の生徒の「実習」で捕らえられ、その後奴隷商人に引き取られた。この地下牢に放り込まれて一年も経っていない。反対に、ムワリムはこの地下で生まれ落ち、ラグズの本能は奴隷の血で上塗りされていた。
「……いいか、これは自由になれる好機なんだ。成功すれば、ここにいる全員がラグズとしての誇りを取り戻せる」
 返答に迷うムワリムに、猫の若者が隆起した肩に手を置いた。階上のベオクにはこの声は聞こえはしないが、慎重に声色を落した息がかかる。その息も、肩に置かれた手にもムワリムへの苛立ちがこもっていた。

「私は……」
 目の前の猫と虎の瞳は、無言の代わりの圧力となって光っていた。
 ベオクの道具としての日々。鞭で打たれ、殴られる事は辛いが、それがなぜだか疑問を持たずに、ただ耐えていた。抵抗など、本能と共に消えていた。
 だが、彼らの光る瞳がムワリムを強く差していた。ムワリムはそれらから目を反らせないでいる。自分も同じように光を放つのに、自分のそれとは全くの別物のような気がしたからだ。
 胸の内から、何かがムワリムへ呼びかけていた。夜も更け、皆が横になってもそれは治まらない。ムワリムは、ひと際黴臭い部屋の隅で座り込んでいた。
 自分が何者で、どうあればいいのか。己と、今ここにいる者達の幸福と安寧とは。
 黴と汗の匂いはきっと自分の目を覚まさせてくれるだろう。そう思ってはいたが、いつもは何気ない部屋の一部のはずだった匂いが、ひどく鼻についていた。  


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