たとえ砂上の城だとも

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「ムワリム、ムワリム!早く、早く!」
 少年は、すでに砂と日差し除けのケープを、小さな肩に羽織っていた。彼とともに砂漠の巡回を日課にするようになって数年。ラグズの仲間すら忌避する砂と風の大地を、まだ十にもなっていないベオクの子供は嬉々として足を向ける。

 今少し待ってくれ、とムワリムは小物袋の中身を確認しようと、麻でできた簡素な袋を紐解いた。
 毎日の物見とは言え、場所は容赦なく太陽が照りつける砂漠だ。用心がほんの少しでも綻べば命に関わる。このベオクの少年は幼く、ムワリムという庇護がなければ瞬時に砂嵐に飲まれてしまいそうだった。もっとも、それを望む者もいないとは言えないのだが。

 確認を終えるとすぐに袋を肩にかけて紐を結び、その上に己のマントを羽織る。
「では、今日も行って来る」
 ムワリムは巨躯の半身をひねって背後の仲間にそう告げた。気を付けてな、と送り出す声は、彼だけへの言葉だった。
 刺すような日差しは、凶器と呼べるほどだった。その下に、すでに少年は駈け出していた。
「そんなに走るとすぐにへばってしまいますよ」
 砂の中から拾い上げた子は、ムワリムの頑なな思いが貫き通され、その命は救われた。
 男子(おのこ)はムワリムの手により壮健に育ち、その過程で、仲間の中にも多少の情が生まれる者もいた。しかし、その反面、いややはりと言ってもいい。共にいる生活を十年近く経ても、未だにベオクを受け入れられないでいる者もいた。さすがに子供相手に露骨に否定的な態度を取っている訳ではないが、彼に向けられるささくれ立った気は痛いほどムワリムにも感じられる。それも無理もない話だと、ムワリムは無理に子供と仲間との仲を取り持とうとはしなかった。
 ベグニオンの牢獄から解き放たれて一年と少し。ベオクが己にしてきた仕打ちと、それに従属しきった己の精神に打ちひしがれ、その傷はまだ完治しているとは言えなかった。そもそも、完治などありはするのだろうか。そんな思いを抱えながら生きている者もいた。
 
 ムワリムたちがナルデン領を出た直後、手に負えなくなった私兵がベグニオン中央軍詰め所へ駆け込んだ。中央軍は私兵とは比べ物にならない迅速さで事態の収束を図り、彼らが武器を鞘に納めた頃には、奴隷、ナルデン伯の私兵はほとんど絶えていたと言う。
 ムワリムとは別方向へ逃げ、帝国の各地方を潜伏していた元奴隷の話では、ナルデン家はラグズ奴隷解放令違反の罪で伯爵号と領地の剥奪。残された家族はわずかな財と親戚を頼りに地方へ散り散りとなったらしい。
 だが、その知らせを聞いてもムワリムも、他の誰の心も浮かばれはしなかった。奴隷解放令違反と高々と旗を上げたが、その旗を上げているベグニオンの元老院らもひっそりとラグズ奴隷を抱えている事など、今の彼らにも容易に想像がつく。自分たちが逃げ出しても、砂の大地の向こうでは、同胞らは今も苦しんでいるのだ。


「ムワリム、ムワリム!」
 少年が振り返っても、巨漢の青年はまだ遠くにいた。だが、距離はあっても精悍な顔がほころんでいるのはわかる。少年は、その笑みが偽りや澱みもなく自分に向けられているのを知っている。他のラグズたちが、友好的でない分、それがひしひしと伝わってきているのだ。

 少年は、自分を取り巻く環境に不満を持ってなどいなかった。
 砂漠という場所が、人が生きるには適さない場所だというのも知っている。日差しをしのぐだけで精一杯のあばら屋で、共に暮らす仲間から無言の憎しみの感情をぶつけられても、少年は笑っていられた。いつも傍にムワリムがいたからだ。だが、一つだけ疑問を持っている。己の姿形だった。
 なぜ、自分の耳は丸くて顔の真横についているのか。
 なぜ、自分には尻尾がないのか。背中には翼がないのか。
 気付いた時には、自分は、誰よりも小さくて、力の弱い生き物だった。だから、ムワリムはそんな自分には優しいのだと言い聞かせて、彼の優しさを壊す事を恐れ、胸の中で大きくなる疑問を押し抱いて生きていた。


