あっちから謝るまで許さん!

「えっ……ミストに……?」
 そう聞かされて、ティアマトは驚きの声を上げた。
「ええ、まあ、そうみたいで」
 外套の下で苦笑いのまま、オスカーはそう告げた。
 同じく外套の下のティアマトの表情も、突然の報に驚いてはいるが、否定的なものではないようだ。それどころか、「妊婦さんに必要な物を買い足さなくてもいいかしら」と遠くになった街を振り返った。
 
「いや、まだ必要ないでしょう」
 当面の食料を乗せた馬は、雨の中を慎重に走る。分厚い雲の下、太陽の位置はわかり難いが、西へ沈むにはそう時間がかからないだろう。砦へ着いた頃には、仕事へ出ている面々が戻っているかもしれない。ひと仕事終え、疲れている仲間を空腹のまま待たせてしまうのは心苦しかった。

「そうかしら」
 と首を傾げてティアマトは手綱を握り直す。
 皆大人である。一部を除いてはいたずらに囃したてたりする者はいない。あの二人の性格を考えたら、自然に浸透するように仲間に認識させる方が良いとオスカーなりの気遣いだった。
 だが、それは皆―――年長のティアマトでさえ未知の世界だった。ミストの体調に一喜一憂する弟が安易に想像でき、オスカーは苦笑いが解けないでいる。



 砦では、この雨天のように晴れやかさとは遠い空気に満たされていた。
 開拓地でのならず者の討伐に向かっていた数名の団員たちは、一日半ぶりの家の重苦しさに怪訝な顔をするが、留守番中のボーレの様子を見てすぐに察した。どうせまた、ミストと喧嘩でもしたのだろうと。
 そうと勝手に片付けると、身体の疲れを癒すべく、めいめいの行動を取る。
「兄さんは?」
「ティアマトさんと買い出しに出てる」
 ぶっきらぼうな答えが返ってくる。その声色から、ヨファは下の兄の馬術の拙さゆえに、上の兄は仕方なく副団長と街へ繰り出したのだと予測する。無論、それに至るまでの出来事など予想できるはずもない。
 愛用の武具を部屋に戻すと、ヨファは雨の中だが、再び外へ出る。荷車を曳いていた馬の手入れが彼を待っていた。
 
「あ……」
 薄暗い空の下、二頭の馬の影を見つけ、ヨファは大きく手を振った。
「お帰りなさい」
 幼い頃より、行儀のよさは変わってはおらず―――物心つく前から傭兵稼業に身をやつしても―――長兄は幾度安堵した事だろう。

 馬車と弟が視界に入り、オスカーは危惧が現実になった事を悔む。
 疲れている仲間を空腹にさせてしまったと、馬の足を速めた。泥濘んだ土で滑らないよう慎重にだが。
「夕食の準備はまだなんだ。すまない」
 近寄って来た弟にそう詫びるも、ヨファは少しも疲れを感じさせぬ所作でオスカーの手綱を持つ。
「ううん、みんな食べるよりも飲む方がいいみたいだから。兄さんこそ、こんな雨の中ご苦労さま」
 馬はヨファの好意に甘えるとし、オスカーは荷を砦に運ぶ事にした。ティアマトも同じくヨファに馬を託して後に続く。

 外より、砦の窓を通してボーレの姿が見えた。
 露骨にではないものの、心中は平穏ではないのはすぐにわかった。ちらりと後ろに目を遣る。中庭にいるヨファは、至って普段通りの様子で雨に濡れた馬の身体を拭いている。
 昼間とは打って変って、雨音以外の物音が屋内を騒がしていた。使った装備の手入れを行う者、それが終わったのか後回しにしているのか―――酒を片手に談笑する者たち。姿が見えない者は、自室にいるのだろう。ボーレはシノンとガトリーに混ざり、酒を傾けて仕事の話―――と、言うよりガトリーの脚色たっぷりの武勇伝―――を聞いている。普段通りの空気が流れていると、オスカーは感じた。この調子では、ボーレはまだ何も言ってはいないのだろう。


「ボーレ、手伝ってくれないか」
 常らならば、ヨファとは違い嫌な顔を表に出すのだが、ボーレはあっさりと席を立った。
 仲間全員が囲める食卓から、調理場まで少し距離がある。
「ミストの調子はどうだ」
 オスカーの落ち着いた声は、包丁の音と、雨の音で隣の弟以外には届きはしない。
「どうもって、部屋から出てこないんだ……ちゃんと話し合おうって言っても、全然駄目で」
 ボーレもぼつぼつと、大粒の雨のように重たげに言葉を吐き出す。次に吐き出した言葉に、オスカーは一度だけ野菜を切る手を止めた。
「あいつ、できてないって言い張るんだ」
 オスカーは取り分け驚きも動揺もしなかった。ボーレの言葉を信じていないと訳ではなかった。だが、頭のどこかで弟の思い込みではないかという疑念もあったのだ。それが的中してしまっただけだと、心の中で溜息をつく。
「ああ、そう―――」
「何であいつ認めねえんだよ……!」
 今度は、完全にオスカーの手が止まった。
「ボーレ、お前な……」
「まったく、どこまで強情なんだ、あいつ」
 お前には言われたくない、と心の中で呟くとして。
「そんなのミストにしかわからないんじゃないか」
「でも、兄貴」
「大体、確信できる証拠なんて」
「あるんだよ!」
 突然張り上げられた声は、雨音も消せなかった。皆のいる場所まで届き、注目を一身に浴びてしまう。
「な、何でもねえよ!」 
 誰かに問われた訳でもないのに、そう言い放って皆に背を向ける。
 これ以上追及すれば悪戯に話を広げてしまうかもしれない。
 そう考え、オスカーはそれからボーレに問う事はしなかった。ボーレも、口を固く結んで肉を一心不乱に捌いていた。その横顔は、兄とのやり取りに心を動かされながらも、やはり自分の考えを信じようとしているようだった。
10/06/27   next Back