朧月

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 ああ、ここまで来てしまった。
 
 キルロイの長身は、暗闇の中一箇所をふらふらと揺れている。月明かりもおぼろげな中、廊下には燭台もないのに、迷いもなくここまで歩いて来られたのは、長年住み慣れた庸兵団の砦だからだ。砦、と言っても堅牢な造りでもない。雨漏りも数箇所見られる上、壁は長年の風雨で所々に隙間が生まれ、冬の寒さを防ぐには心もとなかった。ただ、大人数の他人同士が住むには都合が良く、傍から見ても幾世帯の大家族で構成される農家に近かった。


 その傭兵団の構成員の一人、キルロイに突如、驚くべきことが舞い降りてきたのは昼間だった。
 そして意を決したのは自分の寝台の中だった。
 眠れずに何度も寝返りを打ち、昼間の事を思い出しては、もんどり返っていた。そんな自分と、嫌な温度に暖められた寝台に嫌気が差し、勢い良く起き上がったのがほんの少し前。
 だが、自分も男だと、前方をきっと睨んで扉を開ける。
 
 色恋沙汰とは無縁、ちなみに健康とも無縁の人生を送ってきた。そんなキルロイの前に現れたのが、心身ともに壮健な女剣士だった。長い紫の髪と、小柄で活発な身体。無鉄砲さは欠点だと思うが、それも含め、持ち前の明るさと前向きさ、誰よりも高い向上心はキルロイには眩しく思えてならなかった。
 普段は静かに暮らし、傭兵の仕事では常に後方にいた自分と彼女とは違いすぎる。いつだったか、剣を勧めてきた時には、熱を出しやすい自分の身体を鍛えようとしたからだと答えを勝手に出していた。
 けれど、それは違った。確信だ―――と思う。
 彼女が庸兵団に身を寄せて三年。仲間として過ごしているうちに、諦めていた彼女との間で何か違う空気が生まれているのを感じてきた。
「運命の人だから」
 三年前にも、そう言われた。驚き、戸惑うもそれは勘違いなのだと思い込み続けて三年。そう、三年。若いキルロイでも、彼女に軽蔑されたくがないために、抑えてきたのだと自分と向き合って答えを出したのだ。今しがた。
 昼間、あんな事があれば、いくら女性の心情の機微に疎いキルロイでも確信してしまう―――ずっと心にかかっていた霧は晴れ、意を決する道が拓けたのだ。
 その道のりを進もうと、強くとも、皆を起こさぬよう配慮した足取りだった。だがしかし、
 ああ、でもやっぱり勘違いだったらどうしよう。
 いきなり来て引かれたりしたら。そしたら、明日からどうやって顔を合わせたらいいんだ―――
 近付いていくたびに元来の弱気さが枷となり、余計な念が生まれては消える。繰り出す足は次第に弱いものへと変わって行き、キルロイの部屋と大して変わらない造りの簡素な扉が視界に入った頃には、当初の気概が今では豆粒以下の大きさとなって、キルロイの胸に遠慮がちに存在していた。

 女子供でも感嘆に蹴破れそうな扉は、しんとした闇にひっそりと浮かんでいる。
 ここまで来たが、引き返せる。
 今ではその意思がキルロイの脳裏の半分を占めていた。反面、不甲斐ない己を責める意思もある。

 ああ、どうしよう。
 闇の中を行き来する。扉の向こうにも恐らく闇が広がっているに違いない。そこにはキルロイと変わらない部屋がある。違うのは、寝台で眠るのが彼女だという事。それを思うと、とくんと一度だけ胸が大きく高鳴った。背中まである紫の髪が洗いざらしのシーツに広がって、安らかな呼吸が繰り返されているのだろう。その姿は、淡い月の光だけが見ているのだ。なんと羨ましい事か。

 中庭から草葉がこすれ合う音が聞こえる。それが止むと、薄い木製の扉を通して寝息まで伝わってくるような気がした。
 すう、と大きく息を吸い込む。
 一度溶けかけた決意は、固まりもせず、完全に離散してもいなかった。
 もう一度、呼吸を整えようと息を吸い込む。静かな夜の空気が肺一杯に広がった。それが迷いと言う淀みに染まり、暗い廊下に吐き出される湿った音と、蝶番が鳴る音が重なった。

「う、わっ」
 古い鉄がこすれる音よりも高い声が廊下に響く。この部屋の隣に、他の仲間が眠っている事などすでにキルロイの思慮の外にあった。
「……誰?」
 ゆっくり、と言うより寝ぼけている声が、夜よりも暗い闇の中からした。その闇から浮かび上がるより先に、それが誰だかは知っている。
「あ、あ、あ、あ、あの、ごめん……!」
 ようやく出た言葉に、キルロイは嫌悪に陥る。あれほど自分の部屋で試行してきたのに。最初にかける言葉から、その後の(望ましい)展開までも。だが、緊張と想定外の出来事は、何もかも吹き飛ばす魔法を持っていた。
 扉の向こうの相手は、沈黙のままだった。
 そうだよね。呆れているかもしれないよね。こんな深夜に、いきなり訪ねたのはまずかったかもしれない。
 だが、それでいいのか。
 溶け切らずにいた部分が、キルロイにそう語りかける。今まで積み重ねてきた想いは何なのか。当たって砕けてしまえと決意したのは誰なのか。
 今はまだまどろみの世界に半身を置いている彼女が、それから全てを現に戻そうとしているような気配がした。

 



男なら           漢なら!          えっと、その…… 


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