たとえ砂上の城だとも

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 太陽の灼熱の支配が嘘のように、砂漠の夜はひどく冷える。
 自分のくしゃみの音で少年は意識を取り戻した。肌寒さに無意識に肩のケープを胸の前で引き寄せる。ぱらぱらと砂粒がケープや服の中に入って来た。
 微細だが、肌への不快感は大きく、億劫そうに少年は身を起こす。肩からするりと薄い毛布が滑り落ちた。
 辺りは暗く、目が闇に慣れるに従って、自分は今、いつもの寝屋に横たわっていたのではないと気付く。身体中に緊張が走り、周囲を見回した。簡素な天幕のような場所に寝ていたらしい。その隙間から、星空が覗いていた。

 
 大きな鴉に肩を掴まれ混乱した頭が、頬を撫でる大量の砂粒に気付いた時には渦巻く嵐が目前に迫っていたのだ。
 彼を捕えていた鴉は翼をばたつかせて忙しなく鳴くも、鋭い鈎爪は小さな肩に食い込ませたままだった。そのまま鴉の黒い翼は強風に煽られ、渦の中でもがき苦しみながら、少年の意識は消えてしまった。

 ムワリム。ムワリムはどうしたのだろう。
 最後に名を叫んだ育ての親は、巨大な網に絡まれて身動きが取れずに砂の嵐に巻き込まれた。捕まってしまったのだ。自分を助けようとして。罪悪感と、大切な者の生存への不安を積もって行く。それに―――

 鴉よりも大きな身体と、岩をも噛み砕けそうな牙。熱い風を震わせた咆哮。
 冷える空気が少年の脳裏をも冷まし、砂漠で目の当たりにしたムワリムの形相を鮮明に浮かび上がらせもした。今はそれを恐ろしいとは思わなかった。ただひたすらに、惜念と育ての親の無事を祈る。

 乾いた風が、粗末な布をいとも簡単に通り抜ける。
 喉の渇きを覚えたものの、水を入れた革袋は腰にはなかった。砂嵐に飛んで行ってしまったのだろうか。少年は水を求めて立ち上がった。少しふらついてしまう。

 月明かりが小さな集落の姿を照らしだしていた。足を一歩出せば、乾いた砂の大地があった。
 天幕のような骨組に布を被せただけの住まいもあれば、石を組んで造られた家もある。
 こんな場所もあったんだ。
 少年は素直に感心していた。ムワリムと近隣の物見へは行くが、外の世界を知らないと言ってもいい。彼の住処以外の人など、見た事もなかった。
 井戸を探そうと見回していると、砂を踏む音が背後で聞こえた。

「目を覚ましたようじゃの」
 しわ枯れた声に咄嗟に振り向く。褐色の肌を持った老人だった。
「あの、おいら……」
 ようやく絞り出せた声は、老人よりも掠れていた。皺だらけの手は穏やかに少年を制す。
「あの砂嵐で生きていられただけでも幸いなもんだ。無理はせんでいい。おお、そうか……」
 少年の求めるものを悟ったのか、今にも折れそうな指は水場を示していた。少年は礼も疎かにそこへ文字通り飛びつく。ばしゃばしゃと派手な音を立てて水をすくった。少し塩が混ざっているが、それでも砂漠に生きる者にとっては金よりも貴重だった。
「それにしても、砂漠まで何用だったんかの」
 その問いに、水をすくう手が止まる。
「用も何も、おいら、砂漠に住んでるんだ。物見に出かけて砂嵐に遭って」
「ほう、この集落以外に人が住む場所があろうとは」
 老人の白眉が上がる。
 少年は、彼の住処の仲間たちの事情を知らない。何のためらいもなく、己の住む環境を老人に打ち明けた。その内に、ある事に気付く。月明かりに照らし出された老人は、古びたターバンを捲いているものの、耳は彼と同じ顔の真横に丸く付いていたのだ。背中には翼もない。相手への礼より先に、身体が老人に飛びかかった。
「何なんじゃ……」
 驚いているとも、冷静とも取れる反応を老人は見せたが、少年は構わずしなびた体を纏う長いローブの裾をめくる。
「……ない」
「ん?」
「ない、尻尾も、羽根も、耳も丸っこい!」
 老人は初めて目を白黒させた。
「わしには尻尾も羽根もないぞ。ベオクだからな」
 ベオク。
 その言葉で、少年の興奮は一気に冷めやる。ムワリムが男たちに叫んだ言葉。
 
 止めろ!その子はベオクだ!

