たとえ砂上の城だとも

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 焦げ臭い匂いと、血と肉の匂いが混ざり、ムワリムの鼻をついてしょうがなかった。鼻腔を覆おうとして腕を上げるも、鎖がそれを遮ってしまう。その鎖、が音を立てて急に左右に引っ張られた。
 ムワリムの前後に繋がられていた奴隷たちは完全に平情を失っていた。だが、五人の奴隷は一連の鎖で繋がっている。ムワリムはただ左右に腕を引っ張られながらも、転倒だけはすまいと必死に足に力を込めた。顔を上げた先には、木造の建物だった物がある。
 
 小屋は完全に炎に飲まれ、階下に押し込められていた奴隷たちは、自分たちを虐げて来た者たち、いや、獣の耳や尻尾、翼のない人型の生物を見るや、なりふり構わず襲い掛かっていた。
 その中でも三人ほどのラグズは、大型の獣そのものとなって兵士の喉笛を引き裂いていた。これには、槍や棍棒でラグズ奴隷たちに応戦していた貴族の私兵らも太刀打ちできない。彼らはラグズの本当の力を失った奴隷ではなかった。いや、奴隷として捕まりまだ日の浅い若者たちだった。ムワリムの後ろで声を潜め、隷属の屈辱を今ここに爆発させたのだった。
 ムワリムは、自分の身体に抑えが利かぬほどの震えが襲っているのに気が付いた。腹の奥底から、目前の恐ろしさが込み上げていた。ベオクたちに鞭を振りかざされた時の恐ろしさとは、比べ物にならないほどの。
 主の居住たる屋敷からも何人かの警護兵が駆け付けるも、およそ初めて邂逅したであろうラグズの姿に狼狽するだけだった。
 人の容(かたち)でも、ベオクよりも強靭な筋力を誇るラグズ。だが、本来の力は、化身する事で顕われる。ムワリムは知らなかった。隷属の血と歴史が、奴隷たちから潜在する力を奪い去っていたのである。

 また一人兵士が倒れ、血まみれの身体に前足を乗せた虎が咆哮を上げる。ナルデン伯は体中に油汗をかきながらも、歯噛みしてその様を睨みつけた。
「おい、鎖を切れ!」
 震えながらも伯爵は隣にいた兵にそう命ずる。数度またたきしてその意味を理解した兵は腰の剣を抜いた。
「お前たち、あの狼藉者どもを殺せ!殺せばお前たちを自由にしてやる!」
 膨れ上がった指は獣と化したラグズらを差していた。繋がれていた五人のラグズたちに動揺が広がる。
「獣牙の兄弟たちよ!鳥翼の兄弟たちよ!」
 咆哮は、人の言葉へと変わった。
「ラグズの誇りはどうした。奴隷のまま一生を終えるのか」
 叫びはムワリムの腹にまで振動する。自分の命が尽きる事。そのような事思いもよらなかった。何十年と地下牢と屋敷を往復してきたムワリムも、年老いて行く仲間を幾人か見てきた。しかし、彼らはいつの間にか地下の世界から消えていた。彼らがどうなったのか、それを考える隙間もないほどムワリムも、仲間も疲れ果てていた。
 だが、今なら想像がつく。疲れを壁に、想像する事を放棄していたのだ。老いて労働価値を失ったラグズの末路を。ムワリムは首を振った。
「目を覚ませ兄弟よ!お前たちはニンゲンどもに何をされた?お前たちには力がある。女神が与えた本当の力を。それがある限り、こんな仕打ちには甘んじていられる訳がない!」
 殴られるだけならまだましだった。だが、それが鞭や棍棒、時には剣がムワリムに振り下ろされる。身体中に傷のない箇所などなかった。まだ治り切っていない傷を見れば、どくんと心臓が高鳴った。

 金のたてがみを逆立てて、虎はムワリムを睨みつけていた。大きな体。金に近い黄の毛並みに、少し濃い縦縞が流れている。
 これが、「ラグズ」か。女神が与えた、力か。
 長年、ムワリムは主人らに吐き捨てられた言葉があった。穢れた存在。女神に仇なした不徳の子。その精神は理性の利かぬ獣そのものであり、人になりきれなかった「半獣」であると。
「奴隷ではない、ラグズの血が流れているのだ。兄弟」
 ムワリムの心を察したように虎は言う。
 流れているのか、この私にも。汚らわしい半獣という二つ名ではないのか。ムワリムの中を、まるで何か別の存在が覆い被さろうとしているみたいだった。身体が、妙に熱くなる。ざわざわと、まるでムワリムに囁くように血が流れているのだ。

