たとえ砂上の城だとも

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 地下室では、朝夕を知る事はできなかった。常に、薄暗い世界に閉じ込められ、ごとりと天井から音がする。わずかな光が音の方角から漏れ、生気のない足音が階段を降りてくる。または、早足で降り、乱暴にパンが格子の向こうから放り込まれる。それが、この世界の者たちの時間の知り方だった。
 
 ムワリムの耳に届いたのは、奴隷の方ではなかった。重々しい足取りで常に湿る石段を慎重に降りる音と気配は、幾人かのベオクだと告げる。
 いつものように、早くここから出なければ、という気で満たされる食事番ではないようだ。

「お館様がお待ちかねだ」
 そこには、先日降りて来た「主人」はおらず、彼の傍にいた執事と数名の鎧に身を包んだ男たちがいた。
 普段とは違うベオクに、格子の向こうの空間が一斉に緊張に支配される。錆びついた鍵を回す音が響き、獣牙の男たちは息を飲む。先日の「選別」に関わる何かだとは気付いているが、気だるさが身を占める身体でも、いざその時となれば恐ろしさが競り上がってくるのだ。
 蝶番が金切り声を上げ、痩身の中年男が兵士に、獣耳の山から幾人かを指差す。執事の骨張った手には鞭が握られており、そこにいた屈強なラグズたち誰もが震え上がった。鉄の鎧に包まれた兵を相手にしても、本来ならば腕力で屈するはずはないのに。

「ほら、立て」
 先日、確かに指差されたムワリムも、兵に太い腕をつかまれて立たされた。手に鋼鉄の手枷をはめられる。手枷には鎖が伸び、ムワリムの前を歩く男の物に繋がっていた。
 執事が束ねられた鞭を手中で鳴らしたのが合図だった。
 兵が手にしていた槍の柄で歩くよう促される。普段の使役なら、ここまで大仰な事はしない。長年の隷属が、彼らラグズ奴隷に反抗の意志などないと思いこませていたからだ。
 ムワリムの広い背中に、仲間達の視線が集まる。同情、恐怖、安堵。それらとは全く逆の漲るような強い気も。
 力を貸せ、と言われてもどうすればよいのか。
 あれから彼らの行動の具体的な事は何も聞いてないし、聞こえてもこなかった。
 何かを起こすとしても、土台無理な話だ。
 鉄の鎖を鳴らし、両手首にはめられた手枷を見遣る。奴隷の子として生まれたムワリムには、鉄の枷など必要なかった。初めてこれを架せられた今、鉄がこんなにも重く、身体の自由を縛る物だと思い知らされた。これでは、普段の従事すらままらなない。


 石段の先は、眩しいくらいに明るかった。太陽が高く昇った頃なのだと知らせている。鉄の鎖は石床を擦り、足音の代わりにじゃらじゃらと音を立てている。ベオクの使用人用の小屋を出て、ムワリム達は主の館ではなく、小屋の裏から続く小さな森へと歩かされた。そこはこの敷地の持ち主とその家族らの狩猟場だった。ムワリムも幼い頃猟犬代りに獣を追った事がある。上手く追い込めなかった時や、追い込めても主人らが矢で仕留め損なった時は、罵倒されながら鞭で何度も打たれた。
 何の迷いもなくムワリムに鞭を振るっていた少年が年を重ね、今は樽のような腹を突き出して彼らを待っていた。濃い色の長衣でも隠せぬ弛んだ身体の後ろにも、幾人かの兵士が立ち並び、彼の隣りには彼にも劣らぬ豪奢な衣を地に引きずっている男がいた。壮年の域に半分足をかけ、濃い金の髪は品よく撫でつけられている。太い眉の下の瞳はムワリム達に侮蔑の念をちらりと向けただけだった。

「ナルデン伯、感謝いたしまする。先日二頭ほど潰してしまいましてな。こんなやり難い中、わざわざ……」
 ムワリム達とは天地もかけ離れた体で、男はムワリムの主人に微笑みかける。
「いえいえ、カドゥス公がお困りとあれば、このくらい易いものです。それに、件の法が発令したと言えども、需要がある限り奴らは消えません」
 そう言い終えると、カドゥス公と、ナルデン伯の喉が同時に震えた。一しきり含んだ笑いを終えると、ナルデン伯の分厚い顎が兵士に向けられる。兵は先頭のラグズの手枷繋がっていた。鎖を引いて促された先には、見慣れぬ荷馬車があった。カドゥス公と言う男の物らしいが、貴族所有の馬車らしからぬ質素な造りであったが、四頭もの馬が連なっていた。
 荷台へ乗れ、と再び鎖が強く引かれる。先頭の猫が、丸めた背中を動かしたと同時に、背後で悲鳴が上がった。一斉に視線が奴隷たちの背後―――使用人が居住する小屋へと注がれる。

