32 さよならのためのキス

  空がすっかり暗くなったというのに、勝鬨が未だ体中に響いている。

 長きに渡る戦の日々が終りを告げた。だが、これからのクリミアは、戦で傷付いた土地を平定しなければならない。それは簡単に乗り越えられるだろう。クリミア城に集まった領民たちの希望に満ちた顔を見れば、そう感じずにはいられない。成りゆきで参戦していたとは言え、マーシャにとってクリミアは他国。しかし、思い返してみても、クリミアが狂王の手からエリンシアの元へ戻った事が、自国の事のように胸がつまる。長い間共にいたからなのだろう。

 「今までよく頑張ったわね」

 クリミア王宮には天馬用の厩舎はないが、広い厩舎の一画、他の馬たちよりかなり離れた場所を借りて天馬を繋いでいた。すでにマーシャの上官の天馬が繋がれていた。冬の名残りか、天馬の口や鼻腔からしきりに白い息が放たれる。

 鼻先を頬にこすりつけてくる愛馬の鬣を撫でる。充分に羽根を休めて欲しい。明日からは当てのない旅になるかもしれないから。

 当てのないーーーーーーー

 マーシャは鬣を撫でる手をぴたりと止めた。

 自分はベグニオンの聖天馬騎士団を除隊した身。このままアイクの傭兵団に残る事ができるかもしれない。しかし、断られたら他の傭兵団へ行くしかない。それから、クリミアへ王宮騎士団。

 「我がクリミア騎士団へ来てはいかがか?」

 そう言ったケビンの自身に満ちた顔が浮かんだ。彼の事だから、お世辞や社交辞令で発した言葉ではないだろう。クリミアへの仕官。それが叶えば、あの人の傍にいられるのだ。戦争が終わっても、あの人と轡を並べていられる日々が。

 「マーシャ」

 「は、はいっ!」

 その声に身体が強張るのは条件反射だった。しかも気になる男の事を思い浮かべていたのでなおさらだった。顔を赤くして振り向いたその先に、マーシャの上官が怪訝な顔をして立っていた。

 「どうした?」

 「い、いえっ。何でもありませんっ!」

 まさかクリミアへ仕官した自分を妄想していたとは言えない。さらにあの人と深い関係になって・・・などなおさらである。

 「まあいい。実はな、シグルーン様よりお前宛てに勅命書を預かっていてな」

 「シグルーン様が・・・・・・?」

 聖天馬騎士団を束ねる者の名を出され、マーシャの体に緊張が走った。マーシャ本人は除隊したと言い張っているが、正式な手続きを経ずに逃げるように騎士団を去った。シグルーン、しいてはベグニオン側から見れば脱走兵という事になる。その処分が下されたという事であった。

 「昨晩届いた物だが、決戦前だったからな」

 タニスは相変わらず堅い顔でマーシャに丸められた羊皮紙を手渡した。ベグニオンの印が入った封はすでに開けられている。恐る恐るそれを受け取ると、ゆっくりと開いた。

 書かれていた文字は、覚悟していたものではなかった。だが、喜びとは別の感情が押し寄せているのがわかった。それがなぜかのかも。唇が冷たくなっていた。

 「手続きはシグルーン様の方で進めていらっしゃるそうだ。帰還する期日は追って言い渡すから、それまではわたしと共にクリミア城で待機しておくように」

 「はい。タニス副長」

 小さいがしっかりとした返事は上官に届いたらしい。しかし、去って行く背中ではなく、マーシャの視線は自分のつま先にあった。





  興奮覚めやらぬ空気が城を支配していた。昨日のそれと似ているが、含まれている気は対称的であった。所々から漏れる灯と笑い声が心からの安堵だと、誰もがわかる。

 あの人は多分起きているはずだ。

 マーシャの探し人は、最後に見た時は狂王を討ったアイクの体を泣き喚きながら抱きしめていた。普段なら彼のそういった行き過ぎた行動に周りは水を差すのだが、今回ばかりはアイクの困惑をよそに寛容されていた。あの人なら、体力の続く限りこの感動を振りまいているかもしれない。

 ケビンは人の群れの中にはいなかった。他の者と杯を交わしているのか、それとも疲れて休んでいるのか、様々な予想が立つが、こうもケビンの騒がしい声がしないとなると、彼がいる所は自然と限られてくる。

 案の定、そこに彼はいた。愛馬の首にしがみつき、涙を流している。彼らしい、とマーシャの顔が綻んだ。

 「ケビンさん」

 ゆっくりと近付き、声をかけると嗚咽がぴたりと止んだ。月明かりが、ケビンの真っ赤な目と鼻を明確に照らしている。

 「マーシャ殿・・・!」

 泣き腫らした目がマーシャの姿を捕らえると、抱きつかんばかりの勢いで振り返った。愛馬にぶつけていた感情をそのままマーシャにぶつけるつもりらしい。マーシャは数歩後ずさるが、既に両手はケビンのそれに握られていた。

 「ありがとう、ありがとう・・・マーシャ殿っ。貴殿は、退役し・・・たとはいえ、ベ、グニオンの、騎士である、のにっ・・・クリミア奪還に力を尽してくれた・・・」

 「ケビンさん。わたしも嬉しいです。こうしてクリミアが姫やあなたの元に戻って」

 デインの奇襲。それを止められなかった事、エリンシアを守り切れなかった無力感。捕虜としての屈辱。それを耐えてここまで来た彼の涙を笑う気にはなれない。しかし、言葉途中にも止めどなく流れる涙を拭いたいのだが、マーシャの両手は自由が利かない。

 ようやく右手の甲で拭った拍子に、自由になった手で手拭いを差し出せた。「かたじけない」とケビンはそれで目を押さえたが、使い物にならなくなるもの時間の問題だろう。

 できればこのままこの感動を共有していたい。だが、明日には話す機会すらないかもしれないのだ。むせび泣く姿にはばかられるが、一呼吸おいて、マーシャは口を開く。

 「ケビンさん。わたし、ベグニオンに戻れる事になりました」

 彼はどう思うだろう。そんな事どうでもいいだろうか。

 洟をすする音は止み、馬の呼吸だけが聞こえた。火照った頬とは逆に、唇は冷たくなっているのに気付く。ケビンはゆっくりと握っていた手を離す。充分に水を吸った手拭いで乱暴に両目を拭うと、満面の笑みになっていた。

 「そうか・・・よかったではないか。これで貴殿も祖国で力を振るえるのだ。貴殿の力なら、ベグニオンでも遜色はない」

 心臓がどくんと鳴った気がした。予想できた反応。彼ならきっと、手放しで喜んでくれるだろうと。

 「はい。ケビンさん。わたしの方こそ、ありがとうございました。あなたと一緒に戦えて本当に良かった」

 決して、引き止めてはくれない。「傍にいてくれ」と言ってはくれない。

 「うむ。おれもだ。貴殿のおかげて、おれも何度救われたか」

 力強く頷くのを見た瞬間、マーシャの身体がふわりと浮いた。

 泣いていたせいか、ケビンの唇は冷えたマーシャのそれには熱く感じられた。

 「だから、お別れです。ケビンさん、本当にありがとうございました!」

 ここまですれば自分の気持ちに気付いただろう。

 早口に叫び、マーシャは踵を返す。明日からは顔を合わす事もないかもしれない。泣いていた時よりもさらに真っ赤になった顔を、唇に残る熱い感触を思い出にベグニオンに帰るのだ。

 「マーシャ殿!」

 マーシャはびくりと立ち止まる。だが、期待するのは止した方がいい。どこからかマーシャに告げていた。

 「遠くなるが同じ騎士、いつか会えるかもしれない。だから、どうか今生の別れのような事は言わないで欲しい・・・!」

 やはり期待しなくて良かったと思ったが、その言葉だけでも充分だった。また会う機会があるかもしれない。遠くにあってもこの人を想い続けられる自身はあった。

 「騎士が一度交わした友情は永遠なのだ!」

 たとえ、永遠にこの思いに気付いてくれなくても。
2006/12/09戻る
10 空回りにケビン視点。