「うわっ」
 中央を目指して円を描いて流れ落ちる流砂から急いで飛び退く。砂漠は本当に恐ろしい。天からは容赦のない太陽の光が降り注ぎ、地からは全てを飲み込む底なしの砂が広がっている。だが、ここは紛れもない少年たちの住処なのだ。
「ほら、だから言ったでしょう」
 砂を踏む音に、穏やかな声が混ざる。少年は振り向き、苦笑いを浮かべた。自分の不注意もあるが、後方から小さな流砂を見極めるムワリムの視力に、改めて感銘を受ける。彼、他にも獣の耳と尻尾を持つ「仲間」は、取り分け目が良い。夜の闇でも、苦労なく物を見る事ができるのだ。少年はほんの少しでも彼らの視力があればいいとぼやいた事があるが、ムワリムに「注意力を付ければいい」と痛い所を突かれてしまう。

 そのせいか、今のように、ムワリムが遠くを見ているのを真似て、少年もじっと遠くを見る癖がついた。それで彼のように何かが判るまでにはまだ至ってはいない。

 だが、今日は普段とは何かが違うという事だけは理解できていた。遠くにある視線が、ひどく険しいものへと変わっていた。
「……ムワリム?」
 恐る恐る声をかけるも、ムワリムは視線はそのままに、少年の赤いケープに幅広の手を乗せる。同時に堅い声が振ってきた。
「坊ちゃん、急いで来た道を戻って」
 どうしたんだ、という言葉はムワリムの「急いで」という強張った声に畳みかけられた。いつもの温和な青年とは違う彼に、少年は身を竦ませる。それに、砂漠を一人で歩く不安も同時に生まれていた。大きく波打つ鼓動に合わせ、小さな首は背後の砂の大地とムワリムの顔を何度も往復させる。
 
 そうしている内に、今の彼にも見えるほどに、何かの大きな影が空中で熱気に揺らめいていた。
「ムワリム、あれ……」
「いいから、坊ちゃん!戻ったら仲間たちに逃げろと伝えて下さい」
 突然の事態を、当然幼い少年は飲み込み切れるはずもなかった。呆然としている合間にも、影は大きくなって行く。
「さあ!」
 どん、と背中を強く押された。慌てて尻餅をつきそうになるが、何とか体勢を整えてムワリムの指示通りに走ろうと足を繰り出す。だが、足は砂も手伝ってもつれるだけだった。急に頭上が暗くなり、少年は呆気に取られる。
 
 ばさり、と耳慣れた翼の音が耳に届いた。しかし、直感はそれが仲間だとは告げていなかった。
 「それ」の裸の足が、熱い砂を着く。まるで肉を感じない異様に細い足には、鉄の輪着いていた。
「……」
 灰色がかった黒の翼を持つ女は、足からの感覚が麻痺しているかのように、灼熱の砂地の上で平然としていた。瞳は虚ろで、ここが砂漠だと理解していないのかもしれない。だが、生気のない瞳でも、目の前にいる少年はしっかりと捕えているようだった。漫然とした動きで、首から下げた笛を取り出す。


「おのれ!」
 甲高い音が空を引き裂いたと同時に、ムワリムが女に飛びかかった。しかし、翼は空を切り、ムワリムの巨体をひらりとかわす。
 何よりも、目の前の鳥翼族―――恐らく鴉の民であろう―――の足枷がムワリムを中を滾らせていた。それが紛れもない「彼女」の身分を表していた。過去の自分と同じ眼も、その証拠として。
 頭に巻いたバンダナの下から、大量の汗が噴き出した。
 こんな状況にも関わらず、巨躯の影にいる存在と、目の前の哀れな女を天秤に掛けていたのだ。
 虚ろな瞳。そして、後方にいる主の為に迷いもない行動。彼女に話かけても、まともな返事が返ってくるとは考えにくい。このままでは、自分はおろか、小さな命すらも危ういのは確実だった。

 鴉の女の周りに、熱気に混ざった不穏な空気が大きくなって行くのを感じた。少年を庇うように後ずさりする。
 黒い翼が大きく広げられ、同色の羽毛が体中に伸びて行く。
 再び、それを見ようとは。
 あの時以来、ムワリムも他の仲間も己を獣に変える事はしなかった。化身は体力と気力を大量に削ぐ。それに、恐ろしかった。また我を忘れて人を傷つけてしまうのではないかと。
 そんな姿をこの子には見せたくはなかった。だが、女と言えど化身してしまえば、人の姿で対峙するのは危険極まりない。
 せめてこの子をだけでも。
 退路を巡らしていると、馬が砂を蹴る音が鼓膜を打った。本能が、逃げ切れる可能性が無に等しいと告げた。

