たとえ砂上の城だとも 

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 早く仲間の許へ帰らなければ。
 そう思うも、少年は地の利のまったくない場所から、元の住処へ戻る自信はない。里の老人に聞けば、この小さな集落も、外へ出ようとする者は滅多におらず、砂の大地の地理に暗い者ばかりだと言う。ただひとりだけ、ムワリムのように物見に出かける男がいるらしいが、その男も、今は帰りの知れぬ物見に出かけているのだ。

「なあ、じいちゃんらも外の人間に知られるとまずいのか」
「まあな」
 と老人は真っ白い髭を揺らして答えた。だが、それはなぜだかは口を固く閉ざしていた。少年もそれ以上は追求しなかった。
 この里の人間は、少年の仲間同様に、少年にはどこかぎこちない態度で接していた。皆彼のように尻尾も獣の耳もなく、翼もない。所詮、自分はどこかおかしい、この身体の中には忌み嫌われる要素があるのだ。そう思い知らされた。
 多少の居心地の悪さを覚えるも、帰るに帰れない事情と、ただひとり彼と口を聞いてくれる人間の存在、そして、もうひとつの気がかりが、少年をこの里に留めていた。

 
 助け出された夜が明け、少年は再び鴉の少女のいる天幕を急いだ。
 だが、予想通り、少女は押し黙ったままうつむいているだけだった。里の者が持ってきたのであろうパンも水も全く口にしていない様子だった。
 少女の細い足の鉄の枷が嫌でも目に付く。最初に会った時も、少女の体を土に縛り付けんとしているようだった。細い体ゆえに、鉄の枷はよけいに重々しく見える。
「これ、取れないかな……」
 膝を折り、枷に触れようとした瞬間、息を飲む音とともに、身じろぎ一つしなかった少女の体が大きく跳ねた。両の枷を繋ぐ鎖を引きずらせ、身体を後ずらせる。瞳は丸く見開き、恐怖に縛り付けられていた。
「あ、ごめん」 
 少年は思わず彼女と反対の方向へ身を引く。
 するとまた、少女は灰色の翼をたたみ、身体までたたむようにして背中を丸めた。
「なあ、おいら、あんたに何にもしないって」
 そう幾度か声をかけるも、少女は先刻とは違い、微塵も動きを見せない。肩をすくめ、少年は天幕を後にした。
 陽は高く上り、じりじりと砂を肌を灼いている。その暑さよりも、少女のあの恐れ慄ききった表情が少年に焼きついていた。
「なあ、じいちゃん」
 少年はその足で老人のいる小屋へ赴く。老人の枯れ枝のような指は、色褪せた本をめくっていた。
「それ」
 少年は小屋へ入るなり、その古びた本を凝視する。文字など、彼は知らない。だが、常に老人の手中の本が、生身の拳や、鉄の剣と同等、いや、それ以上の力を持っている事は知っていた。魔道。ムワリムが、一度だけ話してくれた。精霊の力を借りて、風や炎を操る力。
「うん?」
 白眉が上がり、丸く黒い瞳が少年を射抜く。
 いつしか、見せてくれと頼んでみたが、断られた。知らない方がいいと。しかし、諦める気にはなれない。
「おいらも魔道が使えるようになりたい」
「そんなもん知らんでいい。お前さんの人生には関わりない」
「おいらが知ってはいけない事ってなんだ?あんた、いろいろと教えてくれたじゃないか」
「知らない方がお前さんにとって幸せな事もある。それを選別するのが大人の役目だ」
ムワリムも、そう思っていたのかな―――
 優しかった育てのラグズ。
 砂漠で生きる為の事は何でも教えてくれた。訊けば何でも教えてくれた。だが、もし、胸にしまっていた事、自分の様相の違いを訊いたら、彼は話してくれただろうか。

「じいちゃん」
 少しの間に、少年の砂漠の記憶が奔走していた。川のような記憶の流れで気付いたのは、自分は弱い存在だと。自分はどうしようもなく非力なのだ。
「おいら、ムワリムにずっと守られて生きてきたんだ。だけど、そんなのもう嫌だ。嫌なんだ」
 老翁は、一度少年の顔を見ただけで、すぐさま顔を古代文字の並ぶ頁へと戻す。
「そうしてどうなる。ムワリムと言うラグズは、お前さんに人を傷付ける力など持って欲しくないと思っていたら。ましてや、ラグズは、ベオクの鉄なんかより、魔道をひどく嫌う」
「それでも!」
 腕力もなく、飛べない自分がひとりで立つには、魔道しかない。彼はそう信じていた。そして、ムワリムを探すのだ。
「後悔しても知らんぞ」
「……え?」
 老人は、あっさりと少年に本を差し出した。今まで頑なに拒まれていたゆえに、唐突に魔道書を向けられ、戸惑ってしまう。
「あ、ありがとう……」
「古代語は最初から読めぬとも、まず精霊に自分の名を告げればいい。だがな、覚悟しておけ。己の力を過信すれば、精霊の怒りを買う。そうなれば、まともに使える前に死ぬ可能性もあるぞ」
「名前を……!」
 少年は急に身体を萎れさせる。どうしたのか、と老人が問えば、小さな口から弱弱しい声が漏れた。
「おいら、名前ないんだ」
 ムワリムが砂漠より拾った赤子を育てると言った際、ラグズの仲間たちとの約束が三つほどあった。ムワリム以外は関知しない事、同胞の存在が脅かされれば命を絶つ事、そして、名前を与えない事。名前は、存在を識別するためであり、名付けないという事は、存在を認めないにも等しかった。
「なんとな」
 老人は、彼を育てたラグズの、仲間たちの間との葛藤をそこに見た。白髭の豊かな顎を撫で、やがてふう、と一息つく。
「トパック」
「うん?」
「ぬしの名じゃい」
「え……おいらの?」
 目を丸く少年に、老人はうなずく。すぐにその意味を知り、ありがとう!と少年、いや、トパックは弾けるように笑った。もう一度礼を叫ぶと、魔道書を片手に小屋を飛び出した。しかし、入り口にて、大きな影にぶつかりそうになる。
「あ、ごめんなさい」
 影―――背の高い男からの返事はなかった。彼を避けている里の人間であろうが、トパックは、今はそれを気にする様子もなく去って行く。


「おお、帰ってきおったか」
「随分と元気の良い童だな」
 その大きな影は、走り去るトパックの背中を、苦笑しながら眺めていた。
「お前さんが拾ってきた子じゃよ。ラグズに育てられたベオクじゃそうな」
「ほう、道理で。拾った時に妙な匂いがあった」
 男は眉を上げた。彼は、ラグズどころか、ベオクである産みの親から捨てられた。だから、余計に互いに忌み嫌い合う異種が養護し、されるなど奇妙に映ってしまう。
「ところで、外から話が聞こえたのだが……良いのか?」
「兄さんとは違ってな、純然たるベオクは、己の持ち物をどう処分するかに悩むもんよ」
 かつて、砂漠に捨てられた幼き身を救ってくれた恩人に、老人はそう言い放つ。かか、と歯の抜けた口内を見せると、男も釣られて笑った。餞に、我が名を授けてやろうかと囃したが、老人も負けずと、ソーンバルケなど、長すぎて枯れた舌が回らぬわと言い捨てた。


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