たとえ砂上の城だとも

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 よしんば魔道を使えても、空を飛べる訳でもなく、誰よりも早く駆ける訳でもない。ましてや、万理を手に出来る訳でもないのだ。
 だが、これで一歩、育ての親や、ラグズの仲間たちの一助になれるはずだ。トパックは、そう思いながら、必死で古代文字と戦っていた。
 炎の精霊が、ようやくトパックという少年の存在を覚えたとわかると、彼は足を弾ませて鴉の少女の天幕を急いだ。

「なあ、聞いてくれよ!」
 勢いよく帆布がめくれ上がると、鴉の少女は、疲弊した顔を仰いだ。
 あれから、トパックは毎日少女の天幕を訪れた。当初はやはりひどく怯え、少年から必死で逃れようと身体をもがいていたが、何もせず、声もかけず、ただ隣に座って幾時を過ごした。その甲斐あってか、未だ少女の口から声は聞こえないが、彼を拒む反応は確実に薄れていた。

 しかし、今日の彼女の反応は少し違った。トパックの目には、関係が逆戻りしたように映る。拒否されている訳ではない。だが、怯えているのは確かだった。
「おいら、何かしたかな……」
 乾いた唇が震えていた。そこから空気が漏れる。
「うん?」
 空気に紛れた音を聞こうと一歩近付けば、少女の身体は大きく飛び上がった。
「ごめんなさいごめんなさいごめなさいごめんなさい……!」
 以前のように、身体を灰色の翼に包み、震え出した。初めて聞く少女の声だった。
「やめろよ!」
 トパックは駆け寄るが、彼を否定する声が、悲鳴となって天幕を震わせた。その様子に、今度はトパックが戸惑いはじめる。彼女が奴隷であった事は知っているが、幼い思考では、そこでどんな扱いを受けた事などは想像が行き届かない。
「おいらだよ。トパックだよ。ぶたないよ」
 そう繰り返すだけしかできなかった。
 
 時がそうさせたのか、彼の呼びかけの賜物か、固く閉じられた灰色の羽根はゆっくりと開かれた。しかし、身体を起こすも、トパックを映す瞳は、虚ろだった。
「……連れている……」
 ぼそりと掠れた声がした。不用意に近寄らないように、とトパックは耳だけ傾ける。
「せいれい、連れている」
「うん?あ、ああ。おいら、魔道の練習してんだ。これが使えるようになったら砂漠に帰るんだ」
 両頬を上げて古びた本を少女の眼前に出すが、虚ろな瞳は悲しげな光を呼んでいた。
「ニンゲンって、いつもそう。そうやってわたし達を傷付ける」
 ラグズは、ベオクの鉄なんかより、魔道をひどく嫌う。
 悲しみを湛えた声が、老人の言葉を蘇らせた。
 わたし達。きっとそれはラグズ奴隷を指しているのだろう。彼女を連れていた男達は皆鉄の武器を持っていた。魔道でも、酷い目に遭わされていたのだろうか。
 トパックは思わず頭を乱暴に振った。
「でも、おいらは違う。あんたを傷付けるようなことはしないよ!おいら、砂漠の、ラグズの仲間たちの役に立つために魔道を使えるようになりたいんだ!」
「ラグズの、仲間……?」
「うん!そうだよ!おいら、ベオクだけど、ラグズに育てられた。まちがってもあいつらみたいにラグズを奴隷にしようなんて思ってない!」
 怯えと悲しみ以外の表情を初めて見た興奮が、口を動かす原動力となった。言い終えた後は、興奮のせいか、肩で呼吸をしていた。
 鴉の少女は眉を寄せる。彼女は産まれた頃から奴隷だった。そんな彼女に、ベオクの言葉が信じられぬのも無理はない。
「なあ、おいらと、おいらと一緒にここを出ないか。砂漠の家で一緒に暮らすんだ」
 自分に対してはともかく、仲間たちは、同じラグズならば受け入れてくれるに違いない。
「……」
 少女はトパックから目を背け、押し黙っていた。信じるか否か、そんな迷いの色を面に出して。トパックもそれ以上強く誘わず、考えといてくれよ、と残して去って行った。




 老翁は、トパックに魔道を教えるでもなく、ただ本を彼に渡しただけで蟄居してしまった。師もおらず―――魔道というものを知っている者ならば、この状況を知れば青ざめるであろう―――トパックはひとり炎の精霊と通じようと奮闘する日々を送っていた。精霊たちはトパックの存在を認識したものの、依然として童子の使役を拒み続けていた。
 ともすれば、まともに使える前に命を失う。そう言っていた老人の言葉を、トパックは身に染みていた。身体の内部に熱い塊が浸透し、血が沸騰する感覚が何度も彼を襲った。幼い子が一人で、師もおらず、身体に纏う炎精を制御するには、しばし耐えがたい苦しみを味わう羽目になる。一歩間違えれば、そのまま精神まで焼き切られてしまう事も、彼は知らない。
 