 ベオクとは、何なのか。そして、なぜあの男たちは自分たちを捕まえようとしていたのか。冷めた頭は、砂漠での出来事を次々と謎かけに変えて蘇らせていた。思い余り、それを老人に問うてみた。老人の瞳は月の影でよく見えないでいたが、心底驚いているのだけはわかった。
「お主、本当に何も知らなんだな」
「うん……」
 少年は砂漠のごく一部の世界しか知らない。ムワリムとの物見も、彼は外から不審な者がいないかを見るため、と言っていたが、外の世界に意識を巡らした事などなかった。本当に「外の世界」から人がやって来て、初めて物見の意味を理解したと言ってもいい。

「そんな顔をしなさんな」
 老人は穏やかな声を響かせる。なぜかムワリムを思わせた。
「知らんものはしょうがない。教えてやろうぞ。お前さんが何者なのか」
 少年が勢い良くかぶりを振るのを、老人は満足そうに見ていた。砂で汚れたケープの背中を押しやる。「まずは飯じゃな」と長い髭の中で呟きが聞こえた。




 豆のスープをかき込んでいたはずだが、老人の言葉が紡がれて行くうちに、無意識に匙を持つ手は止まっていた。
 ベオクとラグズ。
 女神は大陸に住む人を大まかにその二つに分けた。少年はその二種の中でもベオクに分類され、育ての親であるムワリムと、住処の仲間たちはラグズと呼ぶらしい。だから、少年には尻尾も翼もないのだと老人は諭した。
「それにしても、意外じゃの。ラグズがベオクが育てるとは」
「えっ、それって珍しいの?」
「珍しいも何も、二つの種は長年いがみ合っている。どちらかの捨て子を見れば、普通は見殺しにするじゃろうて」
 見殺し、と聞いて少年の背筋に寒気が走る。
 聞けば、ベオクとは、ラグズを奴隷として見下しており、何人ものラグズが非道な仕打ちに耐え切れずに命を落としてしまうのだという。外の世界にはラグズの国があるが、そんな現状ゆえにベオクを敵対視しているのだとも。
 仲間たちの少年に対する態度に、彼自身理解を示す事ができた。だが、それなのにムワリムは自分を育ててくれた事は今も疑問に残る。もし再会できれば、それを質す事はできるのだろうか。

「わしもな、お前さんを助けた男も、お前さんはてっきりベグニオンの貴族かと思ってたわい」
 老人は急にそう切り出した。貴族、と反芻すると、小屋の窓から見える天幕が指差される。
「あの娘を連れていたからの」
 その言葉を聞いた瞬間、皿に残った冷めたスープを一気に流し込み、小屋を飛び出した。

 ベグニオン帝国。老人の話では、ラグズを隷属させている先鋒の大国。十数年前に皇帝がラグズを解放する「ラグズ奴隷解放令」を発令したが、水面下で貴族たちは奴隷を囲い、金銭での取引は今なお行われていると言う。
 幼い思考にも、砂漠での出来事が全て符号で繋がった。育ての親を捕まえたのは奴隷商。そして、あの鴉たちは。
 天幕の帆布をめくると、灰色の羽根で体を包むようにしてうずくまっていた。鴉の少女は少年の気配を感じながらも、顔を上げようとはしなかった。精気のない瞳はじっと宙を彷徨っている。
「あのな」
 おずおずと声をかけるも、やはり少女は何も反応を示さない。
 いくら声をかけても、少女の視線は少年には向かなかった。諦めて天幕を出ると、老人が立っていた。
「わしが話しかけても何も答えなんだ。すぐには心は戻らん」
「奴隷ってああなのか。おいらの周りのみんなは、みんな笑ったり怒ったりしていた」
 ムワリムを除いて、少年には友好的とは言い難かった。だが、生きているのかわからないような姿より、負の感情をぶつけられた方がましなのだと少年は思う。
「言う事を聞かせやすくするためには、無気力にさせるのが一番手っ取り早いそうな。ラグズはベオクよりも力があり、寿命が長いからの」
 少年は振り返り、闇に溶け込む灰色の翼を見た。年は彼よりも少し上くらい。ぼさぼさの黒い髪に収まる顔は、薄汚れているが整っている。
 笑った顔は、どうなのだろう。どんな声をしているのだろうか。
 化身した時の獰猛な大鴉と彼女は、すでに彼の中では重なってはいなかった。


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