4 思った以上に冷たい声

 ボーレの馬鹿。
 この言葉が、何度この砦に響いただろう。今日この日だけでも、心の中でどれだけ叫んだ事だろう。
 なぜ決めつけてくるのか。
 双方の思い込みの激しさと、短気さが、絶えず衝突を呼び起こしているのは自覚している。だが、今回ばかりは向こうの一方的なものだった。しかも、性質の悪い類の。
 そもそも、なぜ彼がそういう結論に至ったのか、長い時間考えても理解に苦しんでいた。恋人と呼べるような関係になって、それほどの月日は経っていないのに。子を成すような行為どころか、口づけする事も、手を繋ぐ事すら精一杯だのに。

 傍から見れば、小さな事で、と一笑されるような事を一生懸命積み重ねてきたのだ。距離が縮まるのがゆっくりだからこそ、その喜びはひとしおで。先日に初めて唇を重ねた時を思い出しては、今もこうして頬を赤らめてしまうのだ。

 しかし、その甘美な記憶が、ミストの赤くなった頬をがらりと青く変えさせる。
 もしかしたら、とにわかに信じられない疑念が胸の中で膨らみ始めた。まさか、まさかと否定すればするほどそれは大きくなり、確信へと変わる。
 
「―――ボーレの、馬鹿っ!」
 すでに二桁は叫んだであろう言葉を、ミストは大きく息を吸い込んで放った。そして、自室の取っ手に手をかける。
「あっ……」
 しかし、扉の影にいた客人が、その勢いを挫いた。ぶつからなかったものの、薄い扉を通したて叫びが彼女に届いた事は容易に想像がつく。きまりの悪い顔で、客人を仰いだ。
「ご、ごめんなさい、ティアマトさん」
「ミストこそ、大丈夫なの?」
 女騎士は、己の身よりも、ミストを心配そうにのぞき込んだ。彼女の顔色は、未知のものへの不安が伺え、ミストを凍りつかせた。
「あのね、ティアマトさん……」
「オスカーから聞いたわ。大事な身体なんだから、無理をしてはだめよ」
 やっぱり。
 ミストの顔色はみるみるうちに悪くなって行く。ティアマトは、妊婦特有の体調不良だと勘違いしてしまったようだ。
「違うの、ティアマトさん」
 ミストは懸命に心臓をなだめ、ティアマトに真実を説明する。
 雨は余計に激しくなり、ミストの声をかき消さんばかりだったが、ティアマトは黙って耳を傾けてくれた。
 
 
「……そうだったの、ごめんなさい。早合点してしまったようね」
 ミストの話をすべて飲み込んだティアマトは、素直に謝ってきた。双方人伝に聞いた話だが、ティアマトは、彼らの性格と日ごろの素行を考え、あっさりとミストの言を信じる事にしたのだ。
「ううん、ティアマトさんのせいじゃないから」
 彼女と、彼女に告げたオスカーを恨む気はない。全ては、早とちりと思い込みを押しつけているボーレが悪いのだ。
「そうと知ればオスカーにもちゃんと説明しなくちゃね」
 今オスカーが夕飯の準備をしているはずだから、とティアマトはミストを伴おうとする。だが、早くあの勇み足を納めなければと、ミストは走り出した。これ以上話が広まっていない事を祈りながら。


 食堂では、皆くつろぎながら夕餉を待っていた。
 ミストの気配に、まばらに顔を向ける者もいるが、彼女に対して何か好奇などといった視線を向ける者はおらず、ミストはひっそりと安堵する。ちらりと調理場へ視線を向けると、三兄弟の上二人がいた。
 くつろいだ食堂の空気と、熱い湯気と料理の匂い、そして大雨の音がミストの影を調理場までは運ばなかったらしい。近くまで寄って、ようやくボーレが顔を上げた。ミストの姿を見た途端に、表情が急に強張る。
「な、何だよ……」
「手伝う」
 ミストも堅い表情で、ボーレの隣に並ぶ。だが、料理は粗方できており、手を付けるべき作業は見当たらなかった。仕方なく、使い終わった道具や残りの食材を片付け始める。
「二人とも、別の場所で話し合った方が」
 肩を並べているように見えて、一触即発の雰囲気を醸しているのだ。
 見かねてオスカーはそう助言する。だが、黙々と二人は手を動かし続けた。

「……あんな事で、できる訳ないじゃない」
 口を開いたのはミストが先だった。憮然としてはいるが、その顔は赤くもあり、食堂へ来た当初のぴりぴりした気はなくなっていた。ボーレも「あんな事」を思い返し、さすがに己の考えを改めるようになったのか、頬に朱に染まりかける。オスカーは完全にミストに同調していた。「あんな事」を詮索する気もまったくないが。

「おれが、間違っていたのか」
 口の中で呟く。
 そういう方向の知識が豊富ではない事は自覚している。
 だが、人という生き物がどうすれば子孫を残すか、その知識すら間違っていた事を露呈させてしまい―――決して子供とは言えない歳でもないのに―――ボーレは動揺を隠せないでいた。
「でもな」
 否定の言葉は、意地で支えられていた。
「でももだってもないの。ボーレが思っている事とは違う」
 何が、とは離れているとは言え、仲間の前でははばかられた。だから、ミストも恥ずかしさを堪え、恋人と、己の心を落ち着かせるように言葉を紡ぐ。
「でも。おれは聞いたんだ」
「だから、誤解なの!」
「違う、だって」
 かぶりを大仰に振り、放たれたはずの次の言葉は、厨房から中庭へ直接続く扉の音で中断された。調理場にいた三人が一斉にそこへと注目する。
「あれ、どうしたの」
 馬の身体を拭いていたヨファが、目を丸くして三人を見返していた。オスカーはともかく、ボーレとミストがさも驚いたような顔をしていたからであろう。
「ヨファ、ご苦労さまだったわね」
 落ち着いた声は、ミストのものではなく、後からやってきたティアマトからだった。遅れて食堂へ入ったはよいものの、二人の険悪な雰囲気にすぐに気付き、つい首を突っ込んでしまったのは彼女の世話焼き癖とも言えよう。
「もう、いいよ。ボーレの馬鹿」
 低い声は鍋の煮える音と雨の音の中でもしっかりと響き、ボーレをすくませた。
 馬鹿!と叫ばれ慣れているはずなのに。小さな声は鋭利な刃物を思わせ、足に突き刺さっているようだった。だから、くるりと去っていく背中を追う事はできない。
 それは他の面々も同じようで(事態を飲み込めていないヨファは別だが)、ミストが食堂から消えて行くと、ボーレをちらりと見た。
 しかし、ボーレは「馬鹿」の呪縛から解き放たれる事はなかった。
10/07/02   next Back