「戯言だ!聞く耳持つでない!」
 ムワリムを支配せんとしていた影が、突如甲高い声で引き裂かれた。長年の本能が、その声色に反応せずにはいられなくなっていた。
 見慣れた肥大した体は、青ざめた顔とは対照的に、目を赤く染め上げていた。目前の生命、社会的地位、その二つが窮地に立たされてしまったのだ。どちらが崖下に転落する訳にはいかない。
 ナルデン伯の一番の懸念は奴隷たちの化身能力を解放させてしまう事だった。この本能を摘み取ってしまうのが半獣の上手い飼い方というのは、貴族たちの間では定説だった。
 だがしかし、とナルデンは喉を鳴らして先刻の言葉を飲み込もうとした。目の前に暴れ狂うラグズがいる状況ではそうは言っていられない。彼の抱える私兵らも、化身したラグズなど見た事がないだろう。ましてや、実戦で見(まみ)えた事など。それは中央で訓練を受けたベグニオン帝国兵だけだ。実戦さながらの訓練に耐えかねて縁故を頼りに私兵になった者では歯が立つはずはない。ナルデン伯は諸刃の剣を抜く事を決心した。
「お前たちの本当の力を見せよ!主人に敵する下朗を葬り去れ!」
 裏返って煙の空に吸い込まれた声は、祈りを孕んでいた。
 

 本当の力とは。
 ムワリムを含め、まだ足踏みをするラグズらにはまだ迷いの色があった。彼らを呼び覚まさんとした虎は、蛇のようにうねる歯を持つ槍に追い立てられ、貴族に近付けないでいた。兵士の壁越しに、また咆哮を上げる。
 
 彼の背後では興奮冷めやらず、それどころか怒りに全身を任せた「元」奴隷たちがベオクというベオクに拳を叩きつけていた。それ自体異様な光景だが、ムワリムが目を見張ったのは、同胞の容貌だった。筋肉質な腕は日に焼けていたはずだが、逆立った髪の色と同じ毛がびっしりと生えている。怒りに歪んだ顔も、鼻と口が競り出し、耳まで裂けた口からは犬歯が異常に尖っていた。
 彼らもまた、本来の力を引き出さんとしているのだ。だが、そう思うもムワリムの震えは止まらない。あの力を解放すれば、自分はどうなるのだろうか。怒りに飲まれ、「主人」を殺してしまうのか。

 殺せ、狩れ。
 力のないベオクなど、お前の牙と爪の元には赤子も同然だ。
 
 再び内側から熱いものが手を伸ばしていた。
 轟音がムワリムの耳を刺す。耳の奥に鋭い痛みが走る。
 主人の声とは違い、その大音は、ムワリムの血をより熱いものに変えて行った。鼓膜が破れたかのように、外の音が聞こえない。

 そうだ、そうやって外界を遮断しろ。精神を集中させるのだ。
 呼びかける声が何か。あの黄色い虎ではないのは確かだった。
 ざわざわと全身が総毛立つ。ムワリムの体毛も、彼の髪と同じ緑に伸びているのに、彼自身気付いていない。

 炎の臭いがどっと鼻をついた。ベオクも、ラグズの叫び声が混ざっても、遥か遠くで聞こえているようだ。
 目の前で、鉄の武器を持った兵とは違うベオクが現れたのも、彼らが大火を放ち、同胞を焦がしているのも、ムワリムには別の世界に映っていた。
 これがそうなのか。私は変わるのか。
 
 変わるのではない。帰るのだ。

 その言葉を最後に脳裏に残し、ムワリムの視界は紫の絹を映していた。膨張しきった紫色の砂袋が恐怖に震えていると、頭の片隅で認識していた。だが、それ以上は考える間もなく、極上の絹を赤く染め上げた事しかムワリムは覚えていなかった。


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