 日が暮れ、冷え込む夜がやって来ても、トパックは慣れぬ古代文字を詠唱していた。
 精霊の拒否を真に受け、小さな身体の体温は、砂漠の日差しの下にも加えてかなり熱くなっていた。夜の冷気に包まれるも、すぐに肌から蒸気が上がる。
「―――っ!」
 眼前に、熱が弾けた。指先がちりちりと痛む。すでに闇に溶けてしまった赤い光と、赤く腫れあがった指先とを、交互に視線を送る。
「……った、できた……」
 確かに、あれは炎だった。彼の周囲の炎の精霊たちも、心なしか穏やかに浮遊しているように感じた。
「ったぞ!できた!出せたーっ!」
 夜は更けたにも関わらず、トパックは暗い空に向かって大声を張り上げた。そのままぽすんと砂の上に身体を投げ出す。指はまだ痛み、その痛みに合わせて心臓も大きく跳ねている。しかし、その律動も、達成感を浮き彫りにする要素でしかない。
「できたんだ。おいら、魔道が使えた……」
 興奮は、冷たい風に晒されても冷めそうにもなかった。だが、彼以外の砂を食む音に飛び上がる。里の者が、さすがに苦情を言いに来たか。
「ごめんなさ……」
 振り向いた先には、鴉の少女がいた。夜目と栄養不足のために、か細い身体は僅かな風でも吹き飛ばされそうだった。トパックに歩み寄ろうとし、少女は砂に足を取られてよろめいた。トパックは慌てて少女に駆け寄る。
「大丈夫なのか」
「見えない、けど、精霊がたくさんいたから……」
 少女の身体を支え、砂に座らせてやる。少女、と言っても見た目は十五くらいだった。十にも満たないトパックに比べて背は高い。しかし、立位の身体は驚くほど痩せこけて見え、子どもの彼でも支えるのは容易だった。
「できたのですか……」
「うん!まだちっちゃい火だけどさ、焚き火にはなるぜ」
 誇らしげに、トパックは胸を張る。その反対に、少女は変わらず、悲しげな空気をまとわせていた。それに気付くと、トパックも悪びれたように口を噤む。ラグズは、ここまで魔道を嫌うものなのか。
「ごめん」
「別に、大丈夫です」
 素っ気なく返された後は、沈黙が続いた。今までもこうして黙って座っていた。だから、別段気まずい事はない。
「ラグズの匂いがする。虎の」
 沈黙を破ったのはトパックではなく、少女だった。ぽつりと呟く声の主に、トパックは唖然として顔を向ける。
「ラグズに育てられたって本当なのですね」
 その言葉に、少年の頬は紅潮し始めた。
 信じてくれた。トパックは熱の冷めぬ顔のまま、鴉の少女をじっと見つめる。その視線がむず痒いのか、居心地悪そうに少女は身じろぎした。くすぐったさを紛らわすかのように、少女はトパックに問う。
「あなた様と一緒にいるラグズの仲間は、なぜ砂漠に住んでいるのですか?」
「そ、それがさ、よくわからないんだ。おいらが捨てられるずーっと前から砂漠にいたみたいでさ。あ、でもムワリムが砂漠の向こうにいた事があるって言ってたな」
 あなた様、大仰に呼ばれて背中に痒みを覚えながらも、トパックはそう答えた。
 少女は顔を強張らせて息を飲んでいた。灰色の羽根は闇に溶けず、かさかさと揺れて存在を示している。夜風のせいではない。
「……どうしたんだ?」
 少女の瞳を覗き込む。今までの虚無感とは違い、生気が見えるも、どこか強張っているように思えた。夜目ゆえに、闇への畏れがあるのだろう。トパックはそう思い込んでいた。
「行く」
「え?」
 再び訪れた沈黙を、またもや鴉の少女が破る。ぼそりとした呟きは、しっかりとトパックの耳に入ったが、聞き返したのは反射と言ってもいい。
「行きます。あなた様の住む拠へ。どうか連れて行ってください」
「い、いいの?」
 少女の小さな顔は、強く頷く。その拍子にトパックの小柄な体はやった!と叫んで大袈裟に立ち上がる。
「あ、でもさ」
 大きな声に目を丸くしている少女の前に立つ。
「もう奴隷じゃないんだからさ。あなた様とか止めようぜ。それに、おいらトパックって名前もらったんだ」
 少女は心の中でその名を反芻する。しかし、
「な、ちょっと呼んでくれないか。トパックって」
 そう請われ、躊躇ってしまった。今まで、ベオクの名を口にした事はない。そうしようものなら、半獣の汚らわしい口で、と鞭で打たれるのだ。
「ト……」
 だが、月明かりの下の夜目でも、少年の瞳は期待に輝いているのがわかった。ひとつ、ふたつ深く息を吸った。
「ト、パック様」
「あー!だから、様はいらないんだって!」
 名をもらった嬉しさが再び彼の胸に舞い戻っていた。地団駄を踏んでもう一度少女に請う。
「……トパック……」
 初めて他人に名を呼ばれ、トパックは胸に熱いものを感じていた。名を呼ばれる。名のなかった少年にとって、誰かに存在を認めてもらった証かもしれない。
「あ!そうだ!あんたの名前を聞いてなかった」
「わたしの」
「そうそう」
 もしかしたら、彼女も自分と同じく存在を認められないまま育ったかもしれない。そんな危惧が後から産まれた。しかし、少女はあっさりとビーゼ、と口にした。
「ビーゼ、ビーゼ。いい名前だ」
 いい名前だ、と口の中で繰り返す。その時の顔は、奴隷だった少女をも釣られて笑顔にさせていた。


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