「なんだ虎か!」
 悔しそうに言葉を砂に吐き捨てる。三頭の馬は土とは勝手が違うせいか、収まり悪そうに足踏みしていた。
「まあいいじゃないか。砂漠くんだりしたんだ。収穫があっただけでも恩の字ってもんだぜ」
 もう一人の馬上の男が下卑た笑いを混ぜて空を仰ぐ。砂埃まみれの外套からはその相貌は伺えない。
「ほら、さっさとしねえか!」
 低い怒鳴り声に、大きな翼は俊敏にムワリムめがけて突進してきた。少年を庇うようにしてムワリムは身を屈める。胸の内に、震える声がした。それが、ムワリムの中の速度を上げる。悩む暇は、もうないのだ。

「坊ちゃん」
 腕の力を込め、その中で震える小柄な少年に穏やかな声を届ける。
「これから、何があっても驚かぬようにしてください」
 言葉の意味が理解できずに、少年はムワリムを仰ぐ。ムワリムはそれ以上言葉を発さず、深く息を吸った。




「ちっ、こんな砂漠にいるのは腑抜けた奴隷崩れだけって言ってたの誰だよ。しっかり化身してんじゃねえか」
 分厚い筋肉の壁の向こうで、確かにそう聞こえた。
 奴隷、化身。
 どちらも少年が初めて聞く単語だった。
 目の前の恐怖に身を竦ませているうちに、自分を抱いている腕が緩んで行くのがわかった。緑の体毛が伸びながら。
 何が起こっているのか頭が理解を拒否していたが、ゆっくりと視覚の情報が染み込んで行った。
 
 太い両腕が砂の大地を着き、全身、尻尾までも逆毛立たせている。ムワリムの髪と同じ色の体毛が全身を覆い、裂けた口からは鋭い牙を覗かせていた。
 虎。虎だ。ムワリムは虎になったのだ。
 少年は呆然と育ての親の変わり果てた姿を見ていた。足が震えているのに気付かずに。それを馬上の男たちが見逃さずにいた。
「おい、あのがきからかかれ!」
 鴉はムワリムを飛び越え、その背後の少年に狙いを定める。鉄の足輪が付いてはいるが、立ちすくむ少年を捕えるには何の問題もなかった。
「坊ちゃん!」
 ムワリムが咄嗟に身を翻し、咆哮を上げながら低空を飛行する鴉に飛びかかろうとする。だが、突然降りかかってきた格子状の物がムワリムの動きを封じた。狩猟用の網だった。
「ムワリム、ムワリム!」
 それが降って来た方角を仰ぐ。太陽が燦然と輝く空には、数羽の鳥翼族がいた。彼らもまた、足に枷を携えて。
 
 
 鴉の鋭い爪が少年のケープに服ごと食い込み、小柄な身体は簡単に宙に浮き上がった。
「離せ、離せ!」
 足をばたつかせて砂を舞い上がらせるが、肩をつかんだ爪はびくともしない。
「おいおい。このがきゃ、何の種だ?」
 尻尾も翼もねえぞと男たちが首を傾げながら馬を降りた。その中の一人が、網の中でもがくムワリムの腹にひと蹴り入れ、何事もなかったかのように仲間に続く。
 強い横風に流れるベオク達の外套をムワリムは睨みつける。
「止めろ!その子はベオクだ!!」
 牙を剥いた叫びは、大量の砂に文字通り塞がれた。
 ただの強風かと思われた風は、次第に風力と孕む砂粒を増やし、砂漠に慣れない者たちを訝しがらせる。砂漠に住むムワリムは、それが危険である事を瞬時に読み取った。しかし、身体の自由が利かない今、身を伏せるしかなかった。
 轟音が、砂を渦巻く嵐である事を示していた。その中に混ざり、馬や、人、鳥の悲鳴が消えていく。
「ムワリム!ムワリム!助けて!」
「坊ちゃん!坊ちゃん!」
 聞き慣れた声が届くと、反射的に首が上がった。喉奥に砂が入ろうが、ムワリムは構わずに叫び続けた。
 しかし、一層激しくなる褐色の壁が辺り一帯を包み込むと、ムワリムの視界と声、全て封じ込めてしまった。


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