「な、なんだ?どうしたのだ?」
 この敷地の主のうろたえた声が、錆びついたように止まった兵士の油代りとなる。その中の一人が、小屋の方角へ駈け出した。ナルデン伯は額に汗を浮かべながら、私兵の鉄の背中と、眉根を寄せるカドゥス公に交互に視線を送った。
 しかし、ナルデン伯の懸念をよそに、小屋から新たな悲鳴が上がる。簡素な木造の小屋から出て来たのは、灰色の煙と十人ほどのラグズだった。壁、窓、屋根、至る所から炎が赤い舌を出し、火の粉が爆ぜるように扉から何かが飛び出し、折り重なった。それが小屋にいたベオクの使用人だと気付くのに、誰もが時間を要した。

「これはまずいな」
 息を飲み、燃える小屋を凝視する呪縛を破ったのはカドゥス公だった。公爵は伯爵とは対照に落ち着き払っている。何度もこのような場面に出くわしているかの振る舞いだった。
「ナルデン伯、この度の事はひとまず預けておこう。我が兵をお貸しするのでくれぐれも煙を外に出さぬようにな」
「えっ……カドゥス公……!」
 そう言い捨てると、カドゥス公は二人の兵だけを従えて素早く荷馬車に乗った。慌てて背中に縋ろうとするナルデン伯を振り返りもせずに。
「カドゥス公、公爵、ルカン様!後生です、どうかご内密に!」
 往生際の悪い叫びに、カドゥス公は一瞥もくれず、荷台の上で片手を上げるだけだった。
 御者の鞭により馬が走り出すと、幌を目の辺りにまで下げてひと息つく。
「まったく、困った不始末を」
「当家の兵らには万全の備えをさせてありますが」
「ふん、それでもナルデン側の犠牲を抑えるだけに過ぎん」
 公爵の瞳は冷たく光り、駆け巡る森を嘲笑するかのように目ねつけていた。
 
 神使ミサハが暗殺者の刃に散り、国の頂点が空席のまま十五年近く。国をこれ以上混乱の渦に置くわけにはいかぬと、元老院議会は新たな皇帝を迎える事が決定された。
 それに伴う、議長の辞任。長年ミサハの片腕として帝国を導いてきた老人は、ミサハの暗殺を阻止できなかった事を長年悔やみ続け、新たな神使兼皇帝の誕生を機に議長の席を退くと宣言したのだ。
 その後任には、当然副議長たるカドゥス公ルカンの名が方々で上がっていた。しかし、以前より議長と対立していたカドゥス公である。前議長が彼に席を譲る事を容認するばずがなく、何を思ったのか、議長は数年前より重用していた筆頭書記の、出自も不明な青年をベグニオン帝国宰相に、と強引に決めたのである―――とは、蚊帳の外にいた元老院議員や内務官の認識だった。
 確かに、カドゥス公も議長が推した青年の話を聞いた時は、身体中の血が溶岩の如く駆け巡った。だが、母親から強引に引き離され、泣き止まぬ五歳の少女が唯一心を開いたのがその青年だったのだ。
 ならば、それを使わない道理はない。己の権力の椅子に固執するよりも、政治経験も浅い青二才ごと、新皇帝抱きかかえてしまえばいい。カドゥス公は周囲の驚愕の中、あっさりと議長と宰相の座をわずか三十あまりの青年に引き渡したのだった。

 その思惑の奥底は、元老院の中でもごく一部の者しか知らない。だから、こうしてしばしば、何も知らない貴族がカドゥス公へ「慰め」と称して様々な心付けをよこして来るのだ。あのような若造、あなた様ならいつでも引きずり降ろせると甘言を添えて。いつか訪れるであろう「還元」が透けて見えるどころか、贈り物に堂々と装飾されている様に、カドゥス公は笑いを隠せない。


 風に乗って煙の臭いが鼻についた。
 今までの賄賂とは違い、いささか厄介な代物だった。だが、奴隷解放令が発令された今、その見返りは大きい。伯爵も、それを見越して地下に隠していたラグス達を持って来たのだ。
「ともかく、ナルデンが上手く抑えられれば、何事もないのだ」
 神使ミサハが暗殺された原因となったラグズ。過去の歴史を振り返れば、その主従は逆転した時代もあったのだ。それを覆し、己の力で権力を勝ち取ったのは、紛れもないベオクであり、国祖オルティナの子供たちだった。それを今更共生などとどの口が言えるのか。
 力がある者が上に立つべきなのであろう?
 奔馬の足が青い空も、緑の木々も川のように流して行った。


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