1 今日の原因

 クリミア王国の片隅の森に、ひっそりと傭兵団の砦はある。
 砦、しかも傭兵団の―――と言っても物々しい雰囲気はなく、石の塀も低く所々欠け、建物自体もかなり老朽し、石の隙間から雑草が生えている個所も、一つや二つではない。
 庭には小さな畑と、大量の洗濯物が雨風を避けるように軒下に吊るされている。そして、最近は鶏と山羊が新しい住人となった。華奢な少女が雨を物ともせずに彼らの世話をしていた。ここが傭兵団の本拠地など、想像する者などほとんどいないだろう。


 冷たい空気の下、砦の厨房では青年が包丁を動かしていた。すらりと背は高く、細い瞳の温和な眼差しは、調理台に向けられていた。彼ももちろん傭兵だが、柔らかな表情とは裏腹に、残り少ない食材の切り盛りに神経を尖らせているなど、誰も知る由もない。
 
 庭から怒号に近い叫び声が響いた。
 厨房にいるオスカーの耳には届きはしたが、彼の関心は無論そこにはない。
 そもそも、一日に一度は聞こえるこの類の声を、気に留める者はいない。当事者の片方の親類であるオスカーも同様だった。
 野菜を入れている籠は、何度見ても同じで、保存棚も同様に乏しい、としか言い表わせなかった。溜息を吐いたのと、荒々しい足音が鳴り響いたのは同時だった。そして、人影と包丁が空を切る音も。

「っぶねえな!何するんだよ、兄貴!」
 柱に歯の三分の一ほど刺さった状態で柄が小刻みに震えている。ボーレは青ざめた顔で兄に怒鳴った。
「八つ当たりなら他を当たれ」
 オスカーの声は、刺さった包丁のように冷たかった。
 八つ当たりなのは兄貴の方だろうが!
 そう反論したいが、兄の次の攻撃を避け切れる自信はなく、大人しく食卓の椅子に腰を下ろす。兄の心が波立っている理由は詮索せずともわかる。金がない訳ではない。買い出し用の荷馬車は今仕事に出ている仲間を乗せてクリミアの山村に出払っている。

「おれが街まで行ってやるよ」
 馬は他にも数頭繋がれているが、この大雨である。商店がある街まで往復するには一苦労だった。
「馬鹿を言え」
 苦労を買って出ようとする弟を、兄は一言で否定した。
 ボーレの馬術の稚拙さは誰よりも知っている。弟の身を案じているのではなく、せっかく買った食材が泥に濡れる心配をしていた。しかし、雨は絶え間なく土を穿っている。このまま待っていても止みそうにはない。
「この雨だが、四の五の言ってられないな……」
 庭に繋がる窓に視線を向けていた。オスカーは先刻の庭の声を思い出す。
「やっぱり頼むとするか。だが、ミス……」
「あ、それは駄目だからな!」
 言い終える前に、ボーレは立ちあがって兄の言葉を制す。オスカーは弟のその様子に内心で溜息をついた。
 いつもの喧嘩だ。
 まれに酒の肴に原因を予想し合う事もあるが、言い争いについて追及する事も誰もしない。例え聞いたとしても、後悔するような他愛のない事だ。今では喧嘩自体が睦み合いなのだろうと皆呆れている状態なのだ。
「私もこの場を離れられないし、ティアマトさんに頼むのも悪い。お前より馬に乗れるミストと行くのが一番手っ取り早いんだがな」
「ティアマトさん!ティアマトさんがいるんなら早く言ってくれよっ」
 ボーレの顔が明るくなったのが、手に取るようにわかった。弾けるように踵を返し、食堂を出ようとする。しかし、入り口の影にぶつかりそうになり、反射的に身を引いた。

「きゃっ」
 という短い悲鳴にボーレは目を丸くする。
 ぶつかりそうになるも、ボーレは眉をひそめ口をつぐんだままだった。気まずい雰囲気を打ち破るため、オスカーが代わりに口を開く。
「すまないね。ミスト。大丈夫だったかい?」
「う、うん。大丈夫よ、オスカー」
「それはそうと、雨の中悪いけど、買い物に行ってきてくれないかな。ボーレと」
 ボーレと。そう言った矢先、浮かない顔だったミストが更に強張る。
「こんな雨の中悪いけど、私も手が離せなくてね。都合が悪いかい?」
 ミストの目が隣のボーレへと移った。すぐにオスカーへと戻る。
「ううん。わたしは大丈夫。行くよ」
「だから、お前は止めておけっての!」
 ミストが返事をした途端、黙りこんでいたボーレが突然噛みつくようにミストに言った。
 すると、先刻まで萎れたようなミストも、睨みながらボーレに向き直る。
「買い物くらい行けるわよ!さっきからわたしの仕事取り上げてばっかりで!」
「外は寒いだろ。それに、馬は余計に危ねぇって!おれ一人で行けるから」
「お前一人だと不安だから」
 オスカーが口を挟むが、睨み合う二人には聞こえていないようだ。
 先刻の喧嘩はこれだったのか。
 どうも、雨の中働くミストを気遣ったつもりで―――おそらくその気の遣い方が悪かったのだろう―――彼女を怒らせてしまったようだ。 
 また些細な事で、と溜息をつく。
 どこか無神経なところがある上の弟に、オスカーは頭を抱える時がある。こと彼女については尚更だった。女の扱いに慣れろとは言わないが、少しは衝突の回数を減らしてほしいのが本音だった。
「いいか、ボーレ」
 わざとらしく咳払いし、二人をとりあえず抑えると、オスカーは弟に向かった。
「馬の扱いについてはお前よりもミストの方が上だ。それは馬術を不得手とするお前が認めなくてはいけない。だが、買い出しは結構な量になる。ミスト一人では運びきれない。そこでお前が大人しく手伝ってくれると有難いんだがな」
 ゆっくりと諭すように説明するが、ボーレは堅い表情で兄を睨んでいた。兄貴は黙っていてくれと言いたげに。無理ぐり蚊帳の外へ押しやろうとするボーレに、さすがのオスカーも閉口した。
「お兄ちゃんたちも帰ってくるでしょ?今から行かないと夕飯に間に合わないよ」
「だからお前は留守番しとけって」
 ミストが助け舟を出すも、やはり効果はない。
「何で?オスカーの言うとおり二人で行った方が効率がいいのに」
「お前少しは自分の身体の心配しろよ」
 その言葉にオスカーは眉を寄せた。ミストの身体を心配しての弟の言葉だが。それはミストもオスカーと同じ同じ感情らしく、怪訝な顔でボーレを見返している。
「別に、わたし何とも……さっきからボーレわたしの身体の事ばっかり言って、どうしたの?」
「どうしたのって……お前、何ともない訳ないだろ!」
 ボーレは苛立った素振りで両腕を振る。そして、観念したように大きく息を吸い込んだ。
「馬はもっと危ないんだよ。腹の子に障るだろ!?」

「はあ?」
 雨の冷たい空気を打ち消さんとばかりに、重複したミストとオスカーの声は、食堂中に響いた。
10/06/17  next/Back