「こんな夜遅くに、ごめん……!」
 先刻の自信など欠片もない声とは違う、強さを含んでいた。扉の闇の中では、「別に気にしていない」と答えが返ってきた。相手は完全に目が覚めたようだ。それが余計に緊張を張り巡らせるも、必要以上に跳ねる心臓を落ち着かせようと深呼吸する。
 こんなにも、ぼくが緊張しているのがわかるだろうか。扉は全て開いている訳ではなく、淡い月の光にが入り込んでいる部屋の中、更には部屋の主の様子すら窺がえない。闇の中では確かにキルロイに視線を送っている事はわかるのだが。

「あのね、ワユさん」
 沈黙と雑念に耐え切れずにキルロイは切り出した。
 昼間のこと。
 あれは、そういう意味でいいのかな。
 さすがにそこまでは追求できなかった。ここまで来てしまったが、はっきりとさせるのには気恥ずかしさを感じてしまう。あまり繊細とは言えない彼女だけれど、そこはわかっているはずだ。



 はずだ。きっと。
 だが、暗闇からは沈黙とキルロイへの不審な視線が流れていた。数回のまばたきの後も、その状況は変わらない。
 あれ?
 嫌な汗が背中に流れているのを感じる。もしかして、やっぱり違ったのか。勝手に妄想して、勝手な方向へ期待してしまっただけなのか。

「……あのね、キルロイ」
 彼女からの声がようやく聞けた。だが、どこか違和感がある。混乱しかけている頭でも、どこかおかしいのだと告げていた。思えば、小柄なはずの彼女の視線はも思ったより上からあるような気がする。良く良く耳を傾ければ、自分を呼ぶ声も普段よりも年―――いや、落ち着いているように思える。寝起きだからなどという理由では片付かないまでに。

「あ、あ、まさか……」
 扉が大きく開き、目が慣れた夜の世界へと浮かび上がった姿は、最悪な事に思い描いていた彼女ではなかった。
「あ、あ……すいません……!すいません……!」
 上ずる声に、呆れたため息が重なった。「夜は静かにね」と付け加えられて。
「キルロイ」
「は、はい」
 恐る恐る折れ曲がった腰を上げる。恥ずかしさと自己嫌悪が体中に血のように巡っていた。
「隣よ」
 夜半のためか、紅の引かれていない唇が少しだけ上がる。長年斧を握っている指は、だがすらりとしていて左の方角を差していた。
 キルロイの頭は沸騰しそうだった。再び勢い良く腰を曲げてその場を去って行く。無論「がんばってね」との小さな声援は耳には入っていない。


 きい、と高い音を立てて扉が閉まると、静かな夜は再び戻って来た。風すら落ち着き、砦を囲む草葉も眠っているように動かなかった。
 そんな夜の舞台を、キルロイは左方向とは間逆へと力なく歩いていた。薄暗い廊下に、くすんと鼻を鳴らす音が響く。


一つ前 